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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

初期の戸長役場

2020年03月15日 | 歴史・文化

 戸長役場の設置に伴い、その管轄区域が地方団体の区域となりました。

 最も「戸長役場ハ其町村ノ便宜ニ依リ私宅ニ於テ事務ヲ取扱モ妨ナシ」と定めにあるように、戸長役場は千徳の自宅です。
千徳は、天保11年(1840年)陸中国鹿角郡毛馬内村に生まれました。
慶応3年(1867年)北海道に渡り、翌年さらに樺太の久春古丹に入りました。
やがて開拓使樺太支庁の仕事をしたのち、内淵に住み着き、同地のアイヌ人女性を伴侶としました。
息子の千徳太郎治は、父の樺太時代を次のように伝えています。

 明治4年11月在職中勉励に付金20両頂戴、以上樺太における遺歴にして、ナイプチ川のところに2階建の家屋を建設、移住民当時平右衛門、勘、徳次郎等の邦人がここの開拓に従事していたのです(『樺太アイヌ叢話』昭和4年)。

 ところが、千島樺太交換条約の締結によって対雁への転居やむなきに至る。
ただ、これまでの経歴からいって、開拓使が村行政を委ねられる人材でもありました。
 明治12年(1879年)には、旧制度の対雁・江別2カ村戸長に任命され、新制度発足により、改めて初代戸長となりました。
 ただし、千徳の在任は6月で終わる。7月には新たに設置された篠津村戸長を兼ねて、7年に対雁村に自費移住していた新家孝一が任命されました。
地元からの任用はこの2人だけで、北海道庁が開庁してから北海道2級町村制発足までの約20年間、道庁の人事の一環として計6人の戸長が任命されました(別巻・歴代首長参照)。


註 :江別市総務部「新江別市史」349-150頁.
写真:開拓使時代の町村制度と対雁・江別村
   江別市総務部「新江別市史」350頁掲載表6-1を複写・掲載致しております。

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戸長以前

2020年03月14日 | 歴史・文化

 開拓使の本府が置かれた札幌周辺では、計画的に集落づくりが進められました。

 明治4年(1871年)にツイシカリと呼ばれていた一帯が対雁村となりました。
11年には札幌郡字江別太に江別村新設の件が、14年7月には石狩郡に篠津村を置く旨の布告が出されました。
 これらに伴い、各村には戸籍や土地の権利などの業務を行う担当者が任命されました。
戸長、副戸長、伍長などと職名は変わりましたが、要は開拓使が、村々を掌握するための末端組織を整備しようとしていたのです。

 明治政府は、近代国家への脱皮を目指し、富国強兵を政策の軸に据えました。
その為、人民の掌握を何よりも必要とし、戸籍の整備を急ぎました。
戸籍は、教育・兵事・徴税など国家の土台作りに欠かせないからです。
府県にあっては、同時に、幕藩時代の村からの脱却を目指しました。
 ただ、北海道では大いに事情を異にしていました。
函館やその付近、札幌小樽や根室など一部を除いて、人煙も稀な地域がほとんどだったからです。
例えば、明治6年の北海道の総人口は約17万人、石狩国のうち夕張・樺戸・雨龍・空知・上川の各部にあっては、いまだ町村未置(『開拓使事業報告』第1編・地理)でした。
つまり、これらの地域では、郡はあっても町村がなく、まとまった集落もありませんでした。

 開拓使設置当初の北海道内の地域差は歴然としていました。
それでも、府県同様に戸籍のための大小区制、戸長・総代など地域の役職者の任免が繰り返されました。
 明治12年7月、「郡長以下職制別紙ノ通相定」(達第14号)として、郡・戸長役場の制度ができあが利ました。
 戸長についていえば、戸長職務取扱所ハ戸長役場ト称スヘシ」と、戸長役場の設置が布告されました。
これを受けて、翌年2月、対雁・江別村2か村戸長に千徳兵衛が任命されました。


