コタツ評論

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素朴であることの間違い

2005-08-06 12:15:33 | ノンジャンル
言論の自由とは、言論の自由という制度である。
何ものにも縛られず自由にものをいう権利であるが、この場合の「何もの」とは実はあらゆるものではなく、明確に特定される。したがって、上司が部下に「君は黙ってなさい」と意見を封じたり、組合集会で数を頼んで1人を吊し上げて一切の抗弁を聞かなかったり、多数の前で話していて大声の野次をかぶせられたときなど、いずれもやられた方は言論の自由を主張できない。言論の自由とは関係ないから。また、その上司や吊し上げた者や野次を飛ばした人が、一般論や自らの問題として、言論の自由を語ったり主張しても何ら矛盾はない。また、彼らが、「相手の意見をよく聞いて話し合って問題を解決していこうよ」と言い出しても、「あれっ?」と思う方が間違い。
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読者と自由

2005-08-06 12:11:17 | ノンジャンル
ネットの「読者」を「不特定多数」とするなら、既成の新聞・雑誌メディアと何ら変わりない。ならば、ネットにおける特権的なメディア批判は無効である。ネットにおいては特定少数の読者が対象ではないかと思う。「不特定多数の読者」を前提としたときから、既成メディアがそうであるように、どこまでも書き手(読み手も)は無責任になりうる。また、自由とは恣意のことではない。自由とは公権力に縛られないという意味。「何しようと俺の自由だろ」というのは間違いで、それなら「俺の勝手」というべき。「俺の勝手」が周囲や世間に通らないのは、抑圧でも疎外でもなく、ましてや弾圧などではない。したがって、「ほんとうに自由」などというものはない。あるのは制度としての画餅の自由であり、「自由でありうる」という個々人の運動だけだろう。そして、運動とは社会の制約や制限と不可分であり、言論においてはそれを内面化する必要さえある。容赦のない罵倒で知られる吉本隆明は、まず晦渋な文章で書いてから、「ようするに、こいつはタダのバカである」などと「校正」していくそうだ。
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