最近読んだ「古代の道」(吉川弘文館)に官道の東海道(都~常陸国府)の東京23区部分に道路跡と推定できる現存の
道路があると書いてあり、東武スカイツリー線の鐘ヶ淵駅付近から京成押上線の京成立石駅の東側までの地図も載って
いた。そこをたどった。
古代東海道の豊嶋駅(駅:官道の中継拠点、役所があった。場所は谷中霊園。)から井上駅に向かっている。本による
と井上駅は下総国府(市川市国府台の和洋女子大付近)の中か付近と推定している。
今日は出来れば江戸川の西岸までは行って、対岸の和洋女子大の校舎(高層ビル)を眺めたいと思っていた。幸運にも
そうすることが出来た。
ここから出発。この駅の西側のたどれるところまで行って、またここに戻ることにした。
駅の西側、これから行ってみる方向。豊嶋駅つまり谷中霊園の方向。
駅の東側。下総国府つまり和洋女子大の方向。
古代の官道は直進しているのが特徴で、たしかに両方向ともかなり向こうまで見える。
ここはこちら側と向こう側で道がくいちがっている。古代官道は道幅12~13mだったので、現在のこの道の巾5~6m
から考えると、ずっと昔に幅が維持管理できなくなった時に事情があって食い違って残った、なんて勝手に想像して
みるとたのしくなる。
ふりかえって見た様子。勝手な想像が当たっているのではと思えてくる。
ふりかえって見る。
ふりかえって見る。江戸時代の道の跡でよく見る道路際の祠もあった。多分江戸時代にもよく使われた道だったのだろう。
墨堤通に突き当たる。向こうは都営白鬚東アパート。
上野の丘とか谷中霊園の丘が見えないかとアパートの西側にも行ってみた。地図ではこの方向化と思うがビル群で
なにもみえない。ここからだと三ノ輪駅、谷中霊園が直線状とおもわれる。
この橋にも行ってみた。
隅田川上流。
下流。スカイツリーもうっすらと写っている。
橋の上からだとこの方向が谷中、上野の丘だろうか。
奈良・平安時代には低湿地上からだから、間近によく見えたと思う。
鐘ヶ淵駅に戻って、東側を目指す。
直進。
荒川西岸堤防に突き当たる。この川は大正初めから昭和初めにかけての大工事でできた人工の大河川。もちろん奈良・平安
時代は陸地。
古くからの街道の名残と思われる石仏か石神。ちゃんとお祀りされている。
大河だ。
歩いて来た方向をふりかえる。
向こうに見える四ツ木橋まで行って、対岸に渡って、続きを見つける。
荒川はすごい水量だ。
鉄塔のあたりがさっき居た所。
対岸に着く。目の前の川は荒川に沿って流れる綾瀬川、この川も江戸時代の人工河川。
続きは、本の地図から見てこのあたりにになる。
ここらしい。ずっとむこうまで真っ直ぐ。
ふりかえる。すぐ前が高速の高架。
四ツ木3丁目1と2の間。
直進する。
平和橋通を渡った。
葛飾区教育委員会の説明看板があった。本に載っていたのと同じ道、しかも立石より先の江戸川までかいてあった。
これで行きやすくなる。中川につき当たった後の道はぼくが考えた道と違っていた、助かった。
とにかく真っ直ぐ。
京成立石駅に近づくと太い道になった。
奥戸街道と書いてある。
ややこしいけれど線路の向こうへこの道は直進している。
中川につき当たる。川のたもとの祠。郵便局もある、本はここまで。
祠にあった道標。さっきの説明板によるとここから川沿いに行くことになる。ぼくはこの本奥戸橋を渡って、奥戸街道
を行くのだと考えていた。
本奥戸橋。
川沿いに行く。こういう道標があった。道標ではなく、石仏かもしれない。石仏であれば、初めて見た。
江戸時代のものだ。
この道が帝釈天への道なのだろうか。いずれにしても、この川沿いは街道筋だったのだろう。
この後、本に写真が載っていた「立石」、説明板では「立石様」、を探した。詳細地図がないので、すぐ近くを通って
いたのに30分ぐらい、探し歩いた。まず、大学生らしき人に聞いたら、「知らない」とのことだった、次に散歩中の
お年寄りに聞いたら「あのあたりだったように思います」と大体の方角を教えてくれた、だいぶん通り過ぎていたので、
