江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

番外編!日本三名泉 岐阜県下呂温泉と観光ヤナ!

2008年08月31日 | 番外編
 このたび、日本三名泉岐阜県下呂市下呂温泉と観光ヤナをご紹介いたします!

 岐阜県下呂市には、多くの温泉旅館、露天風呂(益田川含む)が点在しています。
 江戸時代、徳川家康、秀忠、家光、家綱の四代の将軍に仕えた儒学者、林羅山(1583~1657年)詩文集第三に全国の温泉の中で、草津、有馬、下呂が天下の三名湯と記されていたことによって、草津温泉・有馬温泉・下呂温泉を「日本三名泉」と称されています。
 下呂市の温泉は、泉度84度という高い温度で、正真正銘の天然温泉です。
 下呂温泉の泉質と効能は下記のとおりです。

1.源泉名  下呂温泉
2.泉 質  単純温泉(緩和性低張高温泉)・無色透明
3.泉 温  源泉~摂氏最高84度
4.適応性  リウウマチ性疾患・運動器障害・神経麻痺・神経症・病後回復期・疲労回復

 岐阜県下呂市の温泉の効用は、医学的にも注目されており、温泉利用のリハビリ施設や温泉医学研究所も設けられています。

 また、岐阜県下呂市 下呂温泉街に流れる飛騨川では、観光ヤナが開催されています(8月~10月中旬まで)。観光ヤナでは、鮎の塩焼き、鮎の刺身、フライ、鮎飯(または雑炊)等鮎料理のフルコースをいただくことができます。
お腹を満たした後には、世界文化遺産の岐阜県白川郷から下呂市に移築された「合掌造りの里」を巡ってみてはいかがですか?
この合掌作りの里には、国指定重要有形民族文化財 旧大戸家住宅(きゅうおおどけじゅうたく)も移築されています。

岐阜県下呂市下呂温泉については、下記をご覧下さい。
http://www.gero-spa.or.jp/frame.html

http://www.city.gero.lg.jp/kankou/

 岐阜県下呂市へは、中部国際空港から直行便バスが運行されています。また、岐阜県岐阜市、愛知県名古屋市、三重県伊勢市などの観光と合わせてJR東海道本線「ワイドビューひだ(通称飛騨ビュー)」をご利用になると、路線景観を楽しむこともできます。

(参考)当ブログ6月14日(日)「番外編!岐阜市長良川鵜飼のご案内!」

写真:「日本三名泉発祥の地」石碑
   岐阜県下呂市温泉街設置
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開拓使の官営工場設立

2008年08月30日 | 歴史・文化
 開拓使は、味噌・醤油の製造から、鮭鱒・カキ・鹿肉の缶詰、ビール、ブドウ酒、製粉、機械など、多方面にわたる官営工場を設立しました。

 生産手段の製造工場15、消費財工場24、合計39工場を経営していました。
現在のサッポロビールの前身も含まれています。また牧場や鉱山も官営されていました。
 西洋の技術を取り入れて、多くの事業が官営されていたました。それには、試験的な意味ありましたが、未開地のため移民の生活資料つくること、市場ば未発達なので農作物を買い上げて加工する必要もあったからです。
 ケプロンや、鉱山に尽力したライマンなどは官営に反対であり、民営・外資導入の意見をもっていました。

 当時、開拓使の布達をみると、明らかに海外輸出向け産業に重点が置かれていました。水産物は勿論のこと、農産物も小麦粉、養蚕製糸、麻や亜麻、大麦からビール、ブドウ栽培からブドウ酒製造など、北海道に適していると奨励されたものは、いずれも輸出向けであるといってもよい。
 布達によると、上等品は各国公使や船員たちに贈与したり、ウラジオストックや樺太へ見本を送って打診し、中下等品は国内用とされていました。
(参考)当ブログ8月23日(土)「開拓使仮学校開設」
    当ブログ8月22日(金)「開拓使廃止に伴う勧農政策の変化ー博覧会・共進会開催」
    当ブログ8月19日(火)「北海道をめぐる商品の流通」
    当ブログ8月11日(月)「ひとつ鍋」
    当ブログ8月 7日(木)「北海道事業管理局の設置」
    当ブログ8月 6日(水)「耕馬の活躍」
    当ブログ8月 4日(月)「樹林地帯からの開墾」
    当ブログ7月 3日(木)「教頭頭取兼顧問ケプロンの北海道開拓」
    当ブログ7月 2日(水)「札幌ー対雁ー岩見沢道路開通」

