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daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

12月の被災地 21  高所へ、1cmでも高く

2012年01月15日 11時08分49秒 | 地震

 

 
体育館の中で、しかも児童の目の前で数十名が津波で亡くなった野蒜小学校。

女性の校長がステージ上でマイクを握りながら波にさらわれた。

校長は2階から投じられた紅白の幕につかまって危うく救出された。

 

住民からは、「体育館でなく、もっと高い場所にある校舎に避難していれば全員助かった、校長の判断が甘かった」 といった声が上がった。

一旦災害が起これば、学校は避難所と変わる。

その設営も運営も校長、教職員に任される。

彼らはその場から逃げることも、自分の家族の安否を心配することも許されない。 

任務を解かれるのは避難所が役目を終えるか、自らが命を落としたときである。

 

避難所の運営は普段携わっている教育業務とはかけ離れていて気の毒ではあるが、大川小学校、野蒜小学校での結果を思うと、やはり責任は重い。

女性校長が立派に生徒を守った例もある。

河北新報に次のような記事が載った。


 
2011年12月19日月曜日 河北新報

<避難路見直し>
 「なぜこんな海のそばに学校が」
 陸前高田市気仙中の越恵理子校長(56)は2009年4月に赴任し、窓越しの風景に違和感を覚えた。堤防を挟み、校庭の向こう側に広田湾の白波が見えた。
 内陸部の奥州市出身で津波には詳しくない。知識が少なかったからこそ、素朴な不安から避難経路の見直しを始めた。
 津波を想定した避難場所は学校近くの駐車場だった。3階建て校舎の高さとほとんど変わらず、安全には思えなかった。
 周辺を調べると、高台に通じる小道があった。急勾配な道を通り民家の脇を抜けると、かなり高い場所まで登れた。
 防災訓練に関連し、1960年のチリ地震津波を経験した地域住民の菅野昌雄さん(78)を講師に招いた。
 「津波は気仙川の水位が下がった後、川沿いにやってくる」「校舎の屋上は駄目だ。さらに高い所に逃げられる場所に避難しないと」。どの話も示唆に富んでいた。
 3月11日、生徒86人と教職員はいったん駐車場に退避した。しかし気仙川の川底が見えたため、5分と待たずに、小道から高台を目指した。間もなく、川をさかのぼった津波が堤防を越えたのが見えた。その後、校舎も駐車場も濁流の下に沈んだ。
 越校長は「先入観を持たずに一つ一つの課題を見直せた」と話すとともに「聞いていた通りになった」と住民の教えに感謝する。

<正しい認識を>
 「海から遠いので大丈夫だ」「ここに津波が届いたことはない」。根拠がないのに安全だと思い込む。東日本大震災では、こうした「正常化の偏見」が、避難行動を鈍らせたとされる。学校が正しく危機を認識し、行動する鍵は地域にある。
 船越湾を望む高台にある岩手県山田町船越小。地震後、校庭にいた児童136人は、北側の集落を抜けて山に上った。津波で校舎1階や校庭が水没する寸前、避難を促したのは小学校OBで校務員の田代修三さん(55)だった。
 田代さんは本震後、堤防から湾の変化に目をこらしていた。数キロ先に浮かぶ弁天島と野島の海面が、約2~3メートル盛り上がった。亡き父の言葉を思い出し体がこわばった。
 父親は漁師だった。放課後、イカ漁の船の中で海の怖さを教えられた。明治三陸大津波、昭和三陸津波では一族に犠牲者が出たという。この話になると父の声は熱を帯びた。「とにかく1メートルでも高いところに逃げろ! 雑草、つるをつかんでも、何をつかんでも」
 田代さんは校庭に戻り「津波が堤防を越えてくる。ここにいては危ない」と強く迫った。佐々木道雄校長(54)は、山への避難を決断した。

<教職員に限界>
 地域とともに防災訓練に取り組む学校が増えている。定期的に異動する教職員だけでは、防災の知見は継承されにくい。地域に根を張る住民の協力を得られれば、教訓と活動は受け継がれる。
 「津波は恐ろしいものだと、心に刻んだ父の言葉を生かせてよかった」。田代さんは父の思いも今回の経験も、これからの学校の防災に生かしてほしいと願う。

  

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12月の被災地 20 奥松島 2

2012年01月13日 19時33分45秒 | 地震

大高森登山口に到着した。

大高森は宮戸島にある山。

松島を一望できるスポットで、松島四大観の一つとされている。

現在午後4時だが、日が短く(昨日は冬至)、写真もうまく撮れなくなってきた。  

 

