激しい練習

2006年09月29日 | 風の旅人日乗
9月28日。

スロベニア、ポルトロッシュ。

昨日、今日と、ラッセル・クーツにコーチしてもらいながらの練習が続いている。

非常に激しい練習だ。

ヘルムを持つM田オーナーとその横でメインシートをトリムするぼくに、ラッセルが付きっ切りでコーチする。

艇の上では、ラッセルはあんまり優しくないよ。というか、本当に厳しい。

日本では、西村はクルーに対して厳しすぎるって、うわさになっているらしいけど、ラッセルは多分、ぼくの百倍は厳しいよ。

ミスは絶対に容赦してくれない。本気で怒る。

でも、ラッセルって本当にセーリングが好きなんだなあ、と思う。

朝、早めに起きて艇に行き、昨日の整備でできなかったことを一人で続けていると、ジョギングのついでにラッセルが船までやってきて、ハァハァ言いながら、

「今日の準備はできているか?昨日俺が言ったことはOKか?」などを矢継ぎ早に畳み掛けてきて、「じゃあ、10時出航だぞ」と言い残して、また走り去る。

昨夜は夜中過ぎにカジノに行ったはずなのに(ぼくは誘われたけど、翌日のセーリングのことを考えるととても行けなかった)、すごいね。

人にも厳しいけど、自分にもとても厳しい。やっぱり世界一のセーラーだね。

ラッセルが横にいてのセーリングは、一瞬一瞬がすべて学ぶことだらけだ。

30年以上も一生懸命セーリングに没頭してきたのに、ラッセル・クーツという世界一のセーラーを前にすると、自分にはまだまだ進化しなければいけない余地が山のようにあるのだということを知る。

ラッセルから学ぶすべてを自分の血と肉にしたいと思う。

この機会を与えてくれた、ラッセル・クーツ44という艇と、その艇を購入してラッセルにコーチを頼んでくれたM田オーナーに心から感謝である。

厳しい練習の後の、クルーみんなでの夕食のひととき、これもまた楽しい。

ラッセルはワインに酔うと、3年前にぼくも同行した瀬戸内海のクルージングがどんなに楽しかったかを、何度も周りのクルーに語る。

ラッセルは日本の文化をとてもリスペクトしてくれていて、ぼくにとっては、それもとても嬉しいことだ。

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さて、今日は、2006年のCaptain's World No.100に掲載された『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』の中盤です。(text by Compass3号)

Captain's World

『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(昨日の続きから)

 さて、人類のセーリングの技術を進化させ続けているアメリカズカップにも、人類が本来持っていた勇敢さとセーリングの能力を試されるボルボ・オーシャンレースにも、現在、日本からの参加艇を見ることはできない。
なぜだろう? 
セーリングが、我々日本人に関わりのない文化だからだろうか?
よく言われるように「日本人は農耕民族」だからだろうか?
しかし、とぼくは考える。
「海」という言葉から海そのものを思い浮かべるとき、実際に海まで出かける機会の少ないほとんどの日本人にとっても、それはとてもポジティブで、心地良いイメージを持った存在であるはずだ。
車窓から、思いもかけずに突然遠くに海が見えたとき。
波打ち際に立って、潮騒の音を聞きながら水平線を眺めるとき。
我々日本人が、たとえ遠くからでも海に触れるとき、なんとも言えず懐かしいような、心が浮き立つような気持ちになるのはなぜだろう?
そもそも、人類は、なぜ海に出ていくようになったのだろう?
数万年前のことだったに違いないそのときの光景を、目を閉じてイメージしてみる。
最初は、海岸の貝を取り尽し、少し離れた岩まで泳いで渡るところから始まったのかもしれない。
海に流れ出た倒木が水に浮くことに気付き、それに乗ってみようと思い立つ。最初は手で漕いで丸太を進めたが、櫂を使うともっと効率良く進むことに気付く。自分も濡れず物も濡らさずに海の上を移動するために、木を刳り抜いて丸木舟を作ることを発明する。木の枝に布を張ってそれに風を受ければ、楽に速く丸木舟が動くことを知る。
これらの発明と発見の過程には、数千年、数万年の時間が横たわっているのだろう。
日本列島に住んでいた我々の祖先はどんなふうに海と関わり始めたのだろうか?
はっきりしていることが一つある。
木を刳り抜いて丸木舟を作るために使われていた特殊な石器があって、それは考古学の世界で丸型石斧と呼ばれている。この石斧の、世界で最も古い発見例は、日本の鹿児島で発掘されたもので、約一万二千年前のものだ。世界最古の造船用石器が日本で見つかっている。しかし、ほとんどの日本人はこの事実を知らない。
世界最古の造船用具が見つかったということは、日本人の祖先は、この地球で初めて船を造った人類である可能性が高い、ということになる。つまり、日本人の祖先は、人工の船で海に出た最初の人類なのかもしれない、ということだ。
このことは、我々日本人の多くが海に特別な感情を抱く理由のヒントになりはしないだろうか?
日本人の祖先である縄文人が、遠く、太平洋まで乗り出していたことも、現代の日本人自身にはあまり知られてないことだと思う。
小笠原群島に属する硫黄島や、伊豆諸島の八丈島には、約四千年前の縄文人が残した遺跡がいくつも残っている。そして彼らが頻繁に本州と行き来していたことも、遺跡で発見された品々から判明している。本州から硫黄島までの約千キロもの海を、人間は泳いで渡ることはできない。また、その時代から存在する、世界屈指の強い海流である黒潮が横切るこの海を、例え船を使っても、櫂を漕ぐことだけで渡ることはできない。風の力を使ってセーリングしなければ、黒潮を横切って千キロ以上もの海を渡ることはできないのだ。つまり、四千年も前、我々の祖先が太平洋をセーリングで走っていたという間接的な証拠が、硫黄島や八丈島で見つかった遺跡の存在である。イエス・キリストが生まれた時代よりもさらに二千年も遡った時代に、我々日本人の祖先は、太平洋を風に乗って自由自在に航海していたのだ。
我々の祖先が古くから海や船と深く関わり、技術を進化させてきた過程の記憶は、現代日本人の脳幹にも刷り込まれているはずだ。多くの日本人が海に懐かしさを覚えるのは、長く海と接してきた祖先たちの記憶を受け継いでいるからではないのだろうか?

ここ数年、ぼくは機会を作っては沖縄の慶良間諸島の座間味島に通っている。そこには、サバニと呼ばれる沖縄古来の帆装艇がある。
サバニ。
ほとんどの日本人にとって、聞きなれない名詞だと思う。サバニとは、かつては丸太を刳り抜いて作られていた小舟で、この数百年前からは、杉材をはぎ合わせて造られている帆装艇を指す言葉だ。サバニは主に沖縄地方で漁業に使われてきた。現在では実用に用いられることはほとんどなくなってしまい、その存在は、沖縄の人たちの間でさえ忘れ去られようとしている。
サバニはその歴史を丸