註:榎本守恵・君尹彦「北海道の歴史」122-123頁参照。
写真:北海道開拓記念館にて2007年撮影許可を得て掲載いたしております。
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錦山天満宮

2008年08月29日 | 歴史・文化
 野幌市街の神社の発祥は、野幌兵村の発意によるものでした。

 明治19(1886)年、現在の天徳寺付近に伊勢大神宮遥拝所として小祠が建立されました。これが現在の野幌錦山神社の創始となりました。

 明治25(1892)年に野幌兵村練兵場(現・野幌公民館付近)一隅に移転しました。その後、32(1899)年5月、兵村会の決定に基づき、人を派遣して伊勢大神宮より御分霊を拝載、33年には本殿、拝殿、社務所などを整え、35(1902)年2月、北海道庁長官あて「神社創立願」を提出に至ります。
しかし、この願いは届きませんでした。なぜなら、明治34(1901)年の第一次桂内閣成立以降、政府は神社整理の方向を打ち出し、原則、一村一社の方針を明らかにしつつありました。野幌には、既に北越殖民社の野幌神社明治35(1902)年1月・社号公称許可)があり、その意味では先を越されてしまったのでした。この農民の集落に公許の神社がないという事態は、誇り高い彼等にとって到底我慢できることではありませんでした。

 明治35(1902)年3月、「江野幌神社創立之願再進ノ件」が、北海道庁長官あてに江別外二村戸長宮城昌章より提出されました。これには理由書が添付されていました。曰く、一村一社は金科玉条のものではなく、実地において十分調査を願いたい。もし、「江野神社」が不許可との場合は、紛擾や犯罪行為すら発生の恐れがあるので、この際、慎重に再度検討して欲しいと、なにやら凄みをきかせた物言いとなっています。

 再願書は、七つの理由を挙げた。うち、注目すべきは、(1)既に「江野神社」の建物等設備は十分に整っている。目祭典など執行を制止しているが、これ以上兵村内の不満を抑えきれない。(2)公許の野幌神社へは、一里余りある。しかも、収穫後の秋祭りは、「降雨打続キ、道路泥濘甚シク、婦女子等ヲシテ里余ノ道ヲ怪テ来拝セシムル如キハ、到底成シ得ヘカラス」云々、でした。

 結局、どうのように理由付けしても、「江野神社」の公許は難しく、実現したのは、当初から呼び慣されていた錦山神社(無格社)として社号公称を許されてたことでした。しかし、それは「神社創立願」から40年を経た昭和17(1942)年7月まで待たなければなりませんでした。

 当時の錦山神社の位置は、一番通り(現国道12号)に面した練兵場の東側一画、三反歩に拝殿などを設けました。主神・天照皇大神、左座・豊受大神、右座・加藤清正公を奉遷しました。
 大正9(1920)年に至り、同地を野幌林業試験場の職員住宅の用地に譲渡しました。そのため、神社は昭和2(1927)年10月に野幌兵村の中心地、2番通りに面した中隊本部跡地に移転しました。


註:江別市役所「新江別市史」260-261頁参照。
写真:錦山天満宮
   北海道江別市野幌代々木町38-1

錦山天満宮については、下記をご覧下さい。
http://www.nishikiyama.or.jp/top.html
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赤いサイロ