急がないと暗くなる。

ぜーぜーしながら、15分で頂上に到着した。

 

上から松島を眺めると、松島の内海にはあまり被害が出ていないことがわかる。

それに対して外洋に面するエリア(野蒜、奥松島、矢本)は根こそぎ家がなくなっている。

津波は松島湾の外側から襲来し、陸地を越えて松島湾内に流れて行った。

震災がなければ実に心安らぐ眺めである。

 

午後4時半。

辺りは闇が濃くなってきた。

早くしないと山を降りられなくなる。

 

ようやく登山口に戻り、島から脱出。

先ほどより道路近くまで潮が満ち、海の中を走っているような感覚になる。

 

 

 

東名運河を左に見て仙台を目指す。

太陽は山の端に隠れた。

周囲の住宅地は無人。

午後5時なのにあたりは真っ暗になってきた。 

何かに追いかけられるようにアクセルを踏む。

  

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12月の被災地 19 奥松島 1

2012年01月11日 16時03分17秒 | 地震

奥松島の宮戸島に向かう。

宮戸島に渡る松ケ島橋。

本土と島をつなぐ唯一の命の橋。

現在は通行可能だが、 

 

津波直後はこの橋が流され、宮戸島が10日以上孤立した。

自衛隊が応急の橋を架けて重機を投入。

瓦礫を除けてようやく橋と道路を修復した。

  

 

ここは観光遊覧船乗り場があった場所だが、地盤沈下で海になってしまった。

港は水鳥の休憩所になっている。

俗化していない風光明媚な島だ。

もはや沈むに任せた建物。 

一階をぶち抜かれた建物。

襲いかかった波の高さが分かる。

海辺にはこういう状態の建物が多い。

暗くなるとまるでモンスターのように見える。

 

被災地では海岸に幽霊が出るという噂が広がっている。

死者の無念を思えばこそ、見えないものが見えてしまうのかもしれない。

年末に気仙沼の実家に帰るという知人は、海岸には行かない、雲丹と蝦蛄は食べない、と言っていた。

 

被災地で幽霊騒動 
NEWS ポストセブン 12月24日(土)7時5分配信

3・11から9ヶ月以上が経ち、東北地方は本格的な冬を迎えようとしている。そんな中、復旧作業にあたる作業員たちの一部で「背筋の凍る」噂が広がっている。

「夜になると、出るんですよ、幽霊が」。こう囁くのは岩手県沿岸部でがれき撤去に従事する作業員の男性。この男性によると、深夜から未明にかけて海沿いを歩く複数の人間の姿が見られるという。作業時間は過ぎているし、現場はがれきだけで人らしきものは一切ない。また、別の作業員も同様の証言をする。

「最初は『窃盗団か何かが悪事を働きにきたのだろう』と仲間と一緒にその姿を追ったのですが、海岸に着くと誰もいない。恐くなってすぐ宿舎に戻りましたよ」

このため「早く帰りたい」といった声もあがり、現場の士気に影響を与えているという。  岩手県災害対策本部資料(12月9日現在)によると、東日本大震災での死者は計4665人、行方不明者は計1385人。陸前高田市や大槌町など、沿岸部に被害が集中している。ウワサが広がっているのは、主に沿岸部である。

現場で指揮を執っているゼネコン社員は「最初は、冗談にしても程がある、と怒りましたが、かなりの人間が目撃したと話していることから、彼らは冗談で言っているのではないと分かりました。ご存知の通り、ただでさえ復旧が遅れているのに、幽霊騒動で作業員の士気が低下しているのであれば何か手を打たないといけない」と頭を抱える。

あくまでウワサであり、真偽のほどは定かではない。ただ、一定の数の作業員たちが「幽霊騒動」に巻き込まれていたのでは、復旧へ与える影響が懸念される。

 

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12月の被災地 18 東松島 5

2012年01月10日 18時56分56秒 | 地震

 

波が通り抜けたレストラン。

波の後は、冷たい風が吹き抜ける。

寒い。

 

墓石が倒れたままの墓地。

重機は墓を修復しているのではなく、石を山積みにしているだけだ。

 

野蒜海水浴場。

海を見つめる人。彼の車は愛知ナンバーだ。

 

何度も訪れた海水浴場だった。 

この夏、泳いだ人は一人もいないだろう。

ニュースでは、砂浜一面に瓦礫が打ち寄せていたが、すっかりきれいになっていた。

夕暮れになっても手を合わせる人たちが後を絶たない。

 

ドライフラワーになった花束。 

 

燃え残った線香。 

 

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12月の被災地 17 東松島 4

2012年01月08日 23時01分21秒 | 地震

 

仙石線はこの先、東名、松島、仙台と続くが、復旧するのはいつのことだろう。

そもそも仙石線は完全復旧するのだろうか。

 

菜の花の種は海水に耐えて咲くだろうか?

