江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

2012年感謝の言葉!

2012年12月31日 | その他

本日2012年12月31日(月)、除夜を迎えます

本年も大変多くの方々との出会いがございました。
お一人おひとりの出会いは、大変有意義な時間であり、
多くのことを学ばせていただきました。

皆様、温かなご支援ありがとうございました。

江別創造舎は、「個が生き、個が活かされる地域づくり」、「地域に生き、地域に活かされる人づくり」を目指し、地域文化振興活動を推進しております。
そして、本年江別創造舎は強力な力を得て、
これまで何度も検討を重ねて参りました江別カルタ制作の完成の目処が整いました。
この段階に辿り着くことができましたのも、お一人おひとりとの出会いが大きな力となって実現したものです。

それぞれが異なった場で
さまざまな思いを胸に
積み上げてきたキャリアが
共有された目的の中で一つになる、
それが、江別創造舎が目指す活動であり、
私が推進する人財マネジメントです。

本年皆様と共有された有意義な時間をもたせていただきましたことに
深く感謝し申し上げます。

来年も、皆様と共に365日という時間軸を辿っていきたいと思います。

皆様、良いお年をお迎えください!

来年も何とぞよろしくお願いいたします!


写真:音羽山清水寺鐘楼(京都市東山区清水一丁目)
 清水寺鐘楼は、岩澤の梵鐘(京都市右京区所在)で鋳造されたものです。
清水寺のどこにも鋳造所が刻まれていないのも岩澤様のお考えが反映されています。
(参考)2009年10月22日(木)「番外編!重要文化財清水寺梵鐘!」

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40年代ゴミ問題

2012年12月30日 | 歴史・文化

 昭和46年4月市長選挙で山田、一戸の保革両候補共、公約にゴミ収集の無料化を掲げていました。
 結果、当選した山田市長により46年10月から無料化が実施されましたが、それとは別に、40年代に入り都市化の進行と歩を一にして、ゴミの増大が目立ち始め、その収集と処理の問題がようやく閑却できぬ行政課題となりつつありました。

 当時は、まだゴミ焼却処理場は設置されておらず、不燃、可燃の別なくポリバケツや、段ボールなどで出された全てのゴミは、じん芥車で収集され、東野幌と篠津の捨て場で処理されていました。

 その後、44年10月から全収集地区を対象に、市指定の紙袋方式による収集が実施されました。
指定の紙袋(容量30リットル)は1枚12円で領布され、それ以外の代用袋を使用する場合は、1枚5円の証紙を貼ることが義務づけられました。同時に、可燃、不燃、そして危険物を分けて収集するというスタイルでした。

 当時45年頃から、使い捨て時代といわれました。
30年代に普及した耐久消費財が買い替えの時期にきていました。
東野幌のゴミ捨て場には、まだまだ使えるソファ・戸棚・電気洗濯機・掃除機・テレビなどが山をなしていました。

 41年から始まった「いざなぎ景気」の最中でした。
技術革新は、進み、新しい型の新製品が次々と市場に登場しました。
そうした風潮に随伴し、年々ゴミの処理量は急上昇しました。同時に、金属、プラスチックなどの不燃、粗大ゴミの比重が目立ち始めました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」359-360頁.
写真:紙袋方式によるゴミの収集作業の模様
 同上署359頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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40年代交通問題

2012年12月29日 | 歴史・文化

 昭和46年1月、江別警察署は、市内初の交通事故非常事態宣言を出しました。

 これは、年明け早々、1月17日現在で死者3人を出した事態を憂虜したためです。
以降、同署は人海戦術で監視体制を強めました。
市広報も3月1日付けで交通安全特集号を発行、全戸に呼びかけを行いました。
そして、市は、同年4月、交通安全対策基本法(昭和45年6月制定)に基づき、第1次江別市交通安全計画(46-50年度)を策定、交通安全施設の計画的整備に着手することになりました。

 昭和48年1月、再び交通事故非常事態宣言が出されました。
1月8日、酒気帯びた青年が乗用車を猛スピードで運転、道路横断中の男性をはねて即死させるなど、1月中に無謀な運転が原因で、早くも死者2人を出したための措置でした。まさに、車は、時として走る凶暴と化したのでした。
(中略)

 昭和46年度を初年度とする交通安全整備5カ年計画に基づき、安全施設等の整備、安全に関する知識の普及、冬期交通の安全など、総合的な交通安全対策に取り組むことになったのです。
基本をなす安全施設等とは、信号機、一時停止標識、横断歩道、あるいは歩道の設置などが挙げられます。ちなみに、信号機の年度別設置数をいうと、46年度0、47年度7、48年度10、49年度9と、年々着実に充実の方向を辿っていました。

