元来、「我」というものは無いものではありますが、
どうしても「修行が要る」のです。
それが所謂「十界(じっかい)の分かれ」です。
ここに「修行の必要がある」のです。
「十界」は自分の標本である自分が分かれて「仏」とも「地獄」
ともなっているのです。
たとえ「地獄」に入っても即ちそれが「仏の生涯」です。
「提婆(だいば)の悪も観音の慈悲」なのです。
提婆がおシャカ様を殺そうとして「無間地獄(むげんじごく)」に
入りますが、それを「阿難」が見舞いに行きました。
「兄さん、出たらどうか」と言うと、提婆は
「出られない、地獄の者が地獄にあるのは、今の懲役人が懲役に
居るのと同じものである。それだけのものだ。
貴様はものを知らぬ奴だ、それならばおシャカ様を呼んで来い」
と言ったのです。
仏様が地獄に来るものではありません。
仏様は仏様の居所に居るのです。
提婆は、「因果」を自分で引き受けてやってみせているのです。
「提婆の悪も観音の慈悲」
「周利槃特(しゅりはんどく)も文殊の智慧」
なのです。
地獄の者が、地獄の中にあって、心動かざる処は「成仏」です。