引き返した。よけいにわからなくなり、次にであったお姉さんに聞いたら道順を教えてくれた。着くはずの所に見当
たらないので、幼児連れのお母さんに聞いたら、目の前の横丁の奥だった。ずいぶん苦労した。
「立石様」
本によるとこの石は立石の基部とのこと。この上に各地までの距離とかを書いた石板が乗っていたようだ。日本橋の
里程標のようなものなのだろうか。立石の痕跡は全国にあるらしい。千二三百年前から大事にされて、いまでも
祀られていることに感動した。ここでしばらく休憩して、パンを食った。
つき当たりが30分ぐらい前に通り過ぎた川沿いの道。すぐだったのに標識もないので見おとした。
川沿いの道にもどって、ふりかえる。奥のつき当たりに立石児童遊園がある。
気を取り直して、先を急ぐ。奥戸橋で中川を渡る。上流方向。
下流方向。右側の岸べり(川の北側)を歩いて来た。
環七はここを通っているのだと知った。
またまたこの説明板。元気が出る。
下総国府跡までもうすこしだ。
三和橋で新中川を渡る。
上流側。
下流側。
このあたりもずっと真っ直ぐだ。
京成本線京成小岩駅。
さらに真っ直ぐに行く。
ついに道が突き当たりになり、お寺の向うに江戸川西岸の土手が見えた。
まわりこんで土手の下に行く。
土手に上がって対岸を見る。
江戸川上流方向。
下流方向。JR総武線市川駅の方向。
背の高いビルが和洋女子大のビル。このあたりが下総国府跡らしい。遺跡が発掘された。
見えないけれど豊嶋駅跡(谷中霊園)は真ん中方向だろうか。写真では確認しにくいが左側にスカイツリーが見えて
いた。
今日歩いた所は、奈良・平安時代にはアシ、ススキや背の低い雑木のしげる低湿地だっただろうから、その中を西の
丘から東の丘へ幅12mの道が直進していたら立派だっただろうと思う。
坂上田村麻呂、源頼義・義家、更級日記の著者も通ったのだろうと思う。
こういう道を維持管理するのは地元の人達にはすごい負担だっただろうから、中央政府の力はすごかったのだろう。
維持管理できなくなり、平安末、鎌倉以降この12mの官道は消えていく。
道路があると書いてあり、東武スカイツリー線の鐘ヶ淵駅付近から京成押上線の京成立石駅の東側までの地図も載って
いた。そこをたどった。
古代東海道の豊嶋駅(駅:官道の中継拠点、役所があった。場所は谷中霊園。)から井上駅に向かっている。本による
と井上駅は下総国府(市川市国府台の和洋女子大付近)の中か付近と推定している。
今日は出来れば江戸川の西岸までは行って、対岸の和洋女子大の校舎(高層ビル)を眺めたいと思っていた。幸運にも
そうすることが出来た。
ここから出発。この駅の西側のたどれるところまで行って、またここに戻ることにした。
駅の西側、これから行ってみる方向。豊嶋駅つまり谷中霊園の方向。
駅の東側。下総国府つまり和洋女子大の方向。
古代の官道は直進しているのが特徴で、たしかに両方向ともかなり向こうまで見える。
ここはこちら側と向こう側で道がくいちがっている。古代官道は道幅12~13mだったので、現在のこの道の巾5~6m
から考えると、ずっと昔に幅が維持管理できなくなった時に事情があって食い違って残った、なんて勝手に想像して
みるとたのしくなる。
ふりかえって見た様子。勝手な想像が当たっているのではと思えてくる。
ふりかえって見る。
ふりかえって見る。江戸時代の道の跡でよく見る道路際の祠もあった。多分江戸時代にもよく使われた道だったのだろう。
墨堤通に突き当たる。向こうは都営白鬚東アパート。
上野の丘とか谷中霊園の丘が見えないかとアパートの西側にも行ってみた。地図ではこの方向化と思うがビル群で
なにもみえない。ここからだと三ノ輪駅、谷中霊園が直線状とおもわれる。
この橋にも行ってみた。
隅田川上流。
下流。スカイツリーもうっすらと写っている。
橋の上からだとこの方向が谷中、上野の丘だろうか。
奈良・平安時代には低湿地上からだから、間近によく見えたと思う。
鐘ヶ淵駅に戻って、東側を目指す。
直進。
荒川西岸堤防に突き当たる。この川は大正初めから昭和初めにかけての大工事でできた人工の大河川。もちろん奈良・平安
