昭和38年3月開催の議会の行政報告において、松川市長は大麻(おおあさ)団地の受入について初めて正式に表明しました。
37年秋、用地買収対象者となった大麻(おおあさ)内は、住宅団地誘致期成会を結成し、連日のように地権者会議を開催しました。
地権者であった弘田正美、池田耕治は、ともども次のように語りました。
「大半は、売りたい人であった。売らないと突っ張った人はいない。中には引き続き農家やりたいから、代替地が欲しいという人もいた。代替の話しが主でなかったか。」
農民それぞれの生存権、生活権に関わる問題だけに時間はかかりましたが、「会議は以外に平穏に進み」(大麻<おおあさ>開基百年)先の助役説明どおり、38年2月20日には、一応の話し合いの決着をみたのです。
既に当時、札幌市の人口は爆発的な増加傾向をみせていました。
そのため、平坦で、地盤も良く、しかも札幌の都心まで12km前後という大麻(おおあさ)周辺に不動産業者の食指が伸びつつありました。
このまま放置すれば、いずれ無計画、無秩序な蚕食状況が現出するおそれがないわけではありません。そうであれば、既に真駒内団地(札幌市)の開発を目の前にしていた農民の間には、整然とした計画の下で開発される道営住宅団地の誘致は、むしろ望むところでもあったのです。
売り渡し価格のことで余波が生じました。
価格は反当り畑・32万円、沢19万円の2本立てでしたが、これは弘田によると、「当時畑の場合7-8万円が相場であったから約4倍になる」、というものでした。
そこで、「団地区域内に入らない人の中から、自分も売りたいという人も出てきた。実際、そういう人で他の農家に転売して、団地に出てみせをやった人もいる」(池田)と、区域外の人たちにも少なからずの動揺を与えたのでした。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」255-256頁.
写真:昭和39年8月12日大麻(おおあさ)団地開発起工式
同上書255頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。