註 :江別市総務部「新江別市史」349頁.
写真: 元禄御国絵図 <北海道大学付属図書館所蔵>」
   同上書67頁図2-4元禄御国絵図<北海道大学付属図書館所蔵>」を複写・掲載いたしております。

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麻畑自作農創設期成会

2020年03月06日 | 歴史・文化

 大正15年(1926年)5月、農林省は、自作農創設維持補助規則を公布しました。

 これにより道府県に低利資金を融資する途が開け、自作農創設に弾みがつきました。
すなわち、同規則公布の15年から昭和21年(1946年)までの自作農創設戸数は、道内だけで約2万8千戸、その貸付金額は6千300万円にものぼりました。
特に道内のみの報奨制度を導入した昭和19年以降の1年平均創設戸数は3千563戸と飛躍的に増大しました。

 最も同規則については、自作農の創設よりも「地主の土地売却政策の総合的強化」(『北海道農地改革史』)に過ぎなかったとの指摘もあります。
約言すれば、地価が年々下落するこの時代、もはや地主の土地投資には以前のような甘味はありませんでした。そのため、地主は自作農創設制度で土地を小作人に売り払い、代金を国から全額、しかも即金で受け取る、いわば土地売り逃げ策に転じたのだという指摘がありました。
 一方の小作人は、数十年間にわたり、気息奄々、土地代金を国に払い続けました。
これが伏在する本制度の核心で、小作人救済より地主救済ではないか、との疑問でした。

 自作農創設維持補助規則が公布された大正15年の12月、大麻(おおあさ)の野幌屯田兵村有地の小作人52人により、同地の小作地解放自作農創設期成会が発足しました。
そして、同年12月16日に江別町長(部有地管理者)に対し、請願書を提出しました。
約80年前の農民たちの切迫した肉声が胸をうちました。

中略

 しかし、この小作開放、自作農創設の願いが実現するのは、請願書提出から実に13年余りのち、昭和14年2月まで待たなければなりませんでした。


註 :江別市総務部「新江別市史」344-345頁.
写真:極東練乳株式会社野幌授乳所 開設者小田島清治と家族
 同上書324頁写真5ー5を複写・掲載致しております。

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対雁の共有財産処分

2020年02月27日 | 歴史・文化

 明治9年(1876年)の対雁移民・樺太アイヌに割渡された農地の、その後に触れていきましょう。

 当該地は、樺太アイヌの大半が所有権(明治39年6月無償付与)をそのままに対雁を離れた以降、道庁の管理のもと小作人に転貸されていました。
これが、時代の要請となった自作農創設の機運とあい町、小作人に売却されましたが、その間の経緯は以下のとおりです。

 明治39年8月以降、石狩・来札に残留していた樺太アイヌは、対雁の土地を担保に北海道拓殖銀行から1,200円を借りました。
これは、日露戦争後に日本領となる彼らの故郷、樺太への帰還旅費のためでした。
 その後、対雁の土地は札幌支庁が管理の責任を持ち、経営を行っていたところ相当の成績をあげ、移民の残した負債を完済しました。
畑は反あたり約100円の時価を有し、現金と合わせ大半を共有権者に分配することで合意しました。
ただし、土地については従前からの小作人に特売処分を行うこととしました。



註 :江別市総務部「新江別市市」342-343頁.
写真:土地貸借契約證書
   同上書341頁掲載<出典:部落史資料第二集八幡のおいたち>

 

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江別の小作状況2

2020年02月24日 | 歴史・文化

 小作契約は、①口契約、②証書契約の2通りがあり、金納と物納に分かれます。
八幡・下当別の野幌兵村部有地3町余を武田義官太に賃貸するもので、小作料は金納でした。一方、豊幌・巴農場の小作料の方は物納でした。
当該地は大正末に水田が完成、この時改めて、小作人と小作料を決めました。
出来秋には、小作米収納倉庫の周りは熱気ムンムン、お祭り騒ぎとなりました。
そのほか、江別の全面積の12.3%を占める野幌・殖民社の耕地は各人、自作小作2分の1であったことを思えば、昭和20年代初頭の戦後・農地改革の断行までは、いかに小作農が多かったかしれません。
 また、その小作契約の態様ひとつ取り上げても、実にさまざまなものがあったといえるでしょう。

