daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

12月の被災地 9  まさかここまで

2011年12月24日 17時50分31秒 | 地震

女川の被害は甚大である。

人口が減り、陸地が減り、港がなくなった。

人気のない町を包む深い闇を見ていると、はたして再興がかなうのか、危ぶまれる。

 

2011年08月26日の河北新報に、女川を襲った津波の迫真のルポが載った。

 

東日本大震災で港に面した中心市街地が壊滅した宮城県女川町では、津波による浸水が海抜約20メートルに達した。

港周辺に立つ商業施設や公共施設はほとんど水没。

津波は鉄筋の建物をなぎ倒すほどの威力で、多くの町民が逃げた高台の町立病院にも押し寄せた。

 

 ◎「まさか、ここまで」避難の車、次々と流された

<噴出>

 3月11日。最初の揺れが収まってから約30分後、宮城県女川町鷲神浜の女川町立病院駐車場で見た光景に、経営する港近くの中華料理店から避難してきた鈴木康仁さん(39)=女川町女川浜=は目を疑った。

 

はるか遠くの岬の先端にあった高さ6メートルの防潮堤を白波がのみ込み、大きなうねりとなって街に迫ってきた。
 

病院は女川港を見下ろす海抜16メートルの高台に立つ。

「まさか、ここまで津波は来ないだろう」。鈴木さんは駐車場にとどまり、港の周りの様子を見ていた。

商業ビルなどが立ち並ぶ港の一帯では、至る所で噴水のように水が噴き出していた。

一気に水かさが増し、何棟かのビルで、屋上に避難する人が見えた。

<水没>

 「ここではだめだ」。鈴木さんは駐車場を後に、病院西側のさらに高い場所にある熊野神社を目指し、階段を駆け上がった。

パキパキパキ。階段を上る途中、不気味な音が聞こえた。

津波が濁流となり、建物を壊す音だった。

踊り場で、後ろを振り返った。3、4棟を除いて、港近くにあったビルは水没していた。

目をこらすと、4階建ての商工会館が見えた。

屋上に人影があった。

次の瞬間、会館の屋上も水中に消えたように見えた。

数分前までいた病院駐車場にも、津波が迫っていた。

避難した人たちが乗ってきた車が次々と濁流に浮き、流された。
 

「高台に逃げろ」。女性の声で避難を呼び掛けていた防災無線が急に男性に代わり、叫び声が聞こえた。

その声を最後に、無線は途絶えた。


「皆、死んだ」。鈴木さんはその場にぼうぜんと立ちつくした。町立病院に逃げた人たちの安否が気掛かりだった。

<必死>

 そのころ、町立病院。職員が患者や逃げてきた町民を2階より上に誘導していた。駐車場に津波が迫っていた時、1階フロアにはまだ、約20人がいた。

 当時、院内で働いていた阿部ゆかりさん(39)=同町浦宿=もその一人。

「病院にいれば、安全だろう」。

本震後約20分は、病院の内外を行ったり来たりしていた。

駐車場から、車や民家などが濁流に押し流されているのが見えた。

震えが止まらなくなった。

院内に戻ると、男性の声が聞こえた。

「津波が来たぞ」。

阿部さんは階段に向かって走った。

階段の幅は約1.3メートル。上り口に人が集中し、立ち往生していた。

 階段の約2メートル手前で、駐車場にあった車が濁流とともに玄関のガラスを突き破って入ってきた。

数秒であごの下まで水に漬かり、体が浮いた。高さ2.5メートルの天井がすぐ真上に見えた。

 なすすべなく流された。すぐそばで浮いていた自動販売機に必死にもがいて、つかまった。

販売機にはほかに4人がつかまった。

 やがて、ゆっくりと水が引いた。

10分ほどたつと、床に足が付いた。

「助かったんだ」。全身の力が抜けた。

女川町や町立病院によると、町内の津波浸水の最高位は海抜20.3メートル。

町立病院1階の浸水は高さ約2メートルに達した。

3月11日、町立病院は職員や入院患者、避難者ら653人を収容した。

後日、敷地内で4人の遺体が見つかった。

 