2008年08月28日 | 歴史・文化
 酪農地帯のシンボルであり、冬期飼料の貯蔵に欠かせないサイロは、江別の風物です。

 江別駅を過ぎると左方眼下に見える石狩川の雄姿と共に、右に拡がる太平原に点々と見える赤いサイロは、北海道の風物であり、江別太そのものの姿といえます。
 江別太のサイロとしては、江南社が進出した翌年広い幌向原野の真中に、野幌の布川レンガによる仮称「100トンサイロ」は泥炭湿地に何十本もの電柱が打ち込まれた基礎工事によるもので、いまもって偉容を誇っています。
その後、越後村には基礎レンガ上部木造サイロ(後に総レンガとなる)、昭和3年には高間が道博展示の北欧の空洞レンガ(いまのセラミック)によって築造、翌4年には中橋も地上30尺の高いサイロなど続々と建てられました。

 このサイロができるまでは、秋に刈り取られたデントコーンは、畑や屋敷内に縦積みされ、冬期間雪を掘りわり馬ソリで搬出、十日分位ずつ手押しカッターで切り小屋貯めされましたが、吹雪などの時期は大変な苦労でした。またサイロはできても、吹上カッターが普及するまでのサイロ切込み作業は、ハシゴをかけ「み」や「タボ(バナナかご様の容器)」で、手渡しで貯蔵していました。

 このように酪農が盛んになると、主要道路ごとに各戸交替で共同集荷が行われ、サイロの切込み共同作業など、農家の連帯性を強めるもとともなりました。

 当時の風物史としては、早期各生産者番号がふされた牛乳缶集荷の馬車、道路わきの草を喰む牛の群れ(道路放牧)、そして秋も深まる頃のサイロの切込みを伝える発動機とカラカラと威勢よく吹き上げられる切込みの音が、早朝から時には深更まで周辺の築堤にこだまし、活気を呈していました。

註:江別太開基百年記念事業協賛会「江別太郷土史」92-93頁参照。
写真:野幌湯川公園界隈のサイロ
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商船学校の設立

2008年08月27日 | 歴史・文化
 日本の商船教育は、東京の墨田川永代橋と日高の三石においてなされたのが最初でした。

 明治9年8月、かつて大年寄であった小林重吉が自分の所有する三石の漁場に海員学校を設け、長男小林友八の友人吉崎豊作に教師を依頼し、10人足らずの生徒を教育しました。翌年7月これを函館に移し、準備の後、11月から函館の自宅において再開しました。12年2月15日、生徒43人を収容して私立函館商船学校の開業式を挙行しました。これには、函館の有志が資金を出し、公立内澗学校内に夜学教授を行いました。

 その後、葛西などで場所を変え、16年5月、函館県に移管され、全国唯一の公立商船学校となりました。
 このように、早くから商船教育が行われたのは、幕末以来の開港と道内航路の拠点としての重要性が影響していると考えられます。
(参考)当ブログ8月23日(土)「開拓使仮学校開設」
    当ブログ8月16日(土)「教員養成と師範学校の設立」
    当ブログ8月10日(日)「村落・変則小学教則の制定」
    当ブログ8月 9日(土)「学生公布と北海道の特例」
    当ブログ8月 8日(金)「明治初年の教育状況」

註:北海道「新北海道史第三巻通説二」933頁参照。
写真:江別市郷土資料館より許可を得て、資料複製を掲載いたしております。
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平成20年度生涯学習リレー講座のご案内

2008年08月26日 | イベント
 このたび、江別市生涯学習推進協議会および江別市教育委員会主催による平成20年度生涯学習リレー講座をご案内いたします!

 江別の街の成り立ちを考えるとき、切り離して考えることのできない石狩川、その自然と生態系、開拓や産業など人々の生活との関わり、そしてまちづくりへの活用などについて、5回のリレー講座が下記のとおり開催されます。
第1回「写真に綴られた人々の記録」は、8月22日(金)開催終了のため、第2回講座よりご案内いたします。