 なお、その他の交通安全関係の施策としては、42年4月からの江別市民交通傷害保険、翌43年4月の婦人交通指導員(緑のおばさん)の配置、44年6月の江別市交通遺児養育手当支給条例の制定、それに47年度からはスクールゾーン(小学校、幼稚園、保育園所在地を中心とした半径500mの区域)を設定、同ゾーンに進入する車に対し警戒を呼びかけるための標識の設置を促進する、など幼児、学童を中心とした対策に力が注がれることとなりました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」357-359頁.
写真:昭和44年旧江別警察庁舎
 同上署358頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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山田市政と第2期建設計画

2012年12月28日 | 歴史・文化

 山出し長は、46年6月議会において初の市政執行方針演説を行いました。

 『常に市民の中にあって、市民と同じフロアに立ち、対話を深め、その心を心として行政に反映させ』
 山田市長は、以降3期12年間を通じ一貫する対話ある行政を力説しました。
 そして、重要施策として次の6点を挙げました。
①都市基盤の整備、②産業の振興、③矜育の振興、④市民福祉基盤の向上、⑤公害対策、⑥治水対策です。
いずれも松川市政からの継続課題ですが、これら課題解決の具体的指針として策定されたのが、サブタイトルを「豊かな生活と充実した環境を築く」とした第2期江別市総合建設計画(昭和46年-55年)です。

 同計画は、松川市政の江別市総合建設計画(昭和36年-45年)の後を継ぐ、街づくりの青写真ですが、その施策の基本方針として次の5項目が挙げられました。
①人間尊重をもとに都市機能を整備し、のびのびとした美しい街をつくる。
②生業確保のため産業基盤を拡充し、産業のさかんな街をつくる。
③健康優先の明るく清潔な生活を目指し、健康で楽しい街をつくる。
④全人教育のため矜育条件を充実し、文化のかおり高い街をつくる。
⑤社会連携をもとに生活の安定を図り、市民が大切にされる街をつくる。

そして、江別の将来の都市像を「上層豊かな躍動的文化都市」と位置づけ、10年後(55年)には人口10万人、「誰もが住んで気持ちよく、健康で働ける美しい都市環境」の創出を追求するとしました。
 幸い山出し長は、助役としてこの計画策定に関わった当事者でもあり、内容には精通していました。あとは、一つひとうの実践であるのみでした。

 山田市政の3期12年は、いずれも容易ならざる問題に直面し、市政が大きく揺れ動いた時期となりました。
大型店の進出と商店街近代化問題、北海道縦貫自動車道の問題、そして市立病院の赤字問題、それに狂乱物価と石油ショックによる市民生活の動揺など、どれを一つ取っても一筋縄ではいかぬ問題でした。

 時により、全体的な行政の停滞は、否めなかったのです。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」353-354頁.
写真:山田市長
 同上書353頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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松川市長勇退と市長選

2012年12月27日 | 歴史・文化

 昭和45年3月議会終了後、松川市長は明春の市長選には出馬せず、引退する意向を正式に表明しました。

 松川市長は、既に73歳であり、加えて体調も芳しくありませんでした。
ほぼ確実視されていた引退表明といってよいでしょう。

 古田島薫平市長のあとを受け、34年5月就任以降の3期12年は、都市建設への第一歩を踏み出すとともに、大麻(おおあさ)団地の開発を端緒とする地殻変動の時でもありました
まさに、江別は変貌しようとしていたのです。

 田園都市から近代都市へと大きく変わろうとする、その鼓動が脈々と打つのを見てとれる時代でもありました。
 36年,37年の2年連続の大水害が出来、苦難の時期ともいえましたが、大局で見ると、街づくりが大きく伸展した時、それが松川時代でした。

 松川引退表明を受け、保守、革新ともども早々と1年後の市長選挙に向け候補者選考に入りました。
保革両陣営共内部事情から人選は難航しましたが、結果、45年12月には山田利雄前助役(保守派)と一戸正太郎(革新派)の一騎打ちとなりましたが、ほぼ確定的となりました。
 山田は、戦後の22年から市内で薬局を営み、30年市議会議員に当選しました。
その後、議員任期中の32年、市収入役に転身、そして39年から市助役として松川市政の伸展に尽くした能吏でした。
 一方の一戸は、30年から4期連続市議会議員に当選、33年から社会党江別支部長として労働運動、平和運動の先頭に立つ革新陣営のエースと目されていました。

