「悟り」について、有名な白隠禅師は「大悟 十八、小悟 その数を知らず」と。
「ああ、そういうものか、ああこれで善いんだ、なるほど」というような事を常常、自分自身が気が付いたということです。
これは明らかに善い事ではありません。
そのくらい「考えが多かった、迷いが多かった」ということが言える訳です。
ですから「全部本当ではなかった」ということです。
小悟にしろ、大悟 十八を数えるにしろ、「それは本当ではなかった」ということを後に述懐しておられます。
「悟り」について、有名な白隠禅師は「大悟 十八、小悟 その数を知らず」と。
「ああ、そういうものか、ああこれで善いんだ、なるほど」というような事を常常、自分自身が気が付いたということです。
これは明らかに善い事ではありません。
そのくらい「考えが多かった、迷いが多かった」ということが言える訳です。
ですから「全部本当ではなかった」ということです。
小悟にしろ、大悟 十八を数えるにしろ、「それは本当ではなかった」ということを後に述懐しておられます。
後から無門という和尚さんが次のような寸評を加えています。
「余りにも趙州の答えが親切すぎて、そのまますぎて、かえって新米の和尚の所得(悟り)に至るのを遅くするのではないか」と。
禅門では気付くことを「省(しょう)あり」と呼んでいます。
「省あり」とは「大悟(だいご)」に至る前の段階の事であり「途中のもの」です。
それが落とさなければならない処なのです。
もう一つ落とさなければ悟り(大悟)には至らないのです。
「明眼の師」がいなければ落とせない処なのです。
私がブログを開設してから使用してきた「悟り」とは「大悟」の事です。
説明しましと、応量器(食事をする器)というのは、自分の外にある物のように考えがちです。
しかし、趙州和尚が「食器をきれいに洗って片付けておきなさい」と言われた、その応量器は何を意味するのか。
それは「あなた自身」です。
そこで新米の修行僧は一体何に気が付いたのか?
どのような修行の要訣を自分で納得したのか?
この問答を私たち衆生が如何に参究するかが修行の要訣です。
気付きと悟りは全く別の物です。
気付きについて禅宗祖録「無門関 第七則 趙州洗鉢の話(わ)」で説明します。
趙州(じょうしゅう)因みに僧問ふ。
某甲(それがし)乍入叢林(さにゅうそうりん)乞ふ 師指示(しいじ)せよ
州云く 喫粥了や未(いま)だしや
州云く 鉢盂(ほう)を洗い去れ
其の僧 省(しょう)あり
昔、趙州という和尚に、或る僧が尋ねました。
「私は、初めて坐禅の修行を志すものでございます。どうか坐禅の方法をお示し願います」
そうすると趙州和尚がこれに答えてお話しなさいますのに、
「お前さんは朝の粥を食べたか」
お坊さんは答えて言います。
「はい、十分にいただきました」
「そうかそれはよかった。それでは応量器(食器)を洗って片付けておきなさい」
そうすると、これから初めて坐禅の修行の志を起こした(法を求める志を起こした)そのお坊さんが、
「気が付いた(修行の坐禅の方向に気が付いた)」
と、大変喜んで帰ったというお話です。