「心(覚)一念」で作り事をしていたのではなくて、「心(意)一念」さえびっくりするほど、「私達衆生は本来自分を捨ててしまった生活に、生きているいる」という事が、見付かるのです。
それですから、見付かって見るとはっきり「自覚」出来るのです。
「心(意)一念その物自体」が、それを「自覚」するのです。
別の言葉で言えば、「私が不要な事をして困っていたのだな」と言う事です。
私達衆生はおシャカ様や歴代の覚者方と同じような、「仏性(ぶっしょう)」を具有しているのです。
ですから、誰が行なってもそれが「自覚」出来るのです。
「自覚」され有(在)れば様々な思惑が取れるようになり、形式にも拘束される事が無くなります。