見る、聞く、考える等、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の働きは、一切自分というものを離れているのです。
「知るとか知らない」とかに関係なく「その物(六根)」の働きのまま、つまり「そのままに成っている」のです。
そこには一切の意味付け、意義付けというような、ものの介在する余地は有(在)りません。
また、「信じる信じない」というような事も取り付く余地は無いのです。
もし、此の事に疑問を生じたのであれば、それは相手に因って生じたのではなく、自分自身が自分自身に対して疑問を生ぜしめたという事です。