1.会  場  大麻公民館研修室2号
        江別市大麻中町26番地7(JR大麻駅下車徒歩3分)
2.定  員  100名
3.受 講 料  無料
4.申込方法  江別市教育委員会生涯学習課生涯学習係
        TEL.011-381-1062/FAX.011-382-3434
        上記申込先へ電話もしくはFAX.にてお申し込みください。
        FAX.申込の方は、講座名、ご氏名、ご連絡先等記載して下さい。
5.プログラム
第2回 8月29日(金)18:00~20:00
   「石狩川周辺の生きものたち」
   講師 武田忠義(日本野鳥の会江別支部会員)
第3回 9月 5日(金)18:00~20:00
   「本庄睦男『石狩川』ー自然のなかの人間像」
   講師 岩井洋(酪農学園大学教授)
第4回 9月12日(金)18:00~20:00
   「松浦武四郎と石狩川」
   講師 笹木義友(北海道開拓記念館事業部長)
第5回 9月19日(金)18:00~20:00
   「石狩川の生態系と食文化」
   講師 妹尾優二(流域生態研究所所長)

(参考)
 当ブログ8月25日(月)「人が集えば文珠の知恵袋講座第5回」ご案内
 当ブログ8月17日(日)「市民・若者が主役!ー個が生き、個が活かされる地域社会を目指してー」  

写真:王子製紙株式会社側から観た石狩川
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「人が集えば文殊の知恵袋講座第5回」ご案内!

2008年08月25日 | 教育・学校
 このたび、「人が集えば文殊の知恵袋講座第5回」(道民カレッジ連携講座)をご案内いたします。

 「人が集えば文殊の知恵袋講座」は、北翔大学生涯学習センター教養講座として、江別創造舎代表である田口が企画運営し、毎月ゲストスピーカーを招いて開講している講座です。
「火曜一(かよういち)は文殊の知恵袋講座!」を合い言葉に、5月より毎月1回火曜日13:10より開講し、9月には第5回を迎えます。
皆様のお越しをお待ちいたしております!

「人が集えば文殊の知恵袋講座第5回」は下記のとおりです!

1.日  時  9月16日(火)13:10~14:40
2.場  所  北翔大学
3.講  演  「写真でみる江別の変遷」
        講師  佐々木孝一氏(江別市情報図書館長)
        明治初期から現在に至るまでの江別の街並みの変遷を、当時の写真を基に解説されます。
4.申 込 先  北翔大学生涯学習センター
        TEL.011-387-3939(直通)
5.申込期限  9月5日(金)17:00
6.受 講 料  無料

(参考)
 当ブログ 8月17日(日)「市民・若者が主役!ー個が生き、個が活かされる地域社会を目指してー」
 当ブログ 8月 3日(日)「人が集えば文殊の知恵袋講座第4回」谷川幸雄氏ご講演大盛況のご報告
 当ブログ 8月 3日(日)「人が集えば文殊の知恵袋講座第4回」高崎格氏ご講演大盛況のご報告
 当ブログ 7月16日(水)「川守田順吉氏ご講演大盛況!のご報告」
 当ブログ 6月25日(木)「渡辺良洪氏ご講演大盛況!のご報告」
 当ブログ 5月28日(水)「漆崇博氏ご講演大盛況!幣のフィールドに向けたオブジェ制作と基調講演」

写真:「人が集えば文殊の知恵袋講座第4回」模様
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札幌農学校の創立

2008年08月24日 | 歴史・文化
 明治7(1874)年11月開拓使は、専門科開設のための委員の一人である開拓幹事調書広丈から黒田長官に、専門科開設の儀について伺いが出され、翌月裁可されました。

 開校の準備を進め、外人教師の招聘については長官からアメリカ合衆国駐剳全権公使吉田清成に適任者の選定を依頼しました。その結果マサチューセッツ州マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)の招聘に成功しました。クラークは、一年間の賜暇を得て来道することになり、同校卒業生ウィリアム・ホイーラー(William Wheeler)とダヴィッド・P.ペンハロー(David P.Penhallow)の二人を連れ、同9(1876)年7月31日、東京を経て札幌に到着しました。生徒募集は、試験によりましたが、東京英語学校から11人、札幌学校から13人の計24人が選ばれ、札幌学校からの不合格者は農業現術生徒として開拓使勧業課所属となりました。