時代は陸地。
古くからの街道の名残と思われる石仏か石神。ちゃんとお祀りされている。
大河だ。
歩いて来た方向をふりかえる。
向こうに見える四ツ木橋まで行って、対岸に渡って、続きを見つける。
荒川はすごい水量だ。
鉄塔のあたりがさっき居た所。
対岸に着く。目の前の川は荒川に沿って流れる綾瀬川、この川も江戸時代の人工河川。
続きは、本の地図から見てこのあたりにになる。
ここらしい。ずっとむこうまで真っ直ぐ。
ふりかえる。すぐ前が高速の高架。
四ツ木3丁目1と2の間。
直進する。
平和橋通を渡った。
葛飾区教育委員会の説明看板があった。本に載っていたのと同じ道、しかも立石より先の江戸川までかいてあった。
これで行きやすくなる。中川につき当たった後の道はぼくが考えた道と違っていた、助かった。
とにかく真っ直ぐ。
京成立石駅に近づくと太い道になった。
奥戸街道と書いてある。
ややこしいけれど線路の向こうへこの道は直進している。
中川につき当たる。川のたもとの祠。郵便局もある、本はここまで。
祠にあった道標。さっきの説明板によるとここから川沿いに行くことになる。ぼくはこの本奥戸橋を渡って、奥戸街道
を行くのだと考えていた。
本奥戸橋。
川沿いに行く。こういう道標があった。道標ではなく、石仏かもしれない。石仏であれば、初めて見た。
江戸時代のものだ。
この道が帝釈天への道なのだろうか。いずれにしても、この川沿いは街道筋だったのだろう。
この後、本に写真が載っていた「立石」、説明板では「立石様」、を探した。詳細地図がないので、すぐ近くを通って
いたのに30分ぐらい、探し歩いた。まず、大学生らしき人に聞いたら、「知らない」とのことだった、次に散歩中の
お年寄りに聞いたら「あのあたりだったように思います」と大体の方角を教えてくれた、だいぶん通り過ぎていたので、
引き返した。よけいにわからなくなり、次にであったお姉さんに聞いたら道順を教えてくれた。着くはずの所に見当
たらないので、幼児連れのお母さんに聞いたら、目の前の横丁の奥だった。ずいぶん苦労した。
「立石様」
本によるとこの石は立石の基部とのこと。この上に各地までの距離とかを書いた石板が乗っていたようだ。日本橋の
里程標のようなものなのだろうか。立石の痕跡は全国にあるらしい。千二三百年前から大事にされて、いまでも
祀られていることに感動した。ここでしばらく休憩して、パンを食った。
つき当たりが30分ぐらい前に通り過ぎた川沿いの道。すぐだったのに標識もないので見おとした。
川沿いの道にもどって、ふりかえる。奥のつき当たりに立石児童遊園がある。
気を取り直して、先を急ぐ。奥戸橋で中川を渡る。上流方向。
下流方向。右側の岸べり(川の北側)を歩いて来た。
環七はここを通っているのだと知った。
またまたこの説明板。元気が出る。
下総国府跡までもうすこしだ。
三和橋で新中川を渡る。
上流側。
下流側。
このあたりもずっと真っ直ぐだ。
京成本線京成小岩駅。
さらに真っ直ぐに行く。
ついに道が突き当たりになり、お寺の向うに江戸川西岸の土手が見えた。
まわりこんで土手の下に行く。
土手に上がって対岸を見る。
江戸川上流方向。
下流方向。JR総武線市川駅の方向。
背の高いビルが和洋女子大のビル。このあたりが下総国府跡らしい。遺跡が発掘された。
見えないけれど豊嶋駅跡(谷中霊園)は真ん中方向だろうか。写真では確認しにくいが左側にスカイツリーが見えて
いた。
今日歩いた所は、奈良・平安時代にはアシ、ススキや背の低い雑木のしげる低湿地だっただろうから、その中を西の
丘から東の丘へ幅12mの道が直進していたら立派だっただろうと思う。
坂上田村麻呂、源頼義・義家、更級日記の著者も通ったのだろうと思う。
こういう道を維持管理するのは地元の人達にはすごい負担だっただろうから、中央政府の力はすごかったのだろう。
維持管理できなくなり、平安末、鎌倉以降この12mの官道は消えていく。
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