 こうした中、有島農場の解放が世人の耳目を集めました。ようやく自作農創設の機運が、環境が目に見えつつありました。
 江別では、大正8年、対雁の榎本農場の解放が実現しました。
さらには、野幌兵村部有地の小作である大麻(おおあさ)で、小作解放、自作農創設の動きが加速しました。
先に引用の名越源五郎の言です。
「昨年度(註:明治42年)ヨリ俄然貸地料ヲ直上セシ為」云々の時から、「この事件を契機にして民は今後の生きる道は自作農創設以外に解決の手段はない」(『大麻<おおあさ>開基80年史』)と、旗色は鮮明、そのすすむべき道は決まりました。

 また、同じ野幌兵村部有地の一つ、小野幌(現・札幌市厚別区江別市域の隣接地)の小作人樋口久太郎ら5人は、大正15年11月、連署を持って小作地の譲渡を求めました。
すなわち、明治30年以降、約30年の間開墾し、耕作してきた土地を他へ売るとの話を聞きますが、自分たち小作人に譲るのが当然ではないかと訴えています。
 この間、大正13年「小作調停法」が施行、大正15年には自作農創設維持補助規則が公布されました。
江別の各地域においても、自作農創設の期待は高まりつつありました。


註 :江別市総務部「新江別市市」342-343頁.
写真:土地貸借契約證書
   同上書341頁掲載<出典:部落史資料第二集八幡のおいたち>

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江別の小作状況

2020年02月23日 | 歴史・文化

 ここに、興味深い資料があります。
明治44年(1911年)2月22日の野幌兵村部会の会議録です。
この会議の冒頭、江別村長でもある部会長名越源五郎は小作問題2月、心中の憂いを洩らしました。
「1昨年度(注・明治42年)ヨリ俄然賃地料ヲ直上セシ為メ 当時賃借人中直下若クハ延納等ノ儀ニ付種々ノ要求アリタリ 併シ之レ素ヨリ至当ノ賃貸料ナリシヲ以テ只一時ノ申出ニ止マリシモ 之レガ為メ当時聊(いさき)カ事務上ニ障害を蒙リシ感ナシトセス」(野幌兵村部会会議決録)。

 名越の言は抑制されたものになっていますが、相当以上に小作人の不満が高じ、一歩間違えれば事態は争議に発展しかねない、そこまで緊迫したのでしょう。
それは、また、地主側の危機感のあらわれでもありました。
名越は、地主側の小作人に対する姿勢に関し、注文をつけました。
「地主ト小作人トハ親子又ハ主従ノ如キ感想ヲ有セサレバ 到底完全ナル結果ヲ納ムル克ハス故ニ小作人ヲ安堵セシメ又可及的便宜ヲ与ヘ 之ヲ導クニ於テハ 自然永住ノ念厚ク従テ耕作ニ熱心ノ結果ハ即チ相互ノ利益ニシテ」(同前)云々です。
表現は穏やかではありますが、この説諭の底流には、名越の時代への認識があったと思われます。

 明治も後期、この頃から道内各地での小作争議が目立ち始めました。
明治39年(1906年)、上川・比布村の比布殖産合名会社農場における小作料引き上げなどを契機とした激しい抗争がありました。
明治41年には、余市郡仁木の毛利農場の小作人が土地解放要求を前面に掲げて闘いました。
この争議は小作人側が余市の多くの町民の応援を受けて勝利するなど、道内的に農民運動の高まりがひたひたと足元まで押し寄せてくる、そんな思いが名越の言の背景にはあったのではないでしょうか。