 開校式は、明治9(1876)年8月14日に行われ、わが国最初の高等農業教育機関が誕生しました。9月に校名を札幌農学校と改め、マサチューセッツ農科大学に則して職制・諸規則・舎則などが定められました。
これによると、修業年限4か年で、開拓に有用な人材養成を目的とするところから、全部官費で卒業後は道内に居住して5年間開拓使に奉職の関係学科、それに英語に大部分の時間を割き、また心理学、経済学など、文科系の学問が相当課せられていました。注目すべきは練兵が課せられたことです。これは、わが国最初の兵式体操の採用でした。同校には他に3年課程の予備科が付設されました。校長は、開拓使少判官調書広丈が兼務し、クラークを教頭(副校長)兼農場長の要職に据えました。外人教師としては、ホイーラー(土木工学)、ペンハロー(化学)の他10年にウィリアム・P.ブルックス(William P.Brooks)(農学)が来校して教鞭をとりました。

 クラークの教育方法は、極めて新しいものでした。
開校式の演説に「東洋諸国民を多年暗雲の如く包みし階級や因襲の暴君の手よりこの驚異すべき開放は、教育を受くる学生諸子の胸中に自ら崇高なる大志を喚起するに至るべし」と述べたように、独立性に富み、自らの責任を持つ者を育てようと最善を尽くしました。自らの研究心、向学心に訴えて、現実の観察から学ぶことを奨励し、率先して野外の観察を行い、学問のためには自ら生徒の下に人梯となることも辞しませんでした。また農場実習には一定の労賃を支給して独立勤労の気風を養うと共に、近代経済思想を植えつけようとしました。

 これらは、日本の伝統的な価値体系と真っ向から対立するもので、生徒たちに与えた衝撃は大きいものでした。またクラークが力を注いだのは徳育でした。長らく封建的な鎖国主義の中に育てられた徳育は、新しい時代を迎えて著しい弱点を露呈していました。
クラークは、魂の糧として生徒に聖書を与え、毎朝授業に先立って祈り、あるいは聖書の章句を解説しました。生徒たちは、その学問・信仰を学び、翌10(1877)年3月にはクラークの起草にかかる「イエスを信ずる者の契約」に署名し、まもなく洗礼を受けました。
 こうした環境に育った生徒が後年学校の幹部になるに及んで、札幌農学校には独自な校風が形づくれました。クラークは、10年4月に任期を終え、札幌を去りました。
(参考)当ブログ8月23日(土)「開拓使仮学校開設」
    当ブログ8月16日(土)「教員養成と師範学校の設立」
    当ブログ8月10日(日)「村落・変則小学教則の制定」
    当ブログ8月 9日(土)「学制公布と北海道の特例」
    当ブログ8月 8日(金)「明治初年の教育状況」
    当ブログ7月15日(火)「北海道三県一局の成立」

註:北海道「新北海道史第三巻通説二」927-930頁参照。
写真:「農業小学」
   北海道開拓記念館にて2007年撮影許可を得て、掲載いたしております。
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開拓使仮学校開設

2008年08月23日 | 歴史・文化
 開拓使は、明治3年に北海道開拓に関する意見書を上書し、教育については「将来の要」として位置づけていました。

 明治5年1月2日にケプロンは黒田に宛てた書状の中で、「学問及び実施上ニ就テ、確定セル農業ノ方法ヲ日本ニ開クハ、蓋シ政府ノ尽力ニアルベシ」とし、そのためには「府下ノ養樹園及ビ札幌ノ耕作場ニ付属シ、各般ノ農業ヲ教フル学校ヲ起スベシ、其経費少ナクシテ実効アル者、之ヲ措テ他ニ無カルベシ。此両所ノ学校ニハ、科学試験所ヲ設ケ、農学各般ノ業ニ、練達セル教師ヲ置ク可シ・・・」(開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文)と農業に関する学校の必要性を力説しました。黒田は、このケプロンの意見に同意して同1月20日正院に対し伺いを立て、許可を得ました。

