子どものときから登りたいと思い続けてきた山,宝ヶ岳。「ほうがたけ」と
読む。
故郷の南方に聳えていた。富士山に似たその形の良さから「添田富士」とも
呼ばれていた。
今回サイクリングのついでに登って来た。上の写真は故郷の中学校の同級生
宅に立ち寄ってそこから撮ったもの。
しかし,富士山のような形に見えるのは北方から眺めた場合に限られる。90
度横から見ると平坦な尾根が続いた山塊でしかない。下の地図でそのことが
お分かり頂けるであろう。
地図を見ると,宝ヶ岳は3つのピークからなることがわかる。つまり,その
山塊の総称であろう。三角点はない。そのためか,国土地理院が出している
「福岡県の主な山岳標高」には載っていない。
この山の諸元を明らかにしておこう。
(1)山名 宝ヶ岳(ほうがたけ)
(2)標高 489m(最高標高点)
(3)位置 福岡県田川郡添田町大字落合
北緯33°31’24”,東経130°51’8”,(33.5233, 130.8523)
(4)登山日 2019年5月17日
宝ヶ岳の登山口はいろいろあるようだが,今回は中元寺の陣屋地区から登っ
た。地図に載っている破線はわたしが手書きしたものである。想像力を働か
せて記入したものなので正確さは保証の限りではない。
その入り口の手前に薬師堂がある。
県の重要文化財。数年前このお堂の中から3体の神将が盗まれた。しかし,そ
の3年後発見されて元の場所に帰って来た。それからは管理が厳しくなったよ
うだ。
さて,そのお堂から数十メートル先に登山口はあった。
しかし,何の表示もない。登山口とはだれも思わないだろう。
自転車を付近に停めて,登山開始。
すぐに急な登りになった。道と思えるほどの道はないが,目印のテープなどが
誘導してくれる。
まだ人家から遠くないのにアカショウビンの鳴き声が聞こえてきた。例の特徴
ある声である。ひょろろろろ・・・。
しかし,とにかく登りづらい。急傾斜の岩盤の上の砂地,その上に落ち葉が積
もっている。とにかく登りづらかった。しかも周囲は樹木(ほとんど杉の大木)
が茂り,視界が遮られている。遠景を楽しめないどころか,自分の位置さえ同
定困難な状況。
それでも1時間30分ほどで頂上と思しきところに到達した。祠と仏像のような
ものが安置されていた。
仏像と思しきものは不動明王であろうか?この方面のことは暗い。
祠は石板でふさがれており,それに文字が彫り込まれていた。
毛利壹岐守と読める。
ここでも周囲が遮られている。しかし,少し南に移動するとちょっとだけ開け
た場所があった。英彦山が望まれた。
思うに,誰かがここだけ伐り払ったのであろう。
30分ほど休憩して下山開始。
降りは登りより悲惨であった。何度も滑り,転び,つまづいた。一度は右足を
木の根にひっかけ,膝が大きく折れ曲がった。と言っても,普通の人は何でも
ないこと。しかし,わたしは3年ほど前右膝の半月板を割ってしまって,今で
も不便を強いられている。「――これでまた再発か?」と痛む膝をかばいながら
降っていると,ほどなく痛みは消えた。不思議なことだが,膝が以前より軽く
なっているではないか。無理にぐっと曲げたのが良かったのかもしれない。
下山してから家まではまた自転車。
帰りは突風の向かい風。疲れた上にまた疲れ,夜は早々に床に入った。
しかし,疲れがひどすぎるためかなかなか寝付けなかった。何か全身の細胞が
微細動しているような気がした。60年越しの願いがかなったことの興奮だった
のかも知れない。
以上
読む。
故郷の南方に聳えていた。富士山に似たその形の良さから「添田富士」とも
呼ばれていた。
今回サイクリングのついでに登って来た。上の写真は故郷の中学校の同級生
宅に立ち寄ってそこから撮ったもの。
しかし,富士山のような形に見えるのは北方から眺めた場合に限られる。90
度横から見ると平坦な尾根が続いた山塊でしかない。下の地図でそのことが
お分かり頂けるであろう。
地図を見ると,宝ヶ岳は3つのピークからなることがわかる。つまり,その
山塊の総称であろう。三角点はない。そのためか,国土地理院が出している
「福岡県の主な山岳標高」には載っていない。
この山の諸元を明らかにしておこう。
(1)山名 宝ヶ岳(ほうがたけ)
(2)標高 489m(最高標高点)
(3)位置 福岡県田川郡添田町大字落合
北緯33°31’24”,東経130°51’8”,(33.5233, 130.8523)
(4)登山日 2019年5月17日
宝ヶ岳の登山口はいろいろあるようだが,今回は中元寺の陣屋地区から登っ
た。地図に載っている破線はわたしが手書きしたものである。想像力を働か
せて記入したものなので正確さは保証の限りではない。
その入り口の手前に薬師堂がある。
県の重要文化財。数年前このお堂の中から3体の神将が盗まれた。しかし,そ
の3年後発見されて元の場所に帰って来た。それからは管理が厳しくなったよ
うだ。
さて,そのお堂から数十メートル先に登山口はあった。
しかし,何の表示もない。登山口とはだれも思わないだろう。
自転車を付近に停めて,登山開始。
すぐに急な登りになった。道と思えるほどの道はないが,目印のテープなどが
誘導してくれる。
まだ人家から遠くないのにアカショウビンの鳴き声が聞こえてきた。例の特徴
ある声である。ひょろろろろ・・・。
しかし,とにかく登りづらい。急傾斜の岩盤の上の砂地,その上に落ち葉が積
もっている。とにかく登りづらかった。しかも周囲は樹木(ほとんど杉の大木)
が茂り,視界が遮られている。遠景を楽しめないどころか,自分の位置さえ同
定困難な状況。
それでも1時間30分ほどで頂上と思しきところに到達した。祠と仏像のような
ものが安置されていた。
仏像と思しきものは不動明王であろうか?この方面のことは暗い。
祠は石板でふさがれており,それに文字が彫り込まれていた。
毛利壹岐守と読める。
ここでも周囲が遮られている。しかし,少し南に移動するとちょっとだけ開け
た場所があった。英彦山が望まれた。
思うに,誰かがここだけ伐り払ったのであろう。
30分ほど休憩して下山開始。
降りは登りより悲惨であった。何度も滑り,転び,つまづいた。一度は右足を
木の根にひっかけ,膝が大きく折れ曲がった。と言っても,普通の人は何でも
ないこと。しかし,わたしは3年ほど前右膝の半月板を割ってしまって,今で
も不便を強いられている。「――これでまた再発か?」と痛む膝をかばいながら
降っていると,ほどなく痛みは消えた。不思議なことだが,膝が以前より軽く
なっているではないか。無理にぐっと曲げたのが良かったのかもしれない。
下山してから家まではまた自転車。
帰りは突風の向かい風。疲れた上にまた疲れ,夜は早々に床に入った。
しかし,疲れがひどすぎるためかなかなか寝付けなかった。何か全身の細胞が
微細動しているような気がした。60年越しの願いがかなったことの興奮だった
のかも知れない。
以上