しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <モアブへのさばき>

2022-12-28 | エレミヤ書
「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだので、おまえも捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」(エレミヤ48:7新改訳)
モアブ民族は長い間平和のうちに暮らしていて、敵に攻められることがなかったようだ。しかし今度ばかりはそうも行かず、バビロンのためひどい目に会う、とエレミヤは預言し、そのとおりになった。▼彼らの罪は大きく分けて三つあった。ひとつは心の高ぶりである。親戚関係(モアブの祖・ロトはアブラハムの甥)にあるイスラエルに冷たくし、その苦難や滅びのときは助けるどころか侵略者に加担したのだ。第二は真の神を信じないでケモシュという偶像を拝み、小さな子供たちを火で焼くという、恐ろしい風習を取り入れた。第三は財宝をためこみ、まことの神ではなく富を頼りにしたこと。それを知ったバビロン軍が黙っているはずはない。モアブは高い所から引きずり下ろされ、持っていた財産を全部奪われ、バビロンに捕囚として連れて行かれた。▼高慢不遜(こうまんふそん)な生き方は必ず報いを受ける、モアブ民族はその典型となったわけである。ただし彼らは永遠にほろびる、というわけではなく、神のあわれみによって回復するとも預言されている。「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。―主のことば。」(エレミヤ48:47同)

ここに挙げたモアブの三つの罪を全部否定し、まことの神への信仰をつらぬいたモアブ人が一人いた。そう、ルツである。彼女はベツレヘムの女性ナオミに出会い、イスラエルの神こそ唯一、まことの神であることを知った。▼ルツはこうして自分の民族・モアブを離れ、その神を捨て、貧窮の生活をもいとわず、ナオミについて異国の地ベツレヘムにやって来た。旧約聖書でもっとも美しい物語といわれるルツ記にそれらが書かれている。そして彼女はユダヤ人ボアズの妻になり、やがてその四代目にダビデが生まれたのである。つまり、ダビデ王の曾祖母はモアブ人ルツなのだ。▼真の神に対するほんとうの信仰を抱くなら、民族も出自も関係なく、人は驚くべき祝福にあずかることができる。ルツの一生はその証明でもある。


朝の露 <ペリシテ人について>

2022-12-27 | エレミヤ書
「ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことば。」(エレミヤ47:1新改訳)
エレミヤはエジプトに続いて(46章)、バビロン軍がペリシテ人を破滅させることを預言した(本章)。ペリシテ人はハムの子孫で、海洋民族として発展、最盛期にはイスラエルを非常に苦しめた。初代の王サウルが死んだのはペリシテ戦においてである。彼らはエジプトの河口から出発し、クレテ島、ツロやシドンに植民地を作り、ガザ地区にも住んだ。アナク人(巨人族)とも混じり、大きな体格の兵士がいた。ダビデが倒したガテのゴリアテはその典型である。▼彼らは偶像礼拝にもふけり、半魚人のダゴンという神が知られていたし、ハエの神、バアル・ゼブブも拝んでいた。このような偶像文化の民は永続して繁栄できないと聖書にあるとおり、彼らはやがて衰退(すいたい)し、歴史から消えて行った。エレミヤは「すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに主は、ペリシテ人を、カフトルの島(クレテ島)の残りの者を破滅させる」(本章4節)と神の宣告を告げた。彼らはユダの滅亡をあざ笑ったが、同じ征服者であるバビロンに滅ぼされたのである。▼ただし、ペリシテ民族とイスラエル民族には大きな違いがある。前者は滅びて終わりだが、後者イスラエルはやがて回復し、キリスト再臨のとき神の民となるのである。「わたしは、あなた(イスラエル)を追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」(エレミヤ46:28同)

朝の露 <エジプトの滅び>

2022-12-26 | エレミヤ書
「その中にいた傭兵も、肥えた子牛のようだ。彼らもまた、背を向けてともに逃げ、立ち止まろうともしない。彼らの滅びの日、刑罰の時が、彼らの上に来るからだ。」(エレミヤ46:21新改訳)
本章から五一章までは、エレミヤが諸国に臨む運命について預言したもので、最初はエジプトの敗北と凋落(ちょうらく)を語っている。▼そもそもユーフラテス川一帯に起こる帝国と南のナイル川に繁栄したエジプトとは、中東一帯の覇権(はけん)をめぐり、いつも対立抗争する関係にあった。その間にあるイスラエルは両者の争いに巻き込まれ、このときはバビロンによって滅ぼされたのである。ユーフラテス川近くのカルケミシュで会戦した両国は、エジプト軍の敗北に終わり、ネブカドネツァルは強力な軍勢を率いてエジプト軍のあとを追い、ナイル川一帯まで侵入した上、多くの神殿を焼き、財宝と人々を捕らえて引き上げたわけである。敗因はエジプトのひどい偶像礼拝とぜいたく、心の高ぶりだった。エジプトほどたくさんの神々を作り拝んだ国はほかにない。イスラエルはそこから脱出し、主なる神を信じたのに、またエジプトに戻ったため、国を失うはめになった。▼ヤコブ一族がエジプトに移住して約450年、70人から数百万のイスラエル民族に増えたが、苦しめられたためモーセに率いられて出エジプトとなった。そしてシナイ山に唯一の神と契約を結び、イスラエルは偶像を捨て、唯一の神に仕える契約の民となって約束の地カナンに入り、これを占領して800年間に及んだ。しかしどこまでも契約を守り、唯一神信仰に生きればよかったのに、それが出来ず、最後には偶像文化に戻ってしまい、国力が衰退した結果、ふたたびエジプトを頼るようになったのであった。▼これは私たちキリスト者への警告でもある。この世から救い出され、永遠の御国を目指して信仰の旅を続ける私たちが、ふたたびこの世を愛し、その生き方に戻るならば、救いを失うばかりか、最後は悲惨な結果とならざるをえない。使徒ペテロが述べているとおりだ。「主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。」(Ⅱペテロ2:20同) 