 さて、大正2年(1913年)に実施されました産業調査を基に、江別の小作状況を小走りに眺めていきましょう。
小作は、通常、開墾小作と普通小作に分けられます。
大正初期の江別は、農耕地ニ適スル大部分之個所ハ 皆夫々成墾シアルヲ以テ 新ニ小作人募集ノ方法ヲ設クルノ要ナク」(同前)云々と、既に開墾小作の時代が終わったことを告げています。
ただし、泥炭地ではありますが、土地改良可能な箇所に、若干の開墾小作の姿を認めてはいます。
 普通小作の借入農地面積は、最高で10町、最低で五反、平均は4町歩です。
契約期間は、通常で5年以内ですが、全体の3割程度が永久小作、長期小作権者となっています。
彼らへの土地売買価格は、一反歩につき1円(最高2円、最低50銭)となっています。
 この産業調査の中の農業金融調査・対人信用借金状況によれば、全農家戸数1千234戸中、555戸が負債を有し、その約49%(273戸)が小作人です。
全体の負債総額は1万415円です。そのうち、借金のための借金が約52%、生活費や病気、葬儀のためが約25%、大半が追い詰められた末の借金です。
 これに対し、土地購入や造田、あるいは農具や家畜購入は合わせて約23%でした。
こうした積極的な経営展開の借金は、地主に多く、前者の切羽詰まった末の借金は小作人に多いことは、いまさら付言するまでもありません。


註 :江別市総務部「新江別市史」340-342頁.
写真:松下新太郎家(八幡)のエンジン脱穀機(昭和12年)
 同上書337頁掲載写真5ー10を複写・掲載いたしております。

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タクソク(拓殖の借金)

2020年02月22日 | 歴史・文化

 大正11年(1936年)4月、神奈川県神戸で日本農民組合が誕生しました。
わずか数名の発起でしたが、「日本の農民よ団結せよ」の声は、たちまち全国を席巻し、年末には35万人の小作人が結集した、と伝えられました。
 同年7月、白樺派の作家有島武郎は、後志支庁管内の狩太(現・ニセコ町)の農場を、小作人に無償解放し、世上に衝撃を与えました。

 有島は、世界大戦後に起きたロシア革命、米騒動などに際会し、青白き手の知識人として厳しい自己批判を迫られていました。
いわゆる思想と実践の一元化です。

 狩太農場の解放は、有島の自己批判のひとつの具体的な帰結でしょう。
当時の北海道は、開拓期の土地処分方法の欠陥もあり、農家戸数の半数近くが小作農でした。
江別においても、しかりです。
自小作を含めると、大半といっても良いでしょう。
これら小作農は、零細自作農を含め、造田費用や肥料、農機具の購入、それに生活資金を含め、組合などをとおし北海道拓殖銀行から資金を借りたケースも少なくありません。
 具体的な例をあげましょう。
斎藤治左衛門(西角山・現在の国道275沿い江別町の西端)が、大正6年7月6日付で拓銀から200円を借りたときの年賦借用証書がありますよ。
 *借用証書内容略
斎藤は、200円の借入に対し、10年間で300余円の返済を行いました。
それは、毎年4月と10月に支払うことになりますが、もし期限に遅れると100円につき1日4錢5厘の遅延利息がつきました。
もちろん拓銀は、万一の場合に備え担保を取りました。
畑2町1反17歩余に加え、地上物件も附帯担保として押さえました。
拓銀が、何故に大地主となったのか理由はここにあります。

 拓銀各期の返済通知を、農民はタクソク(拓殖の督促状)と、自虐的に笑うしかありません。
例えば、こうです。
「冬仕事では俵編みなど夏冬なく働いてきたような気がします。こんなに働いてもタクソク(造田のため拓殖から借りた)を払うのが大変でした。
毎年毎年そのタクソクのために働いているようなものでした」(『豊幌』三好タケヲ談)。



註 :江別市総務部「新江別市史」340頁.
写真:二頭引きのプラオ
 同上書334頁掲載写真5-8を複写・掲載致しております。

 

