後から無門という和尚さんが次のような寸評を加えています。
「余りにも趙州の答えが親切すぎて、そのまますぎて、かえって新米の和尚の所得(悟り)に至るのを遅くするのではないか」と。
禅門では気付くことを「省(しょう)あり」と呼んでいます。
「省あり」とは「大悟(だいご)」に至る前の段階の事であり「途中のもの」です。
それが落とさなければならない処なのです。
もう一つ落とさなければ悟り(大悟)には至らないのです。
「明眼の師」がいなければ落とせない処なのです。
私がブログを開設してから使用してきた「悟り」とは「大悟」の事です。