 明けて46年1月、事実上の選挙戦は動き出していました。
保革両陣営とも、市内の各所で知事、道義候補予定者とタイアップした演説会を開きました。
そのターゲットは、大麻(おおあさ)団地でした。
 46年選挙は、大麻(おおあさ)団地の入居が一段落後の初の地方選挙で、有権者は前回比50%増の4万3千人程度とみられました。
 大麻(おおあさ)団地の新市民、新有権者の市選挙に対する動向は、未知数でした。
その大半が札幌通勤者で、買い物もレジャーも札幌志向の強い、当時の新市民です。
 43年に大麻(おおあさ)に入居した辻富美子によると、『タクシーに乗って、市役所って言うと、運転手さんが「札幌ですか、江別ですか」って必ず聞くのね。聞かないで江別市役所へ向かうと、どこへ行くんだってしかられたことがよくあったって。市立病院もそうよ。』という地域なのです。
 この未知数の団地票が勝敗のカギを握っていたのでした。

 4月15日、市長選挙が告示され、25日の投票日までの熱い戦いが始まりました。
山田、一戸ともども、それぞれの公約を掲げての舌戦でしたが、保革の背景はあるとはいえ、それぞれ時代の色彩の中にありました。
 10年近くに及んだ高度経済成長時代は終息に向かっていました。
そして、高度成長の中から実質所得の増加、生活水準の工場とは別に、物価、公害、交通安全、塵などの問題が社会音大として前面化していました。

 その時代の、社会の象徴的な出来事が、42年「東京に青空を」をスローガンに登場したのが美濃部都政です。
 世は、社会は、確実に変わろうとしていました。

 山田は、その公約に公害のない企業の有地を挙げました。
一戸は、強制措置を伴う公害防止条例の制定を訴えました。
 そして、ともども、老人医療費、予防接種、塵収集などの無料化を訴えての、厳しい戦いとなりました。

  山田 利雄  19,045票
  一戸正太郎  14,840票

 下馬評は、僅差激戦でしたが、結果は、約4,200票差で山田の勝利となりました。
ここに、山田市政時代を迎えたのでした。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」352-353頁.
写真:2代目江別市長松川清市長(昭和34年5月)
 同上書226頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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交番の拡充

2012年12月26日 | 歴史・文化

 江別警察署は、国から道に移管され、北海道警察本部のもとで再スタートをきりました。

 その後30年代に入り、市内の警察体制は本署(3条5丁目)を中心に、派出所2、駐在所2で推移していました。
 そして、40年代には、43年の大麻(おおあさ)巡査派出所、角山警察官駐在所(在来の美原巡査駐在所の移転)の開設、さらには47年4月、老朽(昭和11年建設)手狭となった本署を国道12号に面した弥生町23番地に新築移転するなど、急速な市街地の伸展に対応し再編拡充したのでした。

 50年代に入ると、大麻(おおあさ)団地開発を契機とした相次ぐ新開地の誕生に併走しました。
そして、以下のとおり警察官派出所が開設することになりました。

昭和54年11月 朝日(朝日町)  
 管轄区域・朝日町、あけぼの町、東光町、大川通、江別太、豊幌
昭和56年12月 東野幌(東野幌)
 管轄区域・東野幌、西野幌、文京台
昭和60年5月 文京台(文京台)
 管轄区域・文京台、西野幌の一部

 これら派出所(平成6年7月、法改正により交番となりました)は、いずれも担当地区の巡回連絡、パトロールなど地区の防犯や事件処理を行うなどの他、市民生活のさまざまな利便に関わりをもっているところでした。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」346頁.
写真:昭和24年頃自治体警察の江別町警察署員
 同上署186頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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A Happy Christmas!

2012年12月24日 | その他

A Happy Christmas!

世界が夢に包まれる時
幼き頃からの夢が繋げられるクリスマス
A Happy Chrismass!

 2011年3月11日東日本大震災被災地である宮城県石巻市北上町十三浜大指、岩手県久慈市、陸前高田市で被災された女性たちによるプロジェクト「東北グランマ クリスマスオーナメント」が始動しています。
 これは、働く喜びと心の交流を図り、明日に生きる喜びの源とする願いを込めて結成されました。
 オーガニックコットン製品製造過程に出る残布を活用して制作されたグランマオーナとメントを通じて、働く喜びを味わうと共に、購入者間との心の交流、そして新たなビジネス創造の起点となることを願っての活動です。
(以上、公式ホームページより)

 東北グランマ クリスマスオーナメントについての詳細は、こちらをご覧ください。
 
 素敵な夢を!
 


写真:2012ミュンヘンクリスマスinSapporo

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夢工房トンデンファーム1年間ありがとうセール第4弾開催中のご案内!

2012年12月23日 | イベント

 このたび、夢工房トンデンファーム1年間ありがとうセール第4弾開催中!のご案内をいたします!

