「ゲラの子シムイはヨルダン川を渡って行き、王の前に倒れ伏して、王に言った。『わが君、どうか私の咎を罰しないでください。王様がエルサレムから出て行かれた日に、このしもべが犯した咎を、思い出さないでください。王様、心に留めないでください。』」(Ⅱサムエル18,19新改訳)
シムイは卑怯この上ない男であった。ついこのあいだダビデを呪っておきながら、形勢が逆転すると、一転して命乞いをしたのである。家来は怒ったが、ダビデはそれを抑え、シムイをゆるした。しかし後に、彼はソロモンにより死刑にされている(Ⅰ列王記2章)。▼シムイに見るように、人の心は不実であり卑怯なものである。ペテロも最後の晩餐の席上で主に対し、「いのちを捨ててもあなたに従います」と言っておきながら、数時間後に大祭司の庭で詰問されると、あんな男は知らないと呪いをかけて誓い、うらぎったのであった。復活の後、主はそんなペテロを責めることなく、「わたしの羊を飼いなさい」と新しく任命された。聖霊により、神の愛に満たされる時、人の性格は本当に変えられることを主はご存知であられた。◆この章でシムイと共にヨアブの言動が目立つ。ヨアブはダビデの家来なのに、ここでは立場が逆転し、ダビデに命令し、手玉にとっている。つまり彼は王の懇願を無視し、アブサロムを虐殺し、王ダビデが取り乱して悲嘆にくれているのを冷ややかに眺めていた。これ以上冷酷な態度はない。そして、感情に溺れている場合ですか?と詰問し、息子の死をいつまでも悲しんでいないで、王として毅然とした態度を取りなさい、そうしなければすべての兵はあなたから離れ、あなたは一人っきりになります、と脅したのだ。なんと高ぶりに満ちたヨアブの態度であろう。◆ヨアブはダビデ王の弱みを握っていた。それはヘテ人ウリヤの死は王の指図によったということである。罪なき忠義の兵士を私に殺させたダビデ王よ、あなたに反逆し、あなたの命をねらったあなたの息子を私が殺したところで文句はないでしょう。いったい、我々忠義な部下たちと反逆の息子と、あなたにはどちらが大切なのですか?もし、部下たちより息子アブサロムのいのちの方が大切だった、と言われるなら、もうこの国は終わりです。崩壊するだけです・・・と。◆ヨアブにはわからない。ダビデがどれだけ苦しんで来たか、神の審判の刃にいかにおびえ、なやんで来たか、ということが・・・。罪の結果生じた、息子アムノンの不倫行為とその死、そして今度はアブサロムの反逆と死、崩れつつあるダビデの家庭、そして国民の中に頭をもたげてきたダビデに対する不満と批判、言うことを聞かない側近の部下たち、すべてがきしみ出していることに対するおびえがダビデを苦しめている。それを理解しようともせず、冷酷、残忍、野望に生きるヨアブは、自分では正論を吐いているつもりだったろうが、まさにダビデの将として失格だった。