道元禅師は「正法眼蔵」の中で「恁麼時(いんもじ)而今(にこん)は吾も
不知(ふち)なり、誰(たれ)も不識(ふしき)なり、汝も不期(ふご)なり、
仏眼(ぶつげん) も覰不見(しょふけん)なり、人慮(にんりょ)あに測度(しきたく)
せんや」とお示しになっておられます。
意訳すれば「絶対的な真実の瞬間は我も知らず、誰も識らないのである
汝も予期せず、仏の眼でも見ることが出来ない。
まして人間(にんげん)の考えで、どうして推測することが出来るであろうか」
ということです。
なんと「不知不識生」に対する親切な解釈ではないでしょうか。
「不知不識生」とは「知らず識らずに生ずるなり」ということなのです。
「因縁生」も「知らず識らずに因縁より生ずるなり」ということです。