春になって菜の花が咲いたら嬉しいな。

 

かつての野蒜駅と仙石線。

 

かつての野蒜駅正面。

手前は野蒜運河。

 

運命の2時46分発 野蒜駅で交差した「生と死」 

JR仙石線野蒜駅 産経ニュース  2011.5.1 20:01


 東日本大震災が発生した3月11日午後2時46分、宮城県東松島市のJR仙石線「野蒜駅」を出発した上下2本の電車があった。ともに一時行方不明と報じられたが、下り電車は丘の上で停止、地元住民のアドバイスに従って乗客は車内にとどまり無事だった。上り電車はJR東日本の内規に従って誘導された指定避難所が津波に襲われ、数人が命を落とした。乗客の証言などをもとに、小さな駅で交差した生と死を追った。


上り・皮肉な結末

仙台方面の「あおば通」行き普通電車(4両編成)は午後2時46分、野蒜駅を出発した。直後に激しい揺れに襲われ、運転室に緊急停止を告げる無線が入った。停車したのは駅から約700メートル進んだところだった。JR東日本には、災害時に緊急停止した場合、乗務員は最寄りの指定避難所などに乗客を誘導する内規がある。

指定避難所は、電車が停止した場所から北東約300メートルにある野蒜小学校の体育館。車掌らは内規通りに乗客約40人を誘導。ところが、直後に体育館を津波が襲い、数人が亡くなった。電車も津波で流され、脱線していた。


下り・乗客の機転

下りの「石巻」行きの快速電車(4両編成)も野蒜駅を発車直後、突き上げられるような衝撃が襲った。電車は小高い丘で停止。車掌らが乗客約50人を3両目に集め、避難誘導しようとしたが、野蒜地区に住む男性乗客の1人が制止した。

「ここは高台だから車内にいた方が安全だ」

皆、その言葉に従った。

しばらくして轟音とともに津波が襲来。あっという間に家や車をのみこんだ。家の屋根につかまりながら流される70代の男性を車掌らが救出。津波は線路の直前で止まった。冠水しなかったのは、電車が止まっていた丘の上だけ。乗客の東松島市のパート、渋谷節子さん(61)は「少し前に進んでいても後ろでも、津波に巻き込まれていた」と振り返る。

津波は避けられたものの無線も携帯もつながらず救助も求められない。夜になると吹雪になった。乗客が持っていたお土産のかりんとうやまんじゅうを食べ、真っ暗な車内で、寒さと恐怖に耐えた。一夜明け、全員が救助された。 

 

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12月の被災地 16 東松島 3

2012年01月06日 16時25分55秒 | 地震

 

線路は砂に埋もれた。

津波には砂、ヘドロ、汚水(屎尿)、化学性廃棄物、油類などが含まれていた。

溺死者の口内、気管内には砂が大量に吸引されていたという。

 

駅の海と反対側には損傷が少ない。

 

隣のヤマザキデイリーはこの惨状。 

 

27号線に立っていた道路標識も倒され、放置されたまま。 

標識にある「石巻」、「野蒜」、「奥松島」は、すべて大被害を被った。

 

駅から海の方向を見る。

道路の向こう側には東名運河がある。

東名運河は、松島湾に面する東名と鳴瀬川河口の野蒜間を結ぶ。全長約4キロ。

明治11年に始まる野蒜築港と同時に開削されたが、築港工事の失敗により輸送路としての意義を失った。

運河を彩った松林は何本も倒れ、疎らになった。

 

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12月の被災地 15 東松島 2

2012年01月04日 18時17分47秒 | 地震

 

野蒜小学校から海の方に少し行くとJR仙石線の踏切がある。

ここがS先輩が最後に目撃された場所である。

現在この区間は電車が不通となっている。

車から降りて合掌、先輩のご冥福をお祈りした。

 

