妙正寺川の窪地・谷・丘(新宿区下・中落合、中井周辺)9月24日(土)

2011-09-26 13:02:54 | 東京23区とその近辺
東京スリバチ学会のフィールドワークに参加して、町歩きを楽しんだ。本来の趣旨は
川・川跡、窪み(スリバチ)、谷、崖の探索なのだが、ぼく自身は経験、知識不足で
そこにはとうていたどりつけない。
大江戸線落合南長崎駅に集合して、まずは中落合あたりの葛が谷の窪みを見て歩く。


窪みを抜けて、目白学園の丘の西側の先、妙正寺川にでた。対岸は上高田公園だった。
けっこうきれいな水が流れている、近くに住んでられる方の話では、豪雨の時は道路
近くまで水が来るそうだ。まわりの丘から、舗装道路上の水、屋根に降った水がどっと
流れ込むのだろう。

森の所が目白学園(丘の上)。

かわった名前の坂と思ったら、同行の人達には「ばっけ」(「はけ」)は普通の単語
らしかった。帰って調べたら、河岸段丘の崖のことらしい。

これが「バッケの坂」、急な坂だ。

坂の上の中井御霊神社、お祭りだった。

1715年に奉納された古い狛犬、さわると石が崩れるからと思われるが金網でほごされて
いた。阿形、吽形の狛犬の置き方が通常のものと逆さまで珍しいらしい。



こちらの狛犬は新しいものだが、「獅子の子落とし」を表現している。

神田明神に、同じ趣旨のものがあった。


このあたりは坂ばかりなので、一から八という名前の坂もある。なんとなく仕事場にいる
感じだ。


崖を使って、雰囲気をよく境内を形作っているお寺、神足寺。ここは中野区上高田になる。

このあたりは、明治、大正初めに旧江戸市街から移転してきたお寺がかたまっている。
政府による集団移転策がとられたのだろうか。


すぐ近くの宝泉寺もその一つ。



ここも数字名のついた坂、急な坂だ。


せっかくなので、林芙美子記念館に寄ることになった、ぼくは初めて行く。
ここに1926年に亡くなるまでの10年間住んでいたとのこと。

入口は坂の途中、崖を巧みに使って建てられている。





後ろの庭から見ると屋根がうつくしい。いかに広いかもわかる。









たくさん部屋があって驚いた。

最初の写真の玄関をはいって、上るとこの内玄関に来る。

庭に祀られていた石仏。

林芙美子というと苦労して貧乏だったイメージがあったが、この時期には金持ち
になって、こんなに立派な趣味のいい家をたてられたのだろうか。


新目白通り、目白通りのバイパスとして作られたので、都会の大動脈の雰囲気がする。



厳島神社、小さい神社だったが、このところ宮島の厳島神社にはしょっちゅうおまいり
しているので、ここでもおまいりした。地元の老夫婦がおまいりに来られていた、
うらやましい。


ニコニコ商店街(豊島区南長崎)、ここで三々五々昼食をとることになった。
すごくさびれていたので、ぼくはお店探しに手間取った、歩いていてここが手塚治虫
はじめ大勢の漫画家が住んでいたトキワ荘のあった所とわかった。
もちろん現在はオフィスビルに建て替わっていた。
この通りと目白通りの合流点の交番前で皆が集合するのを待っていて、何かおぼえが
あるなーと地図をチェックしたら、50数年前ここをバスで通学したのを思い出した。


佐伯祐三アトリエ記念館。

そこの看板、この付近には堤財閥の箱根土地(株)が開発した「文化村」があったので、
こんなにたくさんの「文化人」が住んでいた。


階段があって車の通りがないので、通りは遊び場にもなる。
小さな絵描さん、ひとなつっこく、愛嬌いっぱいだった、ちょうど消す前でぎりぎり
間に合った感じ。



薬王院背後の丘から見た神田川の谷。たまたまここは更地になっていたので、すごい落差
があるのがよくわかる。

左の森が薬王院。

薬王院への階段にある道祖神、花が飾ってあり世話をしている方がいるようだ。

薬王院、ここも崖を使っていい雰囲気に堂々と作られている。





ちょっと気の毒だなーと思う石神(三猿道祖神?)。高田馬場諏訪神社のもの
と同じ形だ。


とにかく坂だれけだ。


氷川神社。古事記の「やまたのおろち」の話で有名な「くしなだひめ」が筆頭の御祭神
らしい。


徳川家の狩猟地跡である、おとめ山公園の大木が台風15号で大変なことになっていた。







高田馬場駅近くの神田川、今日はここで終わり。



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