朝の露 <書記バルクの悲嘆>

2022-12-22 | エレミヤ書
「あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。」(エレミヤ45:3新改訳)
バルク(受祝福者の意という)はエレミヤの書記で友人であった。この人がエレミヤの生涯と言葉を記さなければ、今日私たちがエレミヤ書を読むことはできなかった。彼の功績は絶大だが、それだけに大変な苦労を共に味わったわけである。その苦衷(くちゅう)が現れているのが本章。▼預言者におそいかかる嵐のような迫害、ごうごうたる非難の声、それは傍(かたわ)らにつき添うバルクにもふりかかったにちがいない。なかには、「エレミヤにああ言わせている黒幕はバルクだ」と言いながら、攻撃の刃(やいば)を向けて来る人々もいたろうから、「私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」とつぶやいたのもわかる。▼だが神はバルクの苦労をよく知っておられた。そもそも書記として召し給うたのは神ご自身だったからである。書記の仕事は預言者にまさるとも劣らぬ重要な立場だ。その名のように、晩年に至ったとき、彼は恵みと祝福にあずかっただろうと想像する。

私は聖書の日本語訳を読みながら半世紀にわたる信仰生活を送ってきたわけだが、ときどき翻訳にたずさわった方々のご苦労を想像する。それらの人たちは、ほとんど名前があらわれない。またあらわれたとしても、注目する人は少ないであろう。しかし聖書の訳本が世に出るまでに、どんなに多くの労が払われたことであろうか。そのほんとうの価値を知っておられるのは神だけである。▼聖書だけではない。毎日歌う聖歌や讃美歌も日本語に訳した方々(あるいは自分で作詞作曲された方々も大勢いる)がおられ、その労によって私たちは恵まれ、力や慰めを与えられて信仰生活を送っているわけである。そのようなことを考えると、キリスト者は決して一人で信仰生涯を送ることができないことが身に染みてわかる。ごく一部分の信仰者だけの名がおもてに出て私たちの目にふれるのだが、大部分は隠れたままである。▼やがて天に行った時、それこそ数えきれない人たちがキリストのために自分をささげ、働いたことが、宇宙の星のようにかがやいているのを私たちは見るであろう。すべての時代の全ての信仰者たちが、ただキリストを愛し仕える動機から自分の努めを果たし、それが一大構造物となって宝石の都、天のエルサレムを形づくっているのではないだろうか。都の中心にいます父御子御霊の神から発する栄光が聖徒たちの愛のわざを照らし、宝石のようにかがやかせている。新天新地はそのような世界なのであろう。まもなく、この都が姿を現わすにちがいない。使徒ヨハネがおどろきと感動をもって見つめた都である。




朝の露 <エレミヤと避難民たちの対決>

2022-12-21 | エレミヤ書
「そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。」(エレミヤ44:15新改訳)
エレミヤはバビロン捕囚を逃れ、エジプトに避難した全ユダヤ人と対決した。このときの会合は非常に大規模なものだったと思われる。▼エレミヤは集まった民に、「エジプトに逃れたことは神に逆らった行為であり、しかもなお偶像礼拝を続けるなら、あなた方は神に罰せられ、滅びるしかない」と宣言した。だが民は一致して彼に抗議の声を上げた。自分たちは偶像礼拝をやめない、それをやめた時、このように惨めな災禍がふりかかったのだから、と言って・・・。エレミヤの生命をかけた説得も、残留民たちの心を変えることはできなかった。これは人の心に存在する神への反逆性が、いかに固いものであるかを示す。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい」(エレミヤ17:9同)とあるとおりで、御霊によって新しく生まれ変わる以外、道はないのである。▼モーセに率いられたイスラエルがシナイ山のふもとで、神に誓ってから約800年、イスラエル民族はカナン原住民の偶像礼拝に染まり、見るもあわれな堕落状態になってしまったことがわかる。それが亡国の原因だ、とエレミヤがどれほど忠告しても、もはや聞く耳を持たなかったイスラエル、そのみじめな姿を私たちは心に焼き付けなければならない。なぜなら、今の世界は本質において、このイスラエルをそっくり拡大した姿と変わらないからである。