 こうして仮学校は同年3月14日、他日札幌へ移す意図の下に東京柴増上寺方丈跡に設立され、学校掛に荒井育之助が任命されて管理に当たり、教頭にはケプロンの幕僚として同時に来朝したトーマス・アンチセル(Thomas Antisell)が任じられました。そして、生徒の入学資格を14歳から20歳までとし、官費生・私費生各50人を募集しました。官費生は卒業後10年間、私費生は5年間北海道開拓の業務に従事する義務を負わされました。
学科を普通学および専門学に分け、前者をさらに二科(第一・第二)、後者を専攻別に四科(器械・鉱山・建築・農業)に組別し、普通学修了の後、専門学のいずれかの科に進むことにしました。

 開拓使仮学校ではこの他旧土人教育、女子教育、電信技術教育を行いました。旧土人教育はアイヌ弟男女35人を道内から募り、読書・習字・農耕・樹芸・牧畜などを学ばせましたが、中途で帰国するものが多く失敗に帰しました。女学校は明治5年9月19日に併設されたもので、オランダ人イ・ツ・ワーテル(E.Te.Waarter)とイ・デ・ロイテル(Y.D.Ruyter)の二女史を招き、12歳から16歳までの女生徒50人を入学させました。卒業した後は、男子部の出身者に嫁し、北海道に永住して拓殖に力を尽くすことが条件で、移住士族および開拓使管吏の子女が多くいました。電信技術修業生は開拓使に勤務することを条件として募集し、電信寮に依託修業させました。

 以後仮学校は、最初の生徒が粗暴でかつ規則を守らないことなどのため、明治6年3月に解散し、新たに規則を改正して修学年齢を下げ、これを予科生ととし、学業試験を厳重にし、罰則を強め、4月12日組織を改めて開校しました。
この時荒井校長が退任し、調所広丈が校長心得となりました。

 明治8年3月、開拓使は仮学校を札幌に移すことを決め、北一~二条西一~二丁目に講堂・復習講堂・寄宿舎などを改造・新築しました。同年7月29日札幌に移って校名を札幌学校と改め、9月7日に開校式を挙げました。校長は、開拓少判官調所広丈の兼務、副校長には森源三が学務局兼務で任命されました。その時男子31人が在学していました。

 一方、女学校は南一条西三丁目に校舎が用意され、デ・ロイテルの後任のイギリス人エリザベス・デニス(Elizabeth Dennis)女史が生徒36人と共に東京から札幌に移って8月24日授業を開始しましたが、9年5月2日をもって廃止されました。
(参考)当ブログ8月16日(土)「教員養成と師範学校の設立」
    当ブログ8月10日(日)「村落・変則小学教則の制定」
    当ブログ8月 9日(土)「学制公布と北海道特例」
    当ブログ7月12日(土)「対雁学校授業の風景」
    当ブログ7月 3日(木)「教頭頭取兼顧問ケプロンの北海道開拓」
    当ブログ6月28日(土)「対雁学校の教育」
    当ブログ6月20日(土)「移民扶助規則設定」

註:北海道「新北海道史第二巻通説二」925-927頁参照。
写真:開拓使「明治12年2月刊行開拓使顧問ホーレスケプロン報文」
   北海道開拓記念館に2007年撮影許可を得て掲載いたしております。
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開拓使廃止に伴う勧農政策の変化―博覧会・共進会開催

2008年08月22日 | 歴史・文化
 開拓使の廃止に伴い、諸官園が農商務省の管轄下に入ったことは、三県時代の勧農政策の変化を最も端的に表す事柄でした。

 明治14(1881)年、農商務省の成立以後、全国における勧農の方針は、「汎奨主義」を捨てて「専奨主義」をとると表現されるように、特定の作物(蚕桑・製茶など特用作物および米・麦)、家畜(牛・羊・豚)に目標を設定して奨励するように変化しました。そこで農具については、西洋農具の再検討が行われ、外国よりの農具輸入は途絶えました。稲苗の輸入数量も漸減する傾向にあり、特用作物その他若干の新品種が輸入され、府県に配布されたに留まりました。開拓使の諸官園も当然こうした新しい方針の影響を受けたと思われます。

 明治15(1882)年3月、東京第三農業試験場は御苑に加えられ、東京官園は最終的に消滅しましたが、この東京園こそ外国より輸入した動植物の北海道への中継的培養場であり、また西洋農具使用の試験、伝習の場所であり、欧米農法導入の主要な窓口でした。東京官園以外の道内諸施設は、農商務省以後もほぼ従来の規模で業務を継続しましたが、そこには種々の問題がありました。
 
