戦後、江別における最大の、しかも5カ年にわたる新江別火力発電所の建設工事は、かくて約260億円の巨費を投じて完了しました。
この間、そして以降においても火力発電所の市内経済の活性化に及ぼした影響は、計り知れないものがありました。
また、約199千平方メートルを整地し、本館、管理事務所、貯炭場などの建設に関わる余波も、一つや二つに留まらなかったのです。
事例として、以下のようなものがありました。
一つは、市営墓地の移転です。
火力発電所敷地内に対雁(ついしかり)市営墓地約8,250平方メートルが食い込んでいることが判明し、急遽墓石379基、墓標166基、焼骨(石)1,228個、土葬228体を移さねばならなくなりました。結局、移転は37年9月まで火力発電所進出決定に伴い計画された隣接の新市営墓園へ移すことで、事なきを得たのでした。
また、新江別火力発電所の操業に伴い、石炭貨車が急増する国鉄・江別駅構内の拡張工事も、37年から始まりました。
貨車の入れ替えに遅滞が生じないよう、引き込み線、待避線など6本を増設する大掛かりなものとなりました。
されに加えると、第1期工事が着手される直前の35年9月、坊主山遺跡調査が実施されました。敷地内は、江別式土器をはじめ、縄文時代の埋蔵文化財の宝庫でした。
調査は、同文化財専門委員の河野広道らが当たりました.
寒風、小雪まじりの中の整地ブルドーザーに追い立てられて、坊主山冬の陣と語り継がれる、悪戦苦闘の調査となりました。
『いま坊主山の遺跡のあとには、火力発電所の大きな煙突が立っていて、毎日煙を吐いています。こうして東北、北海道で最大といわれた墳墓遺跡は破壊されてしまいました』(吉崎昌一「北海道のヒト」)。
さまざまな経済効果と、さまざまな市民生活への波紋を投じながら、すっきりと晴れた空の向こうの増毛連山の遠嶺を背に、丹と白まだらの3本の煙突が屹立していました。
やがて、3本の巨大な煙突から煙が吐き出され、ゆっくりと西にたなびきました。
その西では、大麻(おおあさ)団地の開発工事がたけなわでした。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」254頁.
写真:昭和38年2月第1期工事完了した新火力発電所
同上書253頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。