しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅱサムエル19章 <シムイ>

2020-06-17 | Ⅱサムエル記

「ゲラの子シムイはヨルダン川を渡って行き、王の前に倒れ伏して、王に言った。『わが君、どうか私の咎を罰しないでください。王様がエルサレムから出て行かれた日に、このしもべが犯した咎を、思い出さないでください。王様、心に留めないでください。』」(Ⅱサムエル18,19新改訳)

シムイは卑怯この上ない男であった。ついこのあいだダビデを呪っておきながら、形勢が逆転すると、一転して命乞いをしたのである。家来は怒ったが、ダビデはそれを抑え、シムイをゆるした。しかし後に、彼はソロモンにより死刑にされている(Ⅰ列王記2章)。▼シムイに見るように、人の心は不実であり卑怯なものである。ペテロも最後の晩餐の席上で主に対し、「いのちを捨ててもあなたに従います」と言っておきながら、数時間後に大祭司の庭で詰問されると、あんな男は知らないと呪いをかけて誓い、うらぎったのであった。復活の後、主はそんなペテロを責めることなく、「わたしの羊を飼いなさい」と新しく任命された。聖霊により、神の愛に満たされる時、人の性格は本当に変えられることを主はご存知であられた。◆この章でシムイと共にヨアブの言動が目立つ。ヨアブはダビデの家来なのに、ここでは立場が逆転し、ダビデに命令し、手玉にとっている。つまり彼は王の懇願を無視し、アブサロムを虐殺し、王ダビデが取り乱して悲嘆にくれているのを冷ややかに眺めていた。これ以上冷酷な態度はない。そして、感情に溺れている場合ですか?と詰問し、息子の死をいつまでも悲しんでいないで、王として毅然とした態度を取りなさい、そうしなければすべての兵はあなたから離れ、あなたは一人っきりになります、と脅したのだ。なんと高ぶりに満ちたヨアブの態度であろう。◆ヨアブはダビデ王の弱みを握っていた。それはヘテ人ウリヤの死は王の指図によったということである。罪なき忠義の兵士を私に殺させたダビデ王よ、あなたに反逆し、あなたの命をねらったあなたの息子を私が殺したところで文句はないでしょう。いったい、我々忠義な部下たちと反逆の息子と、あなたにはどちらが大切なのですか?もし、部下たちより息子アブサロムのいのちの方が大切だった、と言われるなら、もうこの国は終わりです。崩壊するだけです・・・と。◆ヨアブにはわからない。ダビデがどれだけ苦しんで来たか、神の審判の刃にいかにおびえ、なやんで来たか、ということが・・・。罪の結果生じた、息子アムノンの不倫行為とその死、そして今度はアブサロムの反逆と死、崩れつつあるダビデの家庭、そして国民の中に頭をもたげてきたダビデに対する不満と批判、言うことを聞かない側近の部下たち、すべてがきしみ出していることに対するおびえがダビデを苦しめている。それを理解しようともせず、冷酷、残忍、野望に生きるヨアブは、自分では正論を吐いているつもりだったろうが、まさにダビデの将として失格だった。

 


朝の露 Ⅱサムエル18章 <アブサロムの死>

2020-06-16 | Ⅱサムエル記

「彼らはアブサロムを取り降ろし、森の中の深い穴に投げ込み、その上に非常に大きな石塚を積み上げた。イスラエルはみな、それぞれ自分の天幕に逃げ帰っていた。」(Ⅱサムエル18:17新改訳)

イスラエルの王位をめぐり、ダビデ親子はついに戦わなければならないところに追い込まれた。その結果、油注がれた王で父でもあるダビデに反逆したアブサロムは、悲惨な死をとげたのである。▼結局、アブサロム戦死の最大の原因はイスラエルの神をおそれず、父ダビデに代わって王座に就こうとする野望を抱いたことにあった。そもそも彼の容姿は非の打ちどころがなく、イスラエルで最高の美しさを備えた男性であった(Ⅱサムエル14:25)。おまけにゲシュル王家の血筋で人望もあり、ダビデの後継者となっても何ら不思議ではなかった。そのため、いつしか自惚れてしまい、王になって当然と思うようになったのであろう。▼だがイスラエルの王位は神に選ばれ、油注がれた人が就くものであり、異邦諸国のそれとはまったく違うものである。甘やかされて育った不敬虔なアブサロムには、それがわからなかった。これは息子たちに対する父ダビデの接し方にも問題があった、というべきであろう。かくて王家の内紛はこのあとも続いて行く。▼本章で目立つのは、将軍ヨアブの極悪非道さと、ダビデの上にふりかかった厳粛な審判である。前者はさておき、ダビデはかつて忠義な部下ウリヤを卑怯きわまりない方法で殺し、その妻を奪った。いわゆるバテ・シェバ事件である。その実を刈り取るときが来た、それがアブサロムの死であった。思えば、ダビデが自分の不倫を隠すため、ウリヤが戦場で死ぬように仕向けたその命令を実行させられたのはヨアブであった(Ⅱサムエル11章)。そして今度もアブサロムを虐殺したのはヨアブであった。ダビデの身勝手さを裏で知っていたヨアブは、今度は王の助命の願いを聞かず、その息子を殺したのである。▼ダビデと部下ヨアブの間にあった「ドロドロした心の闘争」は読む者の心を暗くするが、一面、「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない」(Ⅱサムエル12:10同)と仰せられた神の審判が臨んだ結果が息子アブサロムの死であることを思うと、非常に厳粛な思いに満たされる。パウロは尊い福音に背を向けたガラテヤの人々に、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7同)と警告している。恵みの御霊を侮り、その御声に背くことがないよう、常に目をさましながら歩もうではないか。