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農業の推移

2020年02月17日 | 歴史・文化

 世界大戦以降の不況のなかで台頭してきた小作地解放、自作農創設機運について触れていきましょう。

 明治後期以降、大正期における江別の農業の全体的な推移をごく簡単に眺めていきます。
 明治41年(1908年)における自作農戸数は、301でした。
これは、明治33年の736戸に比し、大きく減少しています。
37年の屯田兵条例の廃止を契機に、多数の離村者があったことことが、その表れの一つでしょう。

 自作農戸数は、その後若干の増減を繰り返すものの、総体的には減少傾向を辿り、大正11年(1922年)以降数年にわたり100戸台に留まりました。
総農家戸数比でみても、明治43年36.6%から大正13年には17.9%となり、逆に小作は43年の41.4%から大正13年には51.2%まで増加しました。
大正期において小作農がいかに多かったかがわかりました。

 背景をなすものは、大正9年以降の戦後不況、農産物価格の下落などがある。これらは農村に甚大な打撃を与えた。『農家作付具合モ活気ナク近隣ノ地主ニテ数十町荒廃セシメ』(「北越殖民社営業報告」大正10年)。
 上記のとおり、全体として農村は沈滞の節に入りました。
これを農家戸数で見ると、明治43年の1,291戸が大正11年には968戸となり、以降大正期は900戸台で推移することになります。

 水田は、大正13年から急上昇となります。
特に14年から15年にかけ倍近い増加となりました。
畑作では、日露戦争以降、燕麦の作付が急激に増加したことが目にとまりました。
燕麦が軍馬の馬糧に指定され、41年に陸軍糧秣廠札幌出張所が開設したのを契機としますが、それにしても大正13年には全耕作地の51.4%を占めているには驚かされます。

 また、大正3年に勃発した世界大戦のため、食糧事情の極度に悪化した欧州への輸出に向け、この時期、豌豆、菜豆の作付が急増しました。
この時代は、特用作物や投機的な輸出換金作物偏重時代と言われますが、江別の農業も同じ流れにありました。



註 :江別市総務部「新江別市市」338-339頁.
写真:明治製糖株式会社野幌採種所と付属工場(顔写真は河辺克主任技師)
 同上書332頁掲載写真5-7を複写・掲載いたしております。


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優良農具補助規程

2020年02月15日 | 歴史・文化

 脱穀機が導入されたのは、農産物市場における競争に優位に立たなければならない、現実的な強い要請です。

 農産物の生産過程の最終段階において、商品として送り出す産品の規格の統一、品質の均質化です。
出来秋に売り急がざるを得ないという事情も大きかったのです。そこから、発動機が出張し、請負稼ぎが出来たという、そのあたりの事情も納得できるでしょう。

 農家が発動機をはじめ改良農具を容易に購入できたかといえば、そうではありません。
資本の蓄積がありませんでした。
大戦景気に沸いたのは一時であり、大正も末になると体力は既に著しく低下していました。
「農村ニ在リテ近年益々疲弊衰退ヲ加ヘ 全国挙ゲテ憂慮セラルル現況ニアリ」(『江別町事務概況』大正13年)と溜息を漏らさざるを得ませんでした。

 昭和2年(1929年)5月、北海道庁は庁令第81号「優良農具補助規程」を公布しました。
つまり、多くの農家は市場の要請に応える近代化への投資は、まだまだでした。
だからヘラクレスや脇豊勝の出稼ぎの余地があったのです。
そこで優良農具普及の補助金政策がようやく陽の目をみました。ただ、但書がつきます。
これは共同使用が原則であり、補助金の受け皿は、農会、農事実行組合、産業組合など道庁長官が認める団体で、補助率は購入価格の30%以内となりました、

