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超級龍熱

香港功夫映画と共に

龍熱の昭和プロレス放談(96)淡白に終わったローラン・ボック☓長州力戦。

2025-03-16 12:44:54 | 龍熱の昭和プロレス放談

衝撃の来日第1戦の木村健悟戦とは異なり、やや淡白な試合となったローラン・ボック☓長州力戦。 
長州さんが試合後「ボックの奴がいきなり仕掛けてきた!」と怒ったそうですが、恐らくボックはオリンピックレスラーである長州さんのアマレススキルがどの程度か知りたかったんでしょう。
同じようにボブ・バックランドも長州さんと対戦した時はアマレススタイルで攻めて来たそうですから。
ただ龍熱も含めた観客は、こんなボックの似合わないネックシザースツイストよりも、ボックの急角度ジャーマンスープレックスが見たかったはず。 
ボックは何故か木村健悟戦以降はそのジャーマンスープレックスを使わなくなり、殆どの試合のフィニッシュはダブルアームスープレックスでした。
龍熱が推測するに、第1戦でボックがジャーマンで木村さんを頭から落とすのを見た他の選手からジャーマン使用にクレームが来たのかも知れませんね。 

Roland Bock against Riki Choshu in Japan 1981.


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龍熱の昭和プロレス放談(95)ジャンボ鶴田、生涯唯一の異種格闘技戦!

2025-03-15 10:12:05 | 龍熱の昭和プロレス放談

1978年2月5日後楽園のUNヘビー級選手権ジャンボ鶴田☓アントンヘーシンクを当時録画映像で観賞。いや放送当時もリアルタイムで見てますが、久々に見てビックリだわ。これ明らかにプロレスではなく異種格闘技戦でしょう。
だって序盤3分がカット後、画面が変わるといきなりヘーシンクがジャンボを激しく罵倒する場面になり、ジャンボもヘーシンクも顔付きが普段と全く違う異様な緊張感です。
試合中もヘーシンクはプロレス技は一切出さず(終盤にアトミックドロップを出すだけ)執拗にジャンボをグラウンドに引きずり込んで得意の袈裟固めを何度も仕掛けます。
ジャンボも何時ものプロレスとは全く違う動きで、ヘーシンクのグラウンドにはアマレス流のバックの奪い合いから滅多に見せない腕ひしぎ十字固めで応戦します。
ただそれでもジャンボはサイドスープレックス2連発で巨漢ヘーシンクを投げ捨てて、一応プロレスの見せ場を作る辺りはさすがチャンピオンです。
最後はヘーシンクがロープ際でジャンボに裸絞めを仕掛けブレイクを無視した果てに反則負けでした。
恐らくジャンボとヘーシンクは、この試合は通常のプロレスの試合でなく異種格闘技戦色の強い試合で行う、そう覚悟してリングに上がり、観客にはプロレスの試合としてアナウンスしたんでしょうね。
試合後、これまたヘーシンクが珍しくマイクで何事か激しくアピールしたり、ジャンボがレフェリーのジョー樋口さんに「何ですか、この試合?勘弁してくださいよ」的なウンザリ顔が印象的でした。
ただ何故この試合が急に異種格闘技戦色の強い試合で行われたのか?何故ヘーシンクはこの試合を最後に全日本プロレスを去ったのか?何とも謎に満ちたジャンボ鶴田☓アントンヘーシンクのUNヘビー級選手権でした。

Jumbo Tsuruta against Antonius Geesink UN heavy weight championship was almost MMA style match.
This was Geesink's last wrestling match in Japan.


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龍熱の昭和プロレス放談(94)偉大なる第77代NWA世界王者藤波辰爾!

2025-03-11 12:21:50 | 龍熱の昭和プロレス放談

今日はジャイアント馬場さんの命日(注:本原稿執筆時)ですが、NWA世界ヘビー級王座3度戴冠の馬場さんと同じく、第77代NWA世界ヘビー級王者の藤波辰爾さんも改めて評価されるべきでしょう👍。
東京ドームという大舞台で“最後のリアル”NWA世界王者リック・フレアーからベルトを奪取し、それがシッカリと公式記録に残り、最後はアメリカで決着戦となるリック・フレアーとのタイトルマッチも実現させた。
このどれもが師匠アントニオ猪木さんがWWFヘビー級王者として出来なかった事で本当に素晴らしい👏。
ただ、なら何故この藤波さんのNWA世界王者としての素晴らしい快挙がファンの記憶にそれほど強く印象に残らなかったのか?私はその理由は東京ドームのフレアー☓藤波戦のフィニッシュにあると思います。
それはオーバーザトップロープとかレフェリーが交代したどうこうではなく、試合の最後に藤波さんがフレアーから3カウントを奪った技が比較的地味なグランドコブラだった事。これがこの偉大な快挙の印象を希薄にしていると思うのです。
そう、もし藤波さんが最後フレアーを必殺のジャーマンスープレックスホールドで投げてカウント3!だったら、このジャイアント馬場さんに次ぐ日本人2人目の世界最高峰ベルト奪取の快挙は、今も私たちファンの記憶に強烈に残っていると私は思うのです。
それでも、右の週ゴン&週プロが同時発行した増刊号の表紙を飾った黄金のBIG GOLDベルトを巻いた我らがドラゴン藤波辰爾の晴れ姿は日本のプロレス史に永遠に刻まれる事でしょう✨

