「一如体玄なり」というお示しがあります。
「一如体玄」とは人間の見解でものを作ることではないのです。
自他の関係の動き方というものは出発の時点でもう既に本質的に
出来上がっているのですl
ですから知(識)ら無くても「一如になるように出来上がっている」のです。
この「有(在)る」ということが一如の証拠なのです。
何時「有(在)る」ようになってどうしたか分からないながらに必ずそのように
「有(在)る」のです。
此の事は人間(にんげん)の教えでは、憶測出来ないのです。
どうしようもないではありませんか。
しかし、幸いに「成るように成っている」のです。
それが現実の姿です。
実際のものの「有り方(在り方)」なのです。
しかし、「誰一人」としてそれに気が付かないのです。