3月18日の Person Finder には、(おそらく家族から)次のような書き込みが寄せられていた。

【佐○ 幸○】の行方を探しております。
◎生年月日:S●●.7.5(満●●歳)
◎血液型 :AB型
◎職業  :●●●●●●●
◎被災地 :東松島市野蒜小学校と野蒜海岸の間
◎体の特徴:身長180cm位、体重70kg位
◎メガネ。(近眼、メガネなしでは生活困難)
◎最後に会った人の話:
3/11、野蒜小学校へ避難した職員と別れ、 幸○は踏み切りの方角へ向かいました。そこから消息が途絶えています。(そのあと、大津波がやってきた)/職員の話
一方、幸弘が自衛隊ヘリコプターに救助されたのを見た人がいる、という話も聞いていますが、救助後の行き先は不明です。
 

 

 

野蒜駅のプラットホーム。

 

コンクリートの土台ごと倒された照明。

 

駅名表示板。嵯峨渓の美しい写真が使われている。

これも海と反対側に倒された。

米軍兵士と自衛官が一緒に引き起こしている場面をニュースで見た。

 

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歳末雑感 2011

2011年12月31日 17時49分24秒 | 地震

「12月の被災地」 の連載中ですが、一時中断して歳末のご挨拶です。

 

 

2011年はひどい年だった。

震災はもちろんだが、政治も悲惨だった。


子ども手当は「23年度から1人当たり月2万6千円」との公約を早々と放棄。

現在は1万~1万5千円の支給にとどまり、所得制限の導入も検討されている。

前原氏は自民、公明両党との政調会長会談で、「子どものための手当」との姑息な名称変更案を提示したが、あっさり拒否された。当然だ。

 

ガソリン税など暫定税率廃止の公約は削除され、高速道路無料化も原形をとどめていない。

被災地では1年だけ無料化されたが、それも3月で終わる。 

 

国家公務員の総人件費2割削減も実現は困難。

マニフェストでは25年度までに人件費などの削減だけで1兆1千億円の財源を生み出す計算だった。

しかし国家公務員給与を平均7.8%削減する特例法案も成立を断念。

12月のボーナスは昨年よりも増額となった。

 

順調に見えた高校無償化と農業の戸別所得補償も制度変更を迫られている。

 

鳩山元首相が訴えた米軍普天間飛行場の国外、県外移設も迷走。名護市辺野古への移設計画に回帰した。

この2年で失った沖縄の信頼の回復は容易でない。

 

衆院比例定数80削減についても前原氏は、「約束したことは法律でしっかりと実行する。民主党だけでも法案を出す」と明言したが、見通しは立っていない。


民主党が平成21年衆院選のマニフェストに掲げた最重要政策の一つである「八ツ場ダム建設中止」さえ撤回が決定された。

  

建設中止は「コンクリートから人へ」と訴えた政権交代の柱だった。


が、最大の公約違反は最後の最後にやってきた。

年末になって野田佳彦首相は、公約になかった消費税増税を決定した。

省庁の無駄を徹底的に省けば増税は必要ない、と言っていたのに。


政権の正当性さえ疑われる事態であるが、日本の不幸はここにいたっても選ぶ政党がないことである。

 

先日、芸能人もボランティアもいなくなった被災地を訪ね、知人が亡くなった野蒜の踏切に手を合わせてきた。

瓦礫は減ったものの、地盤沈下により陸地は海に変わり、No Man's Land と化していた。

 

「震災は何も終わっていない」

このことを全国の皆さんに伝えるため、死者を慰霊するため、いましばらく震災の記事を続けます。

「生き残った者」の義務として。

 

私は年賀状をやめて4回目の正月になります。このブログを以て新年の御挨拶に代えさせていただきます。

今年も私から年賀状は届きません。

その代わり、「daisukeとhanako の部屋」は6年9ヶ月目に入り、記事総数は6,989項目になりました。

 


2012年が皆様にとって平穏で、幸多き一年でありますよう、お祈り申し上げます。

また来年、「daisukeとhanako の部屋」でお会いしましょう。

良いお歳を。

 

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12月の被災地 14 東松島 1

2011年12月29日 16時42分40秒 | 地震

この交差点を右に曲がると東松島市に入る。

東松島市は2005年、「平成の大合併」で矢本町と鳴瀬町が合併して誕生した。 

 

東名。

内部がすっかり破壊されたコンビニ。

この辺りの海岸を東名浜といい、潮干狩りの名所である。

わが家もかつて春に来て、アサリをバケツ一杯採ったことがある。

そのあと3日ほどアサリ料理が続いた。

 

 

 