77th NWA world heavy weight champion Tatsumi Fujinami.


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龍熱の昭和プロレス放談(93)王道師弟コンビvs暴走戦士、両国国技館で激突!

2025-03-03 18:28:47 | 龍熱の昭和プロレス放談

昨晩の「龍熱の昭和プロレスシアター」は、1986年10月21日に両国国技館で行われたジャイアント馬場&天龍源一郎☓ザ・ロードウォリアーズのタッグマッチを観賞!(注:初投稿時)
馬場さんmeets暴走戦士なんて驚愕カードが、それも両国で実現していたのか!って、いたのかと言ってるその龍熱が放送当時に自分で録画したVHSからDVDに焼いた映像を見ているわけです😆。

注目の馬場さんとウォリアーズの絡みは2度ありまして、それこそ馬場さんがアニマルやホークと真っ向から激突する様は大変貴重でしょう。
ウォリアーズは流石に御大馬場さんにはちょっと遠慮気味にパンチやキックを入れてますが😅、天龍が出て来ると途端に猛爆ファイト全開!また天龍も暴走戦士の猛攻を真っ向から受けまくり見応えがあります。
最後は馬場さんがウォリアーズ2人相手に大暴れしまして、一気にジャンピングネックブリーカーを狙った馬場さんがロープに走ろうとした瞬間、セコンドのポール・エラリングが馬場さんの足を引っ張り、馬場さんが転倒!ウォリアーズの反則負けとなりました。
でも考えて見たら、この4年後にSWSに移籍する天龍と馬場さんの師弟タッグが、大相撲出身の天龍の故郷である両国国技館で実現していた、という何とも数奇な巡り合わせも、実に感慨深いものがあります。

Giant Baba &Genichiro Tenryu against The Road Warriors at Ryogoku Sumo Arena.


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龍熱の昭和プロレス放談(92)人間、馬場正平の金銭哲学と力道山。

2025-03-01 11:02:50 | 龍熱の昭和プロレス放談

力道山「なあ馬場君!いや敢えて馬場さんと言わせて貰う!お前さんがアメリカで稼いだギャラ、もう少しだけワシに貸しといてくれんか?頼むよ!」
馬場「はあ・・(馬場の心の声:アンタが金がいるなら俺だって金がいる。三条のオフクロにもまとまった金もあげたいし。だいたい俺のギャラはアトキンスと東郷がピンハネしたとか言ってるけど、本当は目の前のこの男がゴッソリとポッポに入れたんじゃないのかな。嗚呼、プロレスって嫌な世界だなぁ!)」

門茂男著「ザ・プロレス365」に登場する馬場正平がアメリカで稼いだ巨額のギャラをフレッドアドキンスとグレート東郷に滅多滅多にピンハネされ、さらに残りのギャラも返済を渋る力道山を目の前にして、馬場正平、いや後のジャイアント馬場のシビアなまでの金銭哲学が確立していく様子は、私も何度も何度も読み返して暗記しているほどです。
門茂男さんはプロレスマスコミ諸氏には余り評価されていないようですが、私はプロレスの深層部分、さらに力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木たちレジェンドのリアルで生々しい素顔は、全て門さんの著作から強い影響を受けましたし、それはそれで私自身は十分に納得しています。
要するに私は門さんの文章が好きなんですね。改めて門さんには是非一度お会いして見たかったです。

Rikidozan and Giant Baba.