◎給水塔登り 九死に一生/商工会館、屋上も冠水

 港近くにあった建物のほとんどが津波にのみ込まれた宮城県女川町で、4人の男性が一時は建物全体が水没した商工会館の屋上にいた。

屋上の給水塔に登って助かった4人は、間近で津波の威力を目の当たりにした。

 商工会館は鉄筋コンクリート4階建て。

屋上には高さ約5メートルの給水塔があり、1.5メートル四方の台座に立つ4本の支柱が給水タンクを支えていた。

本震が発生した当時、会館には商工会職員の青山尊博さん(38)ら男女7人がいた。女性職員や外部の関係者を先に逃がし、青山さんら4人が屋上に登った。

青山さんらが屋上にたどり着いた時には既に、津波が4階に達していた。

4人はそれぞれ支柱にしがみついた。足元で、目の前で、建物などが流される様子を見た。

青山さんと商工会職員の遠藤進さん(55)は、しがみついた柱を挟んで向かい合う形になった。

 「病院もだめだ」
 「皆、死んだべや」
 「終わるときはこんなものか。あっけない」

あぜんとしながらも、気持ちを落ち着かせるために、努めて互いに言葉を掛け合った。

引き波で陸から流れてきた木造家屋などが、倒壊を免れた他の建物にぶつかると、ごう音とともに水しぶきが上がった。
 

ばらばらの木片になる建物、燃えながら流される民家。

波音や建物が壊れる音とともにプロパンガスの噴出音も聞こえ、2人とも「次第に言葉が出なくなった」(遠藤さん)。

水位はじわじわと上がり、屋上も水につかった。

水面は一時、4人の足元約50センチにまで迫った。

 「もう、だめだ。死ぬな」。

家族に形見を残そうと、青山さんは身に着けていたネクタイを支柱に結び付けた。

屋上に達した水は15分ほどで引き、夕方にはさらに水位が下がった。

4人は3階に下り、四方の壁が残っていたトイレにこもった。

座ると、衣服がぬれてさらに寒くなると思い、立ったまま夜を明かした。

 女川町は女川港周辺にある3、4階建ての建物のうち、商工会館と女川消防署、観光施設のマリンパル女川を津波避難ビルに指定していたが、今回の津波で屋上まで水没しなかったのはマリンパル女川だけだった。

◎「高台に逃げろ」叫ぶ/町役場、直前まで無線放送

宮城県女川町中心部に津波が押し寄せている最中、町役場では2人の職員が防災無線で町民に避難を呼び掛けていた。

役場庁舎の最上階、3階にある無線室が浸水するまで、放送は続いた。

気象庁が大津波警報を発令した3月11日午後2時50分ごろ、女川町企画課の臨時職員(当時、4月末で退職)の八木真理さん(36)は無線室に駆け込み、防災無線の放送を始めた。

「大津波警報が発令されています。沿岸部の人はただちに高台に避難してください」。

警報発令に備えて用意していた原稿を手に、備え付けのマイクに向かって、繰り返し呼び掛けた。

放送を始めて約20分後、企画課防災係長の阿部清人さん(45)は庁舎2階にいた。海側の様子を眺めていると、沖にある高さ6メートルの防潮堤よりはるかに高い波しぶきが上がるのが目に入った。


すぐに、無線室に向かった。「大きな津波が押し寄せています。至急高台に避難してください」と放送用の原稿を替え、「余計なことは言わなくていい」と八木さんに伝えた。

すぐさま、1階に駆け下りた。「全員、屋上に待避」。声の限り、職員に指示を出した。

無線室は庁舎西側にある。港の反対側に位置し窓からは海側の様子が見えない。

「役場周辺の状況が全く分からず、すぐそばまで津波が来ていることも知らなかった」と八木さん。淡々と放送を続けた。

やがて役場も浸水し、2階に海水が上がってきた。阿部さんは再び、無線室に駆け込んだ。

 「すごい水だ。放送を代わる」。八木さんは無線室を飛び出し、屋上に向かった。

阿部さんはマイクを握り、「高台に逃げろ」と2度、叫んだ。

次の瞬間、無線室に海水が流れ込んできた。

「これが最後の放送です」。

阿部さんが次に言おうとした言葉を発する間もなく、放送機材と固定マイクが水没した。

阿部さんは腰まで水につかりながら無線室を出て、屋上にたどり着いた。

職員ら当時庁舎内にいた約100人は屋上に逃げ、全員無事だった。屋上に登った最後の1人が阿部さんだった。

 


津波の直後の動画↓

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51768034.html

 

 

現在午後4時半。

冬の日暮れは早い。道路の冠水も心配で、女川から逃げるように石巻まで戻ってきた。

瓦礫は片付けたが、復興は計画も何も決まっていない。

 

 三陸道石巻河南ICより仙台に向かう。

 

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