活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

事究竟について7

2020年10月21日 | 法理

世の中は「世界人口数」だけ「世界人口数の考え」があります。

 

もちろん言葉が違うように、習慣・風俗も違います。

 

おシャカ様はそういうものを全て「空」として理論づけてまとめられ、自分も行じられたということで「仏の教え(仏法)」というものを作り上げられた訳です。

 

ところが「これは仏法で、これは仏法では無い」というと、既に底に「人の考え」が出て来ます。

 

しかし、「事究竟(事が何時も既に終わっている)」という事からいえば、私たち衆生は何時でも・何処でも・何をしていても「事究竟」に随っています。

 

そしてその「事究竟を証明できる教えが仏法」であり「事究竟に気付くこと」が「本来の修行」なのです。


事究竟について6

2020年10月20日 | 法理

「空」というのは絶えず変化し続けていて、今、天上界に居たかと思うと次の瞬間には地獄、餓鬼の世界に変化します。

 

「変化し続けながらも事究竟の状態のままに成っている」のです。

 

比較するものは何もありません。

 

しかし、私たち衆生は「心に因って心が迷い、心を動かす」為に、どんな状態にいても私たち衆生は落ち着かないで「六道」をぐるぐる巡って輪廻しているのです。


事究竟について5

2020年10月19日 | 法理

心意識の働きを「六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)という言葉で表していますが、これらは全て「事究竟」です。

 

喜びの時は天上界、人間界になると喜怒哀楽の感情が動きます。

 

修羅界は争いの世界、畜生界はものの道理の分からない世界、餓鬼界は何時も満たされずものを貪る世界、地獄界は天上界の反対で苦しみだけの世界です。

 

このような心意識が「指」をパチンと鳴らす間にとめどもなく活動している「無常の状態」を「空」といいます。


事究竟について4

2020年10月18日 | 法理

やがて二~三歳頃になり、周囲の人から影響を受けて言葉や習慣を覚えると、「知恵という名の迷い」が生じます。

そして生長するにしたがって様々な考え方、週間、風俗、見るもの聞くもの等に因ってその迷いが段々増していきます。

 

しかし、本来は迷いは迷いのままで終わっているのが、私たち衆生の状態すなわち「事究竟」なのです

 

したがって「心(しん)」というものは何処にもありません。

 

何となく有(在)るような気がするだけなのです。

 

「無いもの」を仮に「心」と名付けてみたところで「心が心を心で」迷わす結果になるだけなのです。


事究竟について3

2020年10月17日 | 法理

「事究竟」とは「般若心経」の中にも「究竟涅槃(くぎょうねはん)」という文言があります。

 

「事(一切のもの)究竟(行き着いたところ)」つまり、「すべてのものが完結している結果である」という意味です。

 

私たち衆生はそのような「今、今の連続」で、宇宙の万物と「消滅(因縁果)」を繰り返しています。

 

私たち衆生は自分の誕生したことを知(識)りません。

 

生年月日はもちろんのこと、男女の区別も、呼吸している事も自分では分かりません。

 

分からないというよりも、「全く一つのものとして、有(在)る」と言うことです。


事究竟について2

2020年10月16日 | 法理

「法(道)」も無ければ、「仏」も無ければ、「人間(にんげん)」も居なければ、「業」も無いという「自分の考え以前の状態」というものは、必ず何方にもあるはずです。

 

考えを起こす前の状態という事です。

 

それほど「人というもの、我見、自意識」というものは取れ難いものです。

 

これを取るには「今の事実」に徹する意外にありません。


事究竟について1

2020年10月15日 | 法理

「自己を認める」このことが「法(道)」を求めていく上に於いて一番差し障りになるのです。

 

「自己を認めた上」に色々な考えを起こして、そして修行するから輪廻の繰り返しなのです。

 

「一切の事というものは、自己の考え、自意識、我見というものの起こる以前にすべて解決している」ということです。

 

このことを「事究竟(じくぎょう)」といっています。


真になり得る2

2020年10月14日 | 法理

私たち衆生は「無始劫来の吾我(ごが)」から離れ難いものです。

 

そこで「勇猛心(ゆみょうしん)」が必要になるのです。

 

自己を忘ずる事を「大死一番」といいます。

 

ですから、「その物に成った時」を「死んでしまう」という意義があるのです。

 

それを白隠禅師は「若い衆や 死ぬのが嫌なら 今死にやれ 一度死んだら もう死なぬぞや」と言っています。

 

「死んでしまう事」が二度あるはずはありません。

 

医者の言葉に「仮死」という言葉があります。

 

元来、これは語の意味を為しません。

 

仮に死んだのは、死んだのではないからです。


真になり得る1

2020年10月13日 | 法理

「公案」は一千七百則あるといわれています。

 

しかし、前後に「一処通れば、千処万処、一時に通る」「一疑破るれば、千疑万疑、一時に破る」とあります。

 

つまり「公案」は一つでよいのです。

 

「公案その物に成り切って(満身公案に成る)、成り切る物も無い処まで参究していく」のです。

 

この「成り切る」という事は、比較的易しい事ですが、「真に成り得る」は大変難しい事です。

 

「真に成り得る」とは「成り切る物も無い処に到達する事」です。


無所悟無所得の修行3

2020年10月12日 | 法理

究極を唱える人が「無所悟無所得の修行」を唱えれば衆生教化(しゅじょうきょうけ)には役立ちます。

 

しかし、究極が分かっていなくて「無所悟無所得の修行」を唱えたら一体どうなるのでしょうか。

 

究極がわかっていて「無所悟無所得、手段、方法、方便」を唱えるというならば、「起承転結」がはっきりしています。

 

しかし、究極が分からなくて「手段、方法、方便」を唱えても「究極(本当の処)」に私たち衆生を連れて行ってあげる事は出来ないと思います。

 

これは大きな間違いで「毫釐(ごうり)も差(しゃ)あれば天地 懸(はるか)に隔(へだた)る」という事にも成りかねないという事です。