元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

黒田官兵衛の軍師の源は、人を見る目!!

2014-02-07 20:18:48 | 社会保険労務士
 黒田官兵衛は、策略の天才か??官兵衛をめぐる逸話!!

黒田官兵衛は、頭のよい、悪く言えば、謀略の智者みたいにとられているかもしれないが、彼は人の「心の機微」に通じる「人を見る目」を持った人物であるからこその作戦計画であったようだ。名将の智慧・勝負の智慧(河合正義編著)から、4つのエピソードを紹介します。

 <その1>
 光秀の謀反による、信長の「本能寺の変」の死を聞いたとき、秀吉は、備中高松城の水攻めの最中であった。世にいう秀吉の「中国の大返し」によって、「光秀の勝敗」を決したのは、まさか秀吉が短期間のうちに自分に向ってくるとは思っていなかった光秀自身の判断ミスにあるが、このとき当時の武将たちの想像もつかないような急進撃の一因は、秀吉の居城としていた姫路城(姫路は決戦場に向かう途中にあった。)に、軍勢をとどめなかった官兵衛の助言にある。(実際は軍の体制調整・情報収集のため2日ほど逗留したのであるが・・)いわく、「いったん家に戻れば手間取り、遅くなるのが人情であるので、姫路に立ち寄らないように。明智が塀を整えないうちに一気に主君の仇を打つべきである」と。彼のビジネスチャンスと捉えた場合は、果敢に攻めるという現代にも通じる兵法は、こういった人の「人情」を良くわかっていたからこそできたものである。もちろん、これが出来たのは、おふれを出して、行く先々で、炊き出し、たいまつをたかせたという用意周到の措置を取ったことにあるのは、言うまでもない。

 <その2>
 秀吉は光秀が籠城した勝竜城を包囲。このときも、「この城は京都に通じる要害であるので、光秀はここで決死の防戦をするでしょうから、力で抑えるのはよくない。本拠地の近江に通ずる道だけをあけて多くのかがり火を炊いて脅かせば、おそれをなして兵の多くは逃げ出すでしょう。」と助言。そのとおり、深夜になって光秀は城を捨て、民の襲撃にあって失命した。『防御に回った相手は、常に不安にさらされ、求心力を失っている。とくにリーダーが明確な打開策を示さない時はそうだ。構成員の心は互いに離れ、リーダーからも遊離し、不安、不信に揺れている。如水はそうした人心の動きを的確に読んで見通し、献策したのだ』(名将の智慧勝負の知恵・河合正義編著の”解説”より引用)

 <その3>
 秀吉の朝鮮出兵は、こう着状態になり、しかも秀吉の病も重くなったので、朝鮮からの出兵を引き上げる際、誰をその大役を担うべく派遣するかが問題になった。というのも、その大役を果たすべく者こそ、時期的にも、秀吉亡き後、日本を掌握する者であるとして、見られていたからである。皆は、徳川家康を押したが、秀吉は石田光成に任命したため、皆は、あの光成に天下は行くのかと嘆いた。しかし、官兵衛だけは、これで日本は家康の天下になると言った。理由としては、光成の人間関係等(頭は切れるが人望がなかったと言われる)から、光成がこの役目を誇って、人の妬みを買うことになり、人望のある家康の下に従うことになると判断したのだ。
 『時代の形勢の推移、人々の心の動きの方向を鋭く観察し、各人物の性格、器量を曇りのない目で比較できなければならない』(上記同”解説”より引用)としている。リーダーは、このような先見の目がないといけないといわれいるが、彼の見方は、大多数がこうだと言っている中で、反対の意見を唱えるのも難しいところ、彼の信念を持っての、こうだと言い切る「先を見る目」には驚かされる。

 <その4>
 黒田官兵衛の下に家臣からお見舞いが寄せられ、500石取りが名酒一樽と張りこんだものがある中、2000石取りの者が手づくりの菜を束にして贈ってきた。皆はケチな方だと言いあったが、「身の丈をあったものとしなければならない。何となく真心が伝わってくる」といって、部下たちの評価をいましめた。

 参考 名将の智慧・勝負の智慧(河合正義編著)PHP研究所発行

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