活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

気付きと悟り4

2022年09月09日 | 法理

「悟り」について、有名な白隠禅師は「大悟 十八、小悟 その数を知らず」と。

 

「ああ、そういうものか、ああこれで善いんだ、なるほど」というような事を常常、自分自身が気が付いたということです。

 

これは明らかに善い事ではありません。

 

そのくらい「考えが多かった、迷いが多かった」ということが言える訳です。

 

ですから「全部本当ではなかった」ということです。

 

小悟にしろ、大悟 十八を数えるにしろ、「それは本当ではなかった」ということを後に述懐しておられます。


気付きと悟り3

2022年09月07日 | その他

後から無門という和尚さんが次のような寸評を加えています。

 

「余りにも趙州の答えが親切すぎて、そのまますぎて、かえって新米の和尚の所得(悟り)に至るのを遅くするのではないか」と。

 

禅門では気付くことを「省(しょう)あり」と呼んでいます。

 

「省あり」とは「大悟(だいご)」に至る前の段階の事であり「途中のもの」です。

 

それが落とさなければならない処なのです。

 

もう一つ落とさなければ悟り(大悟)には至らないのです。

 

「明眼の師」がいなければ落とせない処なのです。

 

私がブログを開設してから使用してきた「悟り」とは「大悟」の事です。

 


気付きと悟り2

2022年09月05日 | 法理

説明しましと、応量器(食事をする器)というのは、自分の外にある物のように考えがちです。

 

しかし、趙州和尚が「食器をきれいに洗って片付けておきなさい」と言われた、その応量器は何を意味するのか。

 

それは「あなた自身」です

 

そこで新米の修行僧は一体何に気が付いたのか?

 

どのような修行の要訣を自分で納得したのか?

 

この問答を私たち衆生が如何に参究するかが修行の要訣です。


気付きと悟り1

2022年09月03日 | 法理

気付きと悟りは全く別の物です。

 

気付きについて禅宗祖録「無門関 第七則 趙州洗鉢の話(わ)」で説明します。

 

趙州(じょうしゅう)因みに僧問ふ。

某甲(それがし)乍入叢林(さにゅうそうりん)乞ふ 師指示(しいじ)せよ

州云く 喫粥了や未(いま)だしや

州云く 鉢盂(ほう)を洗い去れ

其の僧 省(しょう)あり

 

昔、趙州という和尚に、或る僧が尋ねました。

「私は、初めて坐禅の修行を志すものでございます。どうか坐禅の方法をお示し願います」

 

そうすると趙州和尚がこれに答えてお話しなさいますのに、

「お前さんは朝の粥を食べたか」

 

お坊さんは答えて言います。

「はい、十分にいただきました」

「そうかそれはよかった。それでは応量器(食器)を洗って片付けておきなさい」

 

そうすると、これから初めて坐禅の修行の志を起こした(法を求める志を起こした)そのお坊さんが、

「気が付いた(修行の坐禅の方向に気が付いた)」

と、大変喜んで帰ったというお話です。