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龍熱の昭和プロレス放談(91) 新日蔵前暴動史の前兆?猪木☓バックランドWWF争奪戦

2025-02-09 14:34:17 | 龍熱の昭和プロレス放談
新日本プロレス蔵前暴動史、その前兆とされるアントニオ猪木☓ボブ・バックランドのWWFヘビー級選手権考察、拡張版です。
まずタイガー・ジェットシン乱入に乗じて急所打ちアトミックドロップで勝ったバックランドにアッサリとベルトを渡すレフェリーのミスター高橋が大馬鹿。
この高橋の愚行でバックランドと蔵前の観客がベルト移動が正しいと認識してしまった。 改めて新日がビッグマッチのレフェリーは高橋ではなく、肝心な時に機転が利くレッドシューズ・ズーガンを毎回起用していたのも納得。
またバックランドに殴打される寸前の新間寿氏が当時WWF会長の役職にあった事をこの日蔵前国技館にいた殆どのファンが知らなかったのが不運だった。
さらに星野勘太郎や永源遥らヤバそうな強面たちがベルトをバックランドから奪おうとしたのも絵柄的に良くなかった。 もっとも星野さんたちは猪木さんのための当然の行動だったのだが。
で、最後にバックランドと偉そうに握手する元首相が一番絵柄が悪かった😆。

この徳島から蔵前で展開されたWWFヘビー級王座争奪戦の結論。それはやはり猪木さんは馬場☓ブリスコ、馬場☓レイスのNWA世界ヘビー級王座争奪戦のように、この蔵前のリング中央でバックランドのアトミックドロップで3カウントを取られ、ベルトを潔くWWFに返すべきだった。
何故なら試合自体は両者がストロングスタイルの素晴らしい攻防を30分近くに渡り繰り広げた白熱の試合で、その激闘の果てに猪木さんがバックランドに負けてベルトを奪還されたとしてもファンは十分に納得し、第9代WWFヘビー級王者アントニオ猪木を称えたと思う。
それが猪木さん的にどうしても出来なかった理由の一つは、猪木さん自身がバックランドをレスラーとして自分より格下の後輩だと思っていたから。
そしてこの蔵前の猪木☓バックランド戦のVTRは当然WWFオーナーのビンス・マクマホン親子も見ただろうし、特にマクマホンジュニアは「何だイノキの奴は?せっかくジャパン限定でWWFのチャンピオンにしてやったのにこんなグチャグチャなベルトの返し方するなんて。だから親父(マクマホンシニア)はニュージャパンに甘いんだ。ミーの代になったらニュージャパンに絶対に甘い顔はしない。イノキが第9代WWFチャンピオン?そんなものアメリカのファンに知られたら大変な事になる!」と猪木&新日本に対して強い不信感を持ったのは間違いないだろう。

What a mess.Antonio Ikoki against Bob Backlund WWF heavy weight championship Tokyo 1979.

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龍熱の昭和プロレス放談(90) 猪木☓ボックを批判したジャンボ鶴田の心中

2025-02-08 14:06:54 | 龍熱の昭和プロレス放談
今週の週プロ(注:本稿執筆時)の流智美連載コラム「あの日あの時」は西ドイツのアントニオ猪木☓ローラン“ブルック”戦を検証。 そう有名な“シュツットガルトの惨劇”です。
当時15歳の龍熱はこの試合をリアルタイムでTV観戦しましたが、その時の正直な感想は「あれ?猪木ってこんなに弱かったのか!?」でした。
実際は猪木さんが地元の英雄ボックの凄味を引き出して見せた上で潔く判定で負けた試合。恐らくこの試合でボックはプロレスラーアントニオ猪木を改めて信用し、また深く感謝したと思う。
同じくこの日の猪木☓ボックをTV観戦したジャンボ鶴田が「あんな試合、TVで放送しちゃ駄目だよねえ!」とコメントしたのは有名な話。
ただ龍熱から見て、ジャンボのこのある意味辛辣なコメントは、お互いに相手の個性を殺し合いひたすら試合に勝利する事だけが目的の試合となった猪木☓ボック戦を見て、師匠ジャイアント馬場のプロレスとは真逆のプロレスに強い反発を感じながらも、同時に心の何処かで「自分もこのローラン・ボックと闘ってみたい!」とのプロレスラージャンボ鶴田自身の秘めたる闘争本能を懸命に押さえ付けながらの言葉だったのではないか。そんな深読みすらしたくなる、アントニオ猪木☓ローラン・ボックの伝説の死闘でした。

Antonio Inoki against Roland Bock Germany 1978 from latest Weekly Pro-Wrestling magazine column by Tomomi Nagare.