 

 


朝の露 Ⅱサムエル17章 <アヒトフェル>

2020-06-15 | Ⅱサムエル記

「アヒトフェルはアブサロムに言った『私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜すぐに、ダビデの後を追い始めます。』」(Ⅱサムエル17:1新改訳)

アヒトフェルはダビデの助言者で、神のような知恵を持っていた。その彼が敵に回ったのだから、こんな恐ろしいことはない。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はすべて、ダビデにもアブサロムにもそのように思われた。」(Ⅱサムエル16:23同)▼もし冒頭の提言が実行されていたら、ダビデ王はその夜殺されていたであろう。その意味で、ここは息詰まる場面だった。このときダビデの取った方法が神に祈り求めることであった。なぜなら、それ以外に道はなかったからである。「そのときダビデは、『アヒトフェルがアブサロムの謀反に加担している』と知らされた。ダビデは言った。『主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』」(Ⅱサムエル15:31同)▼そもそもアヒトフェルの致命的な欠点は、神に油注がれた王に刃向かうのは最大の罪であることを認識しなかった、もしくは軽視したことだ。その反対に、ダビデはサウルに何度いのちをねらわれても、決して手向かわなかった(→Ⅰサムエル24:6、26:11)。なぜなら神を心からおそれる敬虔な信仰を持っていたからである。アヒトフェルにはそれがなかった。つまり本質的に高ぶっていたのである。▼たとえ世界を動かすほど優れた知恵を持っていても、神に対する謙そんな信仰に生きていなければ、最後に自ら墓穴を掘る。その好例がアヒトフェルといえよう。こうしてダビデは神に祈ることにより、最大の危機を切り抜けたのであった(Ⅱサムエル15:31)。世の中には知略に長けた「・・・の神様」と言われるような人がいる。博学多才の権化もいる。しかしキリスト者の赤子のような純真な祈りと神への信頼は、それらを打ち破るのである。というのは、神はおさなご、乳飲み子の口に力の基を置いて力ある敵を打ち破ることを良しとされるからだ。だから世の中のゴリアテを恐れ怖がる必要は少しもない。ダビデをまね、ことあるごとに祈ろうではないか。

 


朝の露 Ⅱサムエル16章 <シムイ>

2020-06-11 | Ⅱサムエル記

「王は言った。『ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、主が彼に「ダビデを呪え」と言われたからだ。だれが彼に「おまえは、どうしてこういうことをするのだ」と言えるだろうか。』」(Ⅱサムエル16:10新改訳) 

今や息子に生命をねらわれる身となったダビデは、泣きながらエルサレムを脱出する。とぼとぼ歩く一行のそばに、ベニヤミン族のひとりシムイが近寄ってきて、ダビデをのろい、石を投げつけ、嘲笑った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ」とさかんに呪いの言葉を吐きながら・・・。彼はかねてより、サウルの王位をダビデが簒奪(さんだつ)したと思い込み、うらみと憎しみを抱いていたのであった。▼悲嘆のどん底にあるダビデは、出て行け、血まみれの男、と呪いを浴びせられた。まさに「やけどに唐辛子を擦り込む」以上の仕打ちであった。しかしすべてに神の御手を感じていた彼は、はやる家来たちを抑え、シムイに干渉しなかった。「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから」(11同)とは、バテ・シェバ事件以来、彼の心がいかに取り扱われ、砕かれていたかを示している。▼キリストもまた、十字架につけられた上に、ありとあらゆる呪い、軽蔑、あざけりの言葉を浴びせられたが、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34同)と祈られた。なんと崇高なゴルゴタの光景であったろう。悪魔は総力を結集して、神のひとり子を呪いの木につけ、断罪した。しかし勝利したのはどちらであったか。断罪されたのはどちらであったか。罪が愛に呑みこまれ、死がいのちに呑みこまれた。こうして、まもなく子羊をほめたたえる賛美が天地を埋め尽くす時が来る。▼ところで、このシムイという男もまた卑劣この上ない人間であった。神に油注がれた王を呪いに呪い、自分のうっ憤をはらしておきながら、後にダビデがアブサロム戦に勝利して帰還すると、形勢が逆転したのを見て、真っ先にダビデ一行を迎えたのである(Ⅱサムエル19章)。そして王の前に倒れ伏して「わが君、どうか私の咎を罰しないでください。・・・このしもべが犯した咎を、思い出さないでください。王様、心に留めないでください」(同19:19)とあやまったのだった。卑怯、恥知らずとはこのことだろう。しかしダビデはシムイを罰しなかった。▼しかしこのような人は多い。ネット上でさんざん個人攻撃をし、悪口を浴びせ、攻撃された方が傷つき、自殺に追い込まれたりすると、さっと隠れて消える。人の持つずるさ、卑怯さ、それは昔も今もまったく変わっていない。それが万人の持つ罪の本質だからである。だから一歩退いて、頭と心を冷やし、もしかするとシムイの姿は私の姿かもしれない、そう思い始めたとき、私たちはゴルゴタの丘に招かれているのである。「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。」(ヤコブ3:9,10同)

