バロン西竹一
通り名はバロン西(バロン、ニシ、Baron Nishi)。何てことはない、中国からすれば、チベットの方の西で、ありふれた竹林の竹です。しかしながら、1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリストと言えば記憶のいい方は思い起こすに違いありません。
往診先の90歳をトウに越した好爺、昔、内モンゴルの戦車部隊にいたとか、アヘンの隠し場所は女陰であったとか、こんなに暑いのに、「大丈夫ですか?そんな厚着して」と言い、往診が終われば汗だくの日が続いていたのですが、その後音沙汰無く、入所先から、再受診して「なんだこれは、酷いじゃないか」と私を言わさしめる 悪臭の化膿がほったらかし。
写真 悪臭漂う「ほったらかしの化膿巣」
さて、バロンに戻って、のちには機甲兵に転科戦車第26連隊長として第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦いで戦死。父、徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物であり、義和団の乱の処理の際、西太后から信頼を厚くされたとあります。1912年(明治45年)には徳二郎が死去し(浪越徳次郎じゃありませんよ)、その跡を継ぎ当主として男爵(バロン)となるのです。
幼少時
学習院幼稚園、「暴れん坊」であった。外交官であった父の遺志を継ぎ府立一中(現、日比谷高校)に入学、同期には小林秀雄(暴れん坊じゃなかったです)がいました。
陸軍へ
その後、中略、新設の陸軍士官学校予科へ第36期で入校。華族として乗馬を嗜んでおり、帝国陸軍の花形である騎兵を選んだ。ウラヌスとの出会いと金メダル は後存知のとおりです。バロンはウラヌスと共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残す。つまり、帝国陸軍の出場選手一同と参加したロサンゼルスオリンピックでは、バロンはウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技に優勝、金メダリストとなる。現在においても日本がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録であるのです。
西はバロン西(Baron=男爵)と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる社交界で、また当時人種差別感情が元で、アメリカで排斥されていた在米日本人、日系人の人気を集め、のちにロサンゼルス市の名誉市民にもなっているのです。
オリンピックの数ヵ月後の同年11月には日独防共協定が締結されていることから、「意外な落馬」には主催国ドイツの選手に金メダルを譲るためにバロンが計った便宜ではなかったかという憶測が当時から流れています。
このオリンピックののち、バロンは騎兵第1連隊の中隊長として本業の軍務に戻ります。中略、捜索隊(師団捜索隊)が新たに編成され、また従来の騎兵連隊も一部の連隊を残し、多くは同じく機動偵察部隊である捜索連隊や戦車連隊に改編されていたため、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)11月、バロンは第26師団捜索隊長を拝命、更に1943年(昭和18年)7月には第1師団捜索隊長となっています。
1943年8月、バロンは陸軍中佐に昇進、また機甲兵として1944年(昭和19年)3月には戦車第26連隊」の連隊長を拝命、満州北部(北満)防衛の任に就いたのです。
そして硫黄島へ 当初はサイパンの戦いに参戦する予定でありましたが、現地守備隊が早々と玉砕したため、1944年6月20日に硫黄島への動員が下令。その行路(父島沖)においてアメリカ海軍ガトー級潜水艦「コビア」の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船「日秀丸」は沈没。8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、その折、馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスはバロンの足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという話です。
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