たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

身近な史跡

2012年08月04日 | 日記

昨日は散歩ドライブでの田園風景を見出し画像にしました。今日の写真は東側、昨日の反対方面のショットです。夏空にきれいな田園風景ですね。こういう地域に住める幸せを感じます。

この写真の一角に宮塚史蹟があります。伝・蘇我倉山田石川麻呂(そがの・くらやまだの・いしかわまろ)の墓と言い伝えられています。各務原市史にも文書には出てこない史跡と解説されています。

蘇我倉山田石川麻呂とはどういう人なのでしょうか。
当時専横を極めた蘇我入鹿は聖徳太子の子息とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)を一族もろともに滅ぼしまします。

蘇我氏の専横に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)や、中臣鎌子(なかとみのかまこ:後の藤原鎌足)等が決起し入鹿暗殺の「乙巳の変」(いっしのへん)というクーデターを起こします。
暗殺は645年6月12日に皇極天皇のお住まいであった飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の皇極殿で決行されました。朝鮮三国からの使者が表敬訪問した際を狙い、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げたのが蘇我倉山田石川麻呂です。
その時、暗殺がなかなか実行されず、上表文を読み上げながら石川麿は震えて冷や汗をかいたと言われる人物です。

私は住まいの指呼の間にこんな歴史上の人物の史跡があることと、また時代が同じ頃、石川麻呂が自害した彼の菩提寺と同名の古寺のがあったことに、大変興味を持っていました。
幸い、高校の同級生で昔は羽振りがよく、今は倒産して少し零落している人物と親しく、彼が吉野の団地の中に別荘を持っていましたので、退職後何度も彼と遊びに行きました。
その都度、日本人の「心のふるさと」といわれる明日香村を歴史散歩、ほっつき歩きをしました。そして、大化の改新につながる歴史史跡を見て回ったのです。

勿論、日本最古の仏像といわれる、鞍作鳥の作である飛鳥大仏のある飛鳥寺の近辺にある、入鹿の首塚や板蓋宮跡、暗殺の談合が行われた多武峰(とうのみね)の麓にある、談山神社で入鹿の首が御簾(みす)に飛んで食らいついた多武峰縁起絵巻(模写)など何度も見て回りました。

東名阪高速道を天理で降り明日香へ向かう途中に桜井市、山田寺史跡があります。
ここが石川麿が最後に自害した菩提寺跡です。すぐ近くに国立飛鳥歴史資料館があります。この館内に近年山田寺跡から掘り出され、化学処理して保存された回廊の連子格子(れんじこうし)を見ることができます。
はじめに訪ねたとき館内の展示物の監視役のおばさんに「私の住まい、美濃の国、各務原市に石川麻呂の塚があります。また山田寺跡もあります」と申しますと、大変珍しがられ学芸員を呼んでくださり、学芸員も「そんな史跡が美濃の国にあるとは聞いたことが無い、昔は大和朝廷の力が各地に及んでいた証拠でしょう」と驚いていました。
最近ネットが充実してWikに誰かが宮塚や、山田寺(さんでんじ)史跡を書いてアップしてくれています。