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ゴシップ的追悼

2015-05-13 23:58:00 | 政治
松圭さんが亡くなった。85歳だから早すぎるということはない。長生きしすぎたといわれる場合、その生涯の仕事が限界をさらしてしまったか、もうろくして晩節を汚したという含意があるわけだが、松圭さんにはもちろんそんなことはない。「あの菅元首相の政治の原点」と「不肖の弟子」のとばっちりを食いこそすれ。

訃報には学会の会長や理事長などの肩書きや論壇の受賞歴が仰々しく並ぶが、西欧の政治学理論の紹介や翻訳ではなく、日本独自の市民自治の政治理論を打ち立てた諸著作と実践活動において、ある意味では師匠の丸山真男以上の影響を日本の政治に及ぼしている。


私がお目にかかった頃は、まだ半白髪でした

というようなことを訃報を契機に書き連ねるのは、とても私の任ではない。日本の政治を考える際には必読といわれる数多くの松圭さんの著作のうち、ほんの数冊しか読んだことはないし、まっとうな理解をしているとはとうてい思えないからだ。にもかかわらず、「松圭さん」となれなれしく呼ぶのは、なにより、ご本人がそう呼ばれるのにふさわしい、気さくで闊達な人柄だったからだ。

その謦咳に接した、全国の市民自治グループのメンバーや自治体職員、地方議会の議員たち、もちろん、政治学の弟子や後輩たちも、たぶん、「松圭さん」とか「松圭」と敬愛を込めて呼びながら、「市民社会」や「市民自治」について仲間と語り合った覚えがあるはずだ。

私も一度お目にかかったことがある。「その謦咳に接した」というにはほど遠い不真面目なインタビュアーとしてだったが。たぶん、「松圭さん」は誤解したのだろうと思う。紹介者がいまは亡き先輩のMさんだったからだ。私の「松圭さん」呼ばわりも彼の影響からきている。市民自治の唱道者の「松圭さん」と自治体の政策課題として市民自治を導入するために、市民派政党づくりとその選挙戦まで携わっていたM先輩は、日常的な交流があっただけでなくとても親しかった。

私は当時発足したばかりの文部省の生涯学習の提灯記事を書く予定だった。文部省の教育白書の生涯学習の項を読み、『社会教育の終焉』という批判書が出ていることを知り、Mさんに紹介を頼んだのだ。反対批判する学者の声も、「指摘のような課題は少なくないが」とアリバイ的に入れて、ちょちょんのぱと仕上げるつもりだった。

松圭さんにしてみれば、市民社会と市民文化について現状分析のコメントぐらいに予想していたのだろうし、なによりMさんが紹介する後輩だから、優秀な人物なんだろうと思ったのかもしれない。「できれば、今日か明日にでも」というアポイントメントを快諾してくれた。

Mさんを先輩呼ばわりしていたが、学校や会社が一緒だったことはなく、フリーライターと兼業していた、市場調査や大規模店舗の立地計画などの仕事を受注する際に、いろいろ教えてもらっていたその道の先輩という意味だった。

松圭さんと待ち合わせたのは、ご自宅の最寄り駅の西武新宿線小平の駅前だったと思う。時間は午後3時。大学が休みの土曜日だった記憶がある。松圭さんは厚手のセーターにマフラーを首に巻いて改札口の前に立っていた。背が高いなというのが第一印象だった。私は15分ほど遅刻していた。フリーライターは大学教授なんぞより、ずっと忙しいのだ。

「すいませんすいません」と口先だけで謝っていると、「うんうん、いいからいいから、ちょっとそこらへんの店に入ろう」と大股でずんずん歩いて行く。喫茶店を過ぎて、居酒屋の席に着くと、松圭さんはさっそくタバコをくわえ、矢継ぎ早に注文をはじめた。

(まいったな。いきなり吞むのか。居酒屋の勘定となると銀行に行かなくちゃな)という困惑が顔に出たようで、「僕が誘ったんだから、ここは持つから」と松圭さんは馬みたいな長い顔をにっこりさせた。(ははあ、この先生が吞みたいわけだな。家じゃ、奥さんの手前昼間から呑めなかったりして)とほっとして、ビールに口を湿らせた。

「フリーライターかあ。僕も昔はあちこちの雑誌に書きまくっていた時期があった。フリーライターみたいなもんだったな。その頃はね、若手の学者が殴り込みをかけるみたいに、朝日ジャーナルなどで書いていたもんだった。いまはそういうことはなくなったがねえ」と紫煙に遠い目をうつした。

(昔話をしてもらっちゃ困るな)と、とりあえずの世間話の口火を私は切った。「先生は市民市民といわれますが、昭和天皇の病気快癒の記帳に女子高校生までがおしかけたそうじゃないですか。日本人はあいかわらず臣民じゃありませんか?」

松圭さんの目がすっと光ったようにみえた。知らぬこととはいえ、「大衆天皇制」をまっさきに書いた御仁を愚かしくも挑発してしまったのだ。私は、『社会教育の終焉』だけを拾い読みしかしてこなかった。ウィキペディアもなく、松下圭一についてなにも知らなかった。

それから約6時間、夜の9時近くまで店を変えながら、私はバカな質問と反論をくり返した。さすがに、松圭さんの呆れ顔に気がついたが、「わからんちんの素人を啓蒙するのも、大学や大学人の社会的使命のひとつですから、ひとつかんべんしてやってください。わはは」とまでやった。私は酒に弱く、すぐに酔うのだった。


若き日の「松圭」さん。東大を都落ちして法大へ来た頃か

じつに赤面の思い出だが、この項続きます。松圭さんについてはその若き日の怜悧な風貌を断片的に聞き知っています。私がお目にかかったときの、唇に笑みをたたえ、要点にかかると髪をかき上げながら、熱心に語る印象とは別人のようです。学生だった面影を残しながら、懐の深いおじさんという感じでした。

ずっと後年に会った、まだ東大退官前の養老孟司さんの話を聴いていて、同様な感じを受けました。そういえば、養老さんも、「定年前に辞めて、フリーライターになるつもりです」と笑っていました。心中、(たぶん、養老さんの書き物だと売れないっすよ)と茶々を入れたことを覚えている。

おそらく、市民自治の研究にともなう実践活動や運動体に携わるなかで、松圭さん自身も得るところが多く、変わっていったのではないかと思います。


コメント
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