 その一つの問題は、省と県との勧農業務の不統一でした。例えば、明治15(1882)年4月および6月、函館県令時任為基は、農商務卿に対し、七重勧業試験場の函館県所属換えを上申しましたが、そこで「実際事務両途ニ出テ支梧ヲ生」ずる恐れを種々述べています(北海道事業管理局の農業ー七重試験場引継書)。この上申は聞き届けられず、後には同場吏員の若干を県勧業課兼務として双方の調整を図りましたが、「兼務後一モ本県ノ為事務ヲ取扱フナク今日マデ有名無実ニ帰セリ」(金子太政官初期官依嘱取調書)といわれる。
 もう一つの問題は、第一の問題に関連するが、これまでの勧農政策は官の協力な保護ないしは干渉が建前となって、かつ農業・牧畜・養蚕の全体的視野に立って実施されてきましたが、置県以後は一時的にもそれらの条件が失われたため障害が起きました。それには、海陸運輸の不便と農作物買上げの停止による農産物販路の閉塞があり、さらに、開拓使創始の諸事業が停頓したため金融・商況が悪化し、その影響が農業にも及んだことなどが挙げられます。
 
 そして、農業一般が不況に見舞われましたが、各県および農商務省はさまざまな施策を通じて、その回復と発展を図ろうとしました。
その施策の一つが、博覧会・共進会の開催および出品でした。
 北海道における官設の博覧会は、明治11年札幌に農業仮博覧会を開催しのに始まり、以後札幌と函館で隔年交替に開催し、明治13(1880)年には農産物以外の産物も、事情によっては出品できることとしました。
 明治15(1882)年5月には農業仮博覧会を開拓使の旧規によって三県交替で開催することを農商務省に稟請して裁可を得、三県連合して同年10月に第三回札幌農業仮博覧会が開催されました。翌16(1883)年からは北海道物産共進会と称し、その目的も、これまで農業を中心としていたのを「農工商漁ヲ問ハス都テ本道ノ産出ニ係ル物産ヲ蒐集シ、其精粗優劣ヲ品評シ、専ラ改良進歩ヲ図ル」(函館県布達々全書)ことに改め、この年は函館で開催し、翌17(1884)年には札幌で、18年には初めて根室で開催されました。

 明治18(1885)年10月に農商務省は翌年からの北海道物産共進会のあり方について令し、各地の特有物についてその種類を定め、例えば札幌県は陸品、函館県は製品、根室県は水産とするような目的をもって、三県連合して毎年開設の方法を協議させました。同年11月根室で開かれた共進会では動物31種、植物1800種、製造物1428種、参考品88種の出品があり、総覧者は5300人余に上りました。

 道外の博覧会・共進会への出品も、開拓使時代に引き続いて行われ、明治15年に開かれた第一回内国絵画共進会に、札幌県3人が出品しました。翌16(1883)年3月には東京で第一回水産博覧会が開催されましたが、これは第一回(明治10年)・第二回(同14年)内国勧業博覧会に水産についての部門が設けられず、さしたる成果がみられなかったため、農商務省の主催によって開かれたものです。これに対する出品数は、函館県175、札幌県295、根室県151で、出品人員は359人であり、このうち受賞者数は1等賞牌2人、2等3人、3等8人、その他合計90人でした。
(参考)当ブログ8月21日(木)「F'sフェスタin江別ー森と水に育まれた大地」開催のご案内
    当ブログ8月19日(火)「北海道をめぐる商品の流通」
    当ブログ8月11日(月)「ひとつ鍋」
    当ブログ8月 7日(木)「北海道事業管理局の設置」
    当ブログ8月 6日(水)「耕馬の活躍」
    当ブログ8月 4日(月)「樹林地帯からの開墾」

註:北海道「新北海道史第三巻通説二」811-814頁参照。
写真:「十河定道復命書(複製)」
   北海道開拓記念館2007年撮影許可を得て掲載いたしております。
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