 補助の対象となった、いわゆる優良農具は、電動機、石油発動機、籾摺機、精穀機、撰別機、刈取機、製粉機、噴霧機などです。

註 :江別市総務部「新江別市史」337頁.
写真;松下新太郎家(八幡)のエンジン脱穀機(昭和12年)
 同上書337頁掲載写真を複写・掲載致しております。




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ヘラクレスの出稼ぎ

2020年02月11日 | 歴史・文化

 北海道長官は、輸入農産物との市場競争に勝つため改良農具の導入を強くすすめました。
 道庁の施策などが江別ではどのような形で展開したのでしょうか。

 野幌丘陵部地域の殖民社の例、ひとつは泥炭地である篠津などの例です。
「大戦中、耕地拡張の要望は泥炭原野の新型プラウを導き、主として3頭の優秀馬プラウを持った2,3の農家により起こされましたが、戦後この通ひ作は縮小され、金肥の消費増加、造田或飼牛となり経営は集約化の方向をとった。」(『野幌部落史』)。つまり、殖民社においても第一次大戦後の転換期において、従来の耕地拡大を主とした面的拡大から、造田や酪農、金肥投入などによる質的向上(生産性向上へと進路を明確に切り換えたのです。

 農機具の導入について、その背景をも含め以下のとおり触れています。
「一方、大地は長年の掠奪に有機質が分解された表土が硬化し、特に重粘性の丘陵部はひどく、シバグサを初め頑強な雑草は殖えました。
この二つ=経済的、自然的成行は畜力による耕転整地の鄭重さを要求するに至り、探鉱し、心土を砕き、雑草を根絶せしめるために深耕プラウ、心土プラウ、カルチパッカー、デスクハロー、除草ハロー、カルチベーター等さまざまの利器の登場となった」(同前)。

 篠津の場合はどうだったのでしょう。
この地域での西洋農具の導入は、明治20(1887)年頃、名越源五郎がプラオを導入した時に始まります。その後、萩原弥八郎、西脇寅吉らによりプラオの導入が図られ、明治末にはハローやカルチベーターが普及していきました。
世界大戦を境に、以降、この地においても優良農具の普及が加速しました。
まず足踏脱穀機が入り、大正末から石油発動機が徐々に導入されました。
酪農においても、サイロの切り込み作業に発動機が登場しました。
もちろん、小農では以前唐竿や千歯などの脱穀作業も見られましたが、主力が発動機に移りつつあったのは明らかです。
「静天井の下で、手間替の共同作業で日に何十俵何百俵と脱穀調整される猛スピード振りを展開、その偉力を誘った」(『篠津屯田兵村史』)。
発動機導入に前後して、深耕プラウ、カルチパッカー、ディスクハローなども入りました。
また、八幡では大正13(1924)年に松下新太郎がヘラクレスという名の発動機を550円で購入しました。
「脱穀機は美原の藤倉氏の製作したものを購入した新太郎氏は、この機械をもって厚別方面までも広く脱穀に歩き、10日も20日も家に帰らず泊まりがけで仕事をしたそうである」(『八幡開基90周年記念誌』)。

 最後に、角山の脇豊勝の場合をみてみましょう。
大正11年秋、同じの渡辺家の発動機を横目に、自分も早く持ちたい深いため息をついた脇家に、待望のエンジン脱穀機が入ったのは同13年の秋でした。
前後の文脈から、この機械は中古品であったのでしょう。
「エンジンなかなkはっかせず、故障があるのじゃないかと随分案じた」(大正13年10月20日『脇豊勝日記』)。
翌年3月には1週間ほど道農会主催のエンジン講習会を受講したり、大童でした。
 結局、15年にクボタ式の新型エンジンを購入しました。
そして自家の脱穀はもとより、雁来・沼の端や篠路・福移、あるいは近郷近在の農家への出張脱穀に汗を流しました。
「明日よりいよいよ他に行って労作か。父母先途幸あれと前祝いのおだんご作って下さる」(大正15年9月20日、同前)。
この出張脱穀でかなりの日銭を稼いだ脇家にとり、発動機の導入は、農業経営近代化への、夢にもみた文化農家への一里塚でした。


註 :江別市総務部「新江別市市」335-336頁.
写真:2頭引きプラオ(『写真集・野幌』)
 同上書334頁掲載写真5-8を複写・掲載いたしております。

 

 

 

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