震災直後の東名駅。  

野蒜。

かつての住宅街はただの原っぱと化した。

 

野蒜小学校。

校舎の1階まで冠水した。

手前に仮設住宅が建つ。

左には凄惨な現場となった体育館がある。 

 

仮設の隣りに郵便局の仮設もできた。

確かに近くに郵便がないと年賀状も出せないし、預金も下ろせない。

一帯には銀行、病院、スーパー、床屋、コンビニ・・・考えうるものすべてがない。 

 

昇降口の校歌碑。

土台のコンクリートが新しいので、修復されたようだ。

 

 

震災直後の野蒜小学校体育館。 

 


震災直後の体育館内部。

 

東松島市が避難場所に指定した野蒜小体育館には、地震の後、児童約60人を含め300人以上が避難していた。

体育館を津波が襲ったのは震災の発生から約1時間後の午後3時50分。

突然、がれきとともに黒い濁流がなだれ込んだ。

水位は一気に約3メートルまで上昇。2階観覧席のわずか10センチ下まで迫った。

 

児童らは全員2階に避難していたが、ピアノや跳び箱とともに住民が渦に巻き込まれる光景を見た。

2階にいた教師たちは、卒業式に備えて張っていた紅白幕を引きはがしてロープ代わりに投げ入れ、何人かを救出。

しかし10人ほどは浮いたまま動かなくなっていた。

 

2階は避難者ですし詰めだった。

ずぶぬれで救出された人の中には低体温症でそのまま息を引き取る人もいた。

窓の外はもの凄い吹雪だった。

 

ある主婦は荒波にもまれながらもステージのカーテンにしがみつき、一命を取り留めた。

「体育館を出るときは、床で亡くなっている人たちをまたいで逃げた。初めから(高い場所にある)校舎に逃げていれば…」と、言葉を詰まらせた。

 

主婦の言う通り、校舎の2階以上に避難していれば犠牲者は出なかった。

この小学校では、「津波の危険がある時はとにかく高い場所へ」という危機意識がなく、「避難所は体育館」という固定観念に支配されていた。

 

野蒜地区では、3月13日に200人以上の遺体が発見された。

そのうち50~60名はこの体育館で発見されたものだ。

 

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12月の被災地 13  塩釜~松島

2011年12月28日 20時08分31秒 | 地震

七ヶ浜から23号線、45号線に戻り、塩釜の町に入る。

七ヶ浜ほど甚大な被害はないが、ところどころ廃業した店、倒れたブロック塀などを見る。

 

右手は塩釜港。

以前と違って、行き交う人も車も少ない。

 

カキ焼処は健在なようだ。

ただしプレハブ小屋で営業中。

 

松島海岸に出た。

冬の海は静かで美しい。

多くの島が防波堤の役割をしたため、松島町の被害は軽微だった。

ただ島のいくつかは崩れて、かつての姿ではなくなった。

 

松島海岸も地盤沈下のせいか、波が階段の上まで打ち寄せる。

 

 

 

観光施設には比較的客が入っていたのが救いだ。

 

仙石線は、仙台~松島~高城町間で運行中。(仙台から松島まで電車で来れます。)

高城町~矢本駅間が不通。

松島海岸~矢本駅間でバス代行輸送を実施している。

 

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12月の被災地 12  七ヶ浜 2

2011年12月27日 20時52分29秒 | 地震

 

菖蒲田浜海岸で海に祈る人。

砂浜が以前より明らかに狭くなっている。

 これから海水浴は難しいか。

 

南側の砂浜は完全に消失した。

 

地盤沈下のせいか、砂浜に降りる石段が海側に落ち込んで、水平でなくなっている。

 

海水浴客のための公衆トイレ。

外観は無事なようだが・・・

 

入口が海に向いていたため、瓦礫が流入し、この有様。

 

分かりやすい防火水槽だったが、津波には無力だった。

 

まだ水の引かない観音堂付近。

 

 

Cさんが子どもを預けていた汐見台保育所。

高台にあったので波が来なかった。

Cさんはあの日、無理して迎えに来ないで正解だったのだ。

 

子どもの使う三輪車が砂場にまとめられていた。

この保育所は休園してしまったのだろうか。

(休園はしていないそうです。)

 

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12月の被災地 11  七ヶ浜 1

2011年12月26日 19時41分53秒 | 地震

 七ヶ浜の汐見台南2丁目。

冬でも比較的温暖で、夏は海水浴もできるので、別荘を建てる人もいた。

太平洋に面したきれいな住宅地は津波の直撃を受け、見渡す限りの原野になった。

船が陸にある光景にも慣れてしまった。

小高い丘だったのだろうが、周囲が波で削られて松島に似た姿に変わった。

 