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龍熱の昭和プロレス放談(89) 幻の第9代WWFヘビー級王者アントニオ猪木

2025-02-01 13:50:18 | 龍熱の昭和プロレス放談
2010年にアントニオ猪木さんが殿堂入りした際に何故WWEはセレモニーで「正式ではないが」なんて注釈入れずに猪木さんをオフィシャルに第9代WWF(WWE)ヘビー級王者と認定しなかったのか。今から思えば、この時が最後のチャンスだった。

WWEも歴代王者に「アントニオ猪木」の名前があれば名誉なはずだし、1979年徳島で猪木さんがボブ・バックランドをバックドロップでピンフォールしたのは事実。確かに蔵前のリターンマッチはゴタゴタしたけど、2試合ともちゃんと試合映像も残っている。
ジャイアント馬場さんが3度NWA世界ヘビー級王者になり、ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者になり、アントニオ猪木さんがWWFヘビー級王者として公式に認定されれば、私たち昭和プロレス信者にとって夢と憧れだった“世界三大タイトル”全てを日本人レスラーが戴冠した事になる。

私は以前「闘道館」のイベントで元WWF会長の新間寿さんに直接この件を訴えたら、新間さんも真剣に私の話を聞いて下さり「分かりました。今度マクマホンに訊いてみます!」と答えてくれました。誰が何と言おうと第9代WWFヘビー級チャンピオンはアントニオ猪木。いま改めて世界中に声を大にして訴えたいです。

How many people of the world actually know Hall of Famer Antonio Inoki won 9th WWF heavy weight champion??

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龍熱の昭和プロレス放談(88)謎の強豪アスラム・パールワンの正体を暴く!

2025-01-20 17:51:20 | 龍熱の昭和プロレス放談
ゴング1969年2月号で特集「幻の強豪アスラム・パールワンの正体を暴く!」と紹介されているのは明らかに若き日のタイガー・ジェットシン(ヒンズー・ハリケーン)でしょう。
同号では別の記事でもシンがタイガー・シン(得意技はコブラクローならぬコブラホールド!)として紹介されているのが興味深いですね。
この当時のレスリングレビュー誌のレーティングスに毎回“謎の強豪”アスラム・パールワンがランキングされていた奇妙な現象は、龍熱少年も梶原一騎先生が同テーマを取り上げた原稿を読んだ記憶があります。
またこのゴングの特集記事で私が最も興奮したのがゴング編集部がアスラムパールワンとは何者か?をダラ・シン、グレート草津、ブルーノ・サンマルチノに取材した果てに、最後に取材を受けたビル・ロビンソンが「アスラム・パールワンなら5年前にロンドンで闘った事がある」と衝撃の事実を語り始める箇所でしょう。ビル・ロビンソン☓アスラム・パールワン!一体どんな試合だったのか!?
そしてこの特集記事の4年後に“通称”アスラム・パールワンことタイガー・ジェットシンは新日本プロレスを急襲します。
さらに7年後にはパキスタンでアントニオ猪木がアスラム・パールワンならぬ、“本物”のアクラム・ペールワンとシュートマッチで対戦する事になるわけです。

Old but rare Japanese pro-wrestling magazine Gong Feb 1969 issue.

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龍熱の昭和プロレス放談(87)日プロ戦慄のジャイアント馬場包囲網!

2024-09-15 17:49:54 | 龍熱の昭和プロレス放談
別冊ゴング1972年10月号の特集記事で、インターのベルトを持って日プロを退団しようとするジャイアント馬場を阻止せんと、日プロが9月6日に田園コロシアムでインターのベルトを懸けて大木金太郎の挑戦を受けろ!と馬場に迫った、までは既出情報。  
ただ特集記事によると、日プロはもし田コロで馬場が大木に勝てば、翌日7日大阪で今度はUN王者坂口征二とインター&UNのダブルタイトル戦をやれ!と馬場さんに迫っていた事が判明。
いや〜流石にこりゃ日プロはメチャクチャだわ😱。恐らく田コロのインター選手権では大木さんがガッチガチ!のセメントファイトで馬場さんを潰しに来たでしょうし、例え馬場さんが何とか大木さんに勝ったとしても、日プロの選手たちがリングに乱入して試合を壊した可能性大でしょう。
さらにその翌日大阪で当時若さバリバリ!で柔道日本一の坂口さんに大木さんと闘ってボロボロの馬場さんが勝てた可能性は殆ど無かったはず。
そういう意味では、馬場さんが「馬場は大木から逃げた!」と非難されながらもインターのベルトを返上して日プロを退団したのは賢明な判断だし、後年の馬場さんと坂口さんの親交を見れば、この時に大阪でジャイアント馬場☓坂口征二のインター&UNダブルタイトルマッチが回避された事は幸いだったと思います。

Fight without fight.Gong Extra magazine features Giant Baba dicided to leave JWA without his International heavy weight champion belt in 1972.

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