 江別市所在夢工房トンデンファームでは、1年間の感謝を込めて今月より毎週末ありがとうセールを開催し、クリマス直前のこの連休が第4弾最終週となりました。

 今回の第4弾ありがとうセールでは、チキンの丸焼きや和牛味付け牛肉、ローストチキンレッグなどクリスマスパーティに最適商品が特別価格で提供されています。
 ぜひ、ご賞味ください!

 夢工房トンデンファーム1年間ありがとうセール第4弾の日程は、下記のとおりです。
1.期  間  2012年12月24日(月)まで
        10時から17時0分
2.場  所  夢工房トンデンファーム
        北海道江別市元野幌968−5
        011−383−8208
3.注目商品
(1)和牛味付け牛肉800g 1,000円(通常価格1,500円)
(2)チキン丸焼き 1羽 1,300円
(3)ローストチキンレッグ1本250円・3本680円・5本980円
   *ご希望の本数でご購入いただけます!
    本数が多い程お得です!
(4)袋入りウインナー 555円(通常価格1,050円)
その他、トンデンファームならではの商品が揃っています。
トンデンファームにてご確認ください。

写真:トンデンファーム
 

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除雪事業の拡大

2012年12月21日 | 歴史・文化

 江別市の除雪事業のスタートは、昭和34年1月モーターグレーダーに除雪用の羽根を付け、幹線道路の他、墓地、と場、浄水場などへ至る路線、あるいは消防貯水池への路線を確保することから始まりました。

 初期の除雪事業は、市民協力が不可欠でした。
昭和39年には、警察、土建、バス、運送業者、地区住民などの協力を得て、冬季道路交通路確保協力会を設立、全市あげての除雪対策にあたりました。

 また、同年2月からは失業対策事業による、除雪作業も開始されました。
以降、都市化の進展に伴い機械力を増強し、除雪の路線延長の拡大が図られていきました。

 この間、生活道路の除雪では、ブルドーザーから次第に低震動で作業効率の高いトラクターショベルに更新さrました。
そして、46年以降は、自治会等への除雪補助金交付制度から市の直接発注による工区委託体制への以降など、50年にはほぼ今日の除雪体制が整うことになりました。

 歩道の除雪は、48年度小型ロータリー車の増加(2台から5台)、以降本格化しました。
この間、41年1月、角山小学校の児童の集団にトラックが飛び込む事故が発生しました。
また、44年2月には大麻(おおあさ)小学校児童2人をトラックがはね、1人を死亡させる事故が起きました。
 いずれも、歩道の除雪がされていないため、やむなく車道を歩いていたために起こった痛恨事でした。

 江別は、北国です。
雪の生活が半年は続きます。
市民の行政に対する施策要望でも、除排雪対策が常に上位を占めていました。
表裏一体でもある道路の整備と除排雪、その抜本的対策への模索と努力は、まだまだ続いています。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」348-249頁.
写真:昭和34年1月モーターグレーダーによりスタートした市の除雪事業の模様
   江別市もと江別3丁目道路
 同上書348頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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電話の普及

2012年12月20日 | 歴史・文化

 昭和37年12月、江別電報電話局の新局舎(一番町)が完成しました。

 道内初のクロスバー方式の自動交換機が設置され、江別ー札幌間はダイヤル即時通話となりました。回線も、700から1,700に増加されました。
 こうしたことから、電話の普及は一気に進むかと思われましたが、40年代前半は大麻(おおあさ)団地を中心とする急激な世帯数の増加も手伝い、加入を申し込んでもすぐ付かないという足踏み状態が続きました。

 42年2月末には、積滞(加入待ち)件数は844件に達しました。
これは、当時の家庭用電話勧誘数の倍以上でした。
 43年に大麻(おおあさ)団地に転入した辻富美子は、『まだ、ほとんどの家には電話がなかった。うちも(近所の)前田商店まで畑の中を走って借りに行った』という、電話飢餓状態が続きました。

 こうしたことから電信電話公社では、45年度には江別市を札幌市並みの積滞解消重点地区に指定しました。
 そして、同年8月、大麻(おおあさ)電話交換曲(無人局)を開設したのに続き、同年中に江別電報電話局の回線増設工事を行い、47年度にはようやっと積滞解消に向かいました。

 市内の電話勧誘数は、46年度に1万台、50年度には2万台を突破するという、道内平均を上回るスピードで、家庭用を中心に普及しました。
そして、53年12月には、江別局の増築工事が完了、加入数3万台へと推移しました。

 この間、電話サービスの面では、49年10月からプッシュフォンサービスの開始、53年、54年には農業電話の一般化が図られ、57年12月、公衆電話のカード式が登場しました。
そして、60年4月にはNTTの発足と同時に、江別の市外局番が01138から、札幌と同じ011に変更されることになりました。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」345-346頁.
写真:昭和37年12月完成した電報電話局新局舎
 同上書345頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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