菖蒲田浜海水浴場。

ここは海ではない。海は奥に見える堤防の向こうである。

堤防を越えた水がたまっていて、海のように見える。

傾いている建物は公衆トイレ。

原形を保ったまま何mか移動した。

 

トミカの救急車。

ここに住んでいた子供のおもちゃか。

誰かが拾ってブロックに置いたのだろう。

その子は元気なのか。

 

「渡邉」の表札だけが残った家。

コンクリートの部分だけしか残っていない。

住民は避難できたのだろうか。

海水浴場のシンボルだった松林は半分以上倒れた。

 

倒された電柱がそのまま放置されてある。

右端の松は途中から折れた。

 

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12月の被災地 10 多賀城

2011年12月25日 17時52分29秒 | 地震

12月23日。今日は東北地方に強い寒波が来ている。

風も強く、正午でこの気温だ。

しかしS先輩が亡くなった東松島を、どうしても年内に見ておきたくて出発した。

 

国道45号線を多賀城に向かう。

黒い雲が青空を隠そうとしている。

中野栄を過ぎた辺り。

ここにも波は来たが、痕跡は見えない。

 

23号線の八幡地区で、初めて被災した建物を見た。

このハードオフは廃業したようだ。

 

栄の廃車置場。

多賀城市の各所から集められた流失車両がここに集められた。

 

場所がないので2段積みにされている。

ナンバーが付いたままの車も。

 

栄2丁目交差点。

この先は七ヶ浜。 

七ヶ浜は避暑地であり、菖蒲田浜という海水浴場もある。

 

Cさんは、3月の初めに七ヶ浜に引っ越したばかりだった。

念願の新居が完成したのだ。

近くの保育園に6歳の長女と、3歳の次女を預けて、卸町に仕事に来ていた。

地震に驚き、子供を迎えに行こうと45号線から23号線に入った。

対向車線には車が溢れ、誰もが必死で西を目指していた。

東に向かっているのは自分一人だった。

ラジオは東から津波の襲来を告げている。

みんな海から逃げてきているのだと分かって、恐ろしかった。

前方から津波が押し寄せてくる幻影が見えた。

(実際、押し寄せてきていた。)

警察官に東行きを止められ、心を残して引き返した。

その日は仙台の実家に泊ったが、子供らのことが心配で一睡もできなかった。

 

翌日瓦礫の中を保育園に行ってみると、子供たちが走って抱きついてきた。

高台の保育園まで津波は到来せず、保育士さんが園児全員を一晩守っていてくれたのだった。

あの時、無理して保育園に向かっていたら、津波と正面衝突したところだった。

新居は小高い場所にあったのが幸いし、あと5mのところで水は止まった。

 

Cさんが引き返した交差点こそ、この栄2丁目交差点である。

 

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12月の被災地 9  まさかここまで

2011年12月24日 17時50分31秒 | 地震

女川の被害は甚大である。

人口が減り、陸地が減り、港がなくなった。

人気のない町を包む深い闇を見ていると、はたして再興がかなうのか、危ぶまれる。

 

2011年08月26日の河北新報に、女川を襲った津波の迫真のルポが載った。

 

東日本大震災で港に面した中心市街地が壊滅した宮城県女川町では、津波による浸水が海抜約20メートルに達した。

港周辺に立つ商業施設や公共施設はほとんど水没。

津波は鉄筋の建物をなぎ倒すほどの威力で、多くの町民が逃げた高台の町立病院にも押し寄せた。

 

 ◎「まさか、ここまで」避難の車、次々と流された

<噴出>

 3月11日。最初の揺れが収まってから約30分後、宮城県女川町鷲神浜の女川町立病院駐車場で見た光景に、経営する港近くの中華料理店から避難してきた鈴木康仁さん(39)=女川町女川浜=は目を疑った。

 