 

 


朝の露 Ⅱサムエル15章 <アブサロムの反乱>

2020-06-10 | Ⅱサムエル記

「ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。『さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。』」(Ⅱサムエル15:14新改訳)

実家のゲシュルから帰ったアブサロムだったが、父ダビデも部下のヨアブもよそよそしく、相手にされないことを感じているうち、彼の心に野望が芽を出し、育ち始めた。それは父の王位を力で奪い取ることである。▼四年にわたる周到な準備ののち、彼はついにクーデター計画を実行にうつした。ひそかに賛同者をヘブロンに集め、「今からイスラエルの王は私・アブサロムである」と宣言したのである。その結果、全国から続々と支持者がつめかけた、とある。その知らせはまもなくエルサレムにいるダビデに届いた。若いころから多くの戦いを経験して来たダビデは危機的な情勢をすぐ見抜き、迅速に行動を起こした。このあたりは、機を見るに敏な戦略家ダビデの面目躍如といったところだ。▼とはいえ、バテ・シェバ事件で悔い改めた彼を神は赦されたが、その結果は刈り取らなければならなかった。「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない」(Ⅱサムエル12:10同)とのおことばが実現し始めたことがわかる。それにしても三男アブサロムの心は、美しい容貌とはうらはらに陰険でどす黒さに満ちていた。父の王位がどうしても欲しい、そのために周到な準備を重ね、国民の心を自分につけ(6)、頃合いはよしと反逆ののろしを上げたのであった。「この謀反は強く、アブサロムにくみする民が多くなった」(15:12同)と記されていることからみて、最大の危機だったことはまちがいない。さぞダビデは悲しみに満ちて神に哀願したであろう(→詩篇三篇)。▼さて、アブサロムの根本的な過ちはどこにあったか?・・・。それは、「父の王位が神から来たもので、決して人間的な計画によって獲得されたものではない」という信仰的事実を知らなかった、もしくは、知っていてもそれをあなどり、自己の力で王位を奪うことができると考えたことである。イスラエルの歴史はそんなものではない。唯一の神とおごそかな契約を結ぶことにより成り立っているのがこの国であり、王位も神の定めによっている。つまり、神に選ばれた器だけがそこに就くことを許されるわけで、自分の願望などで座ることは絶対にできないのである。たとえ父が破廉恥な罪を犯し、民の笑いものになっていたからといって、王座から降ろされるかどうかは別のこと、それは神の御命令によるのである。ダビデに愛され、国一番の美しさと容姿を備えて民の羨望の的であった三男アブサロムは、自分こそ父に代わって王位について当然と思い込んだ。もしかすると、「あんな不倫の子ソロモンを王にしてたまるか」との反発があったのかもしれない。とにかくアブサロムの高ぶりはサタンの高ぶりと本質を一つにする。かれは美しさの極みとして造られたため、み使いの位を離れ、神の座を望んだのだったから。▼教会のえだとして生かされている私たちは、愛する主を心からあがめ、与えられた場所に感謝し、謙遜と喜びのうちにお仕えしなければならない。どのようなことがあっても、兄弟姉妹を批判したり、自分の立場に不満を抱くべきではない。主の御再臨は近づいている。まもなく私たちはこのお方の前に立ち、与えられた立場にあって、どのような御霊の実を結ばせていただいたかを報告することになる。人として、アブサロムと完全に反対の生き方をされた御子イエス・キリストの御謙遜を昼も夜も眺め、深い感動をもってお従いさせていただきたい。