はるか遠くの岬の先端にあった高さ6メートルの防潮堤を白波がのみ込み、大きなうねりとなって街に迫ってきた。
 

病院は女川港を見下ろす海抜16メートルの高台に立つ。

「まさか、ここまで津波は来ないだろう」。鈴木さんは駐車場にとどまり、港の周りの様子を見ていた。

商業ビルなどが立ち並ぶ港の一帯では、至る所で噴水のように水が噴き出していた。

一気に水かさが増し、何棟かのビルで、屋上に避難する人が見えた。

<水没>

 「ここではだめだ」。鈴木さんは駐車場を後に、病院西側のさらに高い場所にある熊野神社を目指し、階段を駆け上がった。

パキパキパキ。階段を上る途中、不気味な音が聞こえた。

津波が濁流となり、建物を壊す音だった。

踊り場で、後ろを振り返った。3、4棟を除いて、港近くにあったビルは水没していた。

目をこらすと、4階建ての商工会館が見えた。

屋上に人影があった。

次の瞬間、会館の屋上も水中に消えたように見えた。

数分前までいた病院駐車場にも、津波が迫っていた。

避難した人たちが乗ってきた車が次々と濁流に浮き、流された。
 

「高台に逃げろ」。女性の声で避難を呼び掛けていた防災無線が急に男性に代わり、叫び声が聞こえた。

その声を最後に、無線は途絶えた。


「皆、死んだ」。鈴木さんはその場にぼうぜんと立ちつくした。町立病院に逃げた人たちの安否が気掛かりだった。

<必死>

 そのころ、町立病院。職員が患者や逃げてきた町民を2階より上に誘導していた。駐車場に津波が迫っていた時、1階フロアにはまだ、約20人がいた。

 当時、院内で働いていた阿部ゆかりさん(39)=同町浦宿=もその一人。

「病院にいれば、安全だろう」。

本震後約20分は、病院の内外を行ったり来たりしていた。

駐車場から、車や民家などが濁流に押し流されているのが見えた。

震えが止まらなくなった。

院内に戻ると、男性の声が聞こえた。

「津波が来たぞ」。

阿部さんは階段に向かって走った。

階段の幅は約1.3メートル。上り口に人が集中し、立ち往生していた。

 階段の約2メートル手前で、駐車場にあった車が濁流とともに玄関のガラスを突き破って入ってきた。

数秒であごの下まで水に漬かり、体が浮いた。高さ2.5メートルの天井がすぐ真上に見えた。

 なすすべなく流された。すぐそばで浮いていた自動販売機に必死にもがいて、つかまった。

販売機にはほかに4人がつかまった。

 やがて、ゆっくりと水が引いた。

10分ほどたつと、床に足が付いた。

「助かったんだ」。全身の力が抜けた。

女川町や町立病院によると、町内の津波浸水の最高位は海抜20.3メートル。

町立病院1階の浸水は高さ約2メートルに達した。

3月11日、町立病院は職員や入院患者、避難者ら653人を収容した。

後日、敷地内で4人の遺体が見つかった。

 

◎給水塔登り 九死に一生/商工会館、屋上も冠水

 港近くにあった建物のほとんどが津波にのみ込まれた宮城県女川町で、4人の男性が一時は建物全体が水没した商工会館の屋上にいた。

屋上の給水塔に登って助かった4人は、間近で津波の威力を目の当たりにした。

 商工会館は鉄筋コンクリート4階建て。

屋上には高さ約5メートルの給水塔があり、1.5メートル四方の台座に立つ4本の支柱が給水タンクを支えていた。

本震が発生した当時、会館には商工会職員の青山尊博さん(38)ら男女7人がいた。女性職員や外部の関係者を先に逃がし、青山さんら4人が屋上に登った。

青山さんらが屋上にたどり着いた時には既に、津波が4階に達していた。

4人はそれぞれ支柱にしがみついた。足元で、目の前で、建物などが流される様子を見た。

青山さんと商工会職員の遠藤進さん(55)は、しがみついた柱を挟んで向かい合う形になった。

 「病院もだめだ」
 「皆、死んだべや」
 「終わるときはこんなものか。あっけない」

あぜんとしながらも、気持ちを落ち着かせるために、努めて互いに言葉を掛け合った。

引き波で陸から流れてきた木造家屋などが、倒壊を免れた他の建物にぶつかると、ごう音とともに水しぶきが上がった。
 

ばらばらの木片になる建物、燃えながら流される民家。

波音や建物が壊れる音とともにプロパンガスの噴出音も聞こえ、2人とも「次第に言葉が出なくなった」(遠藤さん)。

水位はじわじわと上がり、屋上も水につかった。

水面は一時、4人の足元約50センチにまで迫った。

 「もう、だめだ。死ぬな」。

家族に形見を残そうと、青山さんは身に着けていたネクタイを支柱に結び付けた。

屋上に達した水は15分ほどで引き、夕方にはさらに水位が下がった。

4人は3階に下り、四方の壁が残っていたトイレにこもった。

座ると、衣服がぬれてさらに寒くなると思い、立ったまま夜を明かした。

 女川町は女川港周辺にある3、4階建ての建物のうち、商工会館と女川消防署、観光施設のマリンパル女川を津波避難ビルに指定していたが、今回の津波で屋上まで水没しなかったのはマリンパル女川だけだった。

◎「高台に逃げろ」叫ぶ/町役場、直前まで無線放送

宮城県女川町中心部に津波が押し寄せている最中、町役場では2人の職員が防災無線で町民に避難を呼び掛けていた。

役場庁舎の最上階、3階にある無線室が浸水するまで、放送は続いた。

気象庁が大津波警報を発令した3月11日午後2時50分ごろ、女川町企画課の臨時職員(当時、4月末で退職)の八木真理さん(36)は無線室に駆け込み、防災無線の放送を始めた。

「大津波警報が発令されています。沿岸部の人はただちに高台に避難してください」。

警報発令に備えて用意していた原稿を手に、備え付けのマイクに向かって、繰り返し呼び掛けた。

放送を始めて約20分後、企画課防災係長の阿部清人さん(45)は庁舎2階にいた。海側の様子を眺めていると、沖にある高さ6メートルの防潮堤よりはるかに高い波しぶきが上がるのが目に入った。


すぐに、無線室に向かった。「大きな津波が押し寄せています。至急高台に避難してください」と放送用の原稿を替え、「余計なことは言わなくていい」と八木さんに伝えた。

すぐさま、1階に駆け下りた。「全員、屋上に待避」。声の限り、職員に指示を出した。

無線室は庁舎西側にある。港の反対側に位置し窓からは海側の様子が見えない。

「役場周辺の状況が全く分からず、すぐそばまで津波が来ていることも知らなかった」と八木さん。淡々と放送を続けた。

やがて役場も浸水し、2階に海水が上がってきた。阿部さんは再び、無線室に駆け込んだ。

 「すごい水だ。放送を代わる」。八木さんは無線室を飛び出し、屋上に向かった。

阿部さんはマイクを握り、「高台に逃げろ」と2度、叫んだ。

次の瞬間、無線室に海水が流れ込んできた。

「これが最後の放送です」。

阿部さんが次に言おうとした言葉を発する間もなく、放送機材と固定マイクが水没した。

阿部さんは腰まで水につかりながら無線室を出て、屋上にたどり着いた。

職員ら当時庁舎内にいた約100人は屋上に逃げ、全員無事だった。屋上に登った最後の1人が阿部さんだった。

 


津波の直後の動画↓

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51768034.html

 

 

現在午後4時半。

冬の日暮れは早い。道路の冠水も心配で、女川から逃げるように石巻まで戻ってきた。

瓦礫は片付けたが、復興は計画も何も決まっていない。

 

 三陸道石巻河南ICより仙台に向かう。

 

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12月の被災地 8  80cmの差で助かった女川原発

2011年12月23日 19時37分15秒 | 地震

 

海を見下ろす町立病院の駐車場には慰霊の花束。

ここを越えて津波は来た。

 

町立病院の診療時間。

内科、外科は月~金の半日だけ。

整形、小児科、眼科、皮膚科は週に半日だけの診療だ。

 


女川では津波がなんと海抜約20mに達した。

港のシンボルだったマリンパルは水没。

津波は木造の建物を流し去り、鉄筋の建物をひっくり返した。

JR女川駅は跡形もなく破壊された。

 

多くの町民は高台の町立病院に逃げたが、そこにまで津波は押し寄せた。

町役場も最上階まで浸水。防災無線は市街地が津波にのみ込まれている最中に途絶えた。 

 

女川原発は海抜14.8mの場所に建設された。

想定された津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高いところが選ばれた。

しかし地震で大地は1m地盤沈下。原発は海抜13.8mに下がった。そこに押し寄せた津波は13m。

差引き、僅か80cmの差で宮城県と仙台市はフクシマ化を免れたのだ。

 

(福島第一原発では、想定した津波は5.7m。原発の海抜は10m。そこに14mの津波が来た。)

 

12月2日現在、女川の行方不明者は364人。

気仙沼では346人、南三陸町では308人。

 

行方不明の家族を抱える家では、どんなイブを過ごすのだろうか。 

 

「海辺の風景7 女川」   http://blog.goo.ne.jp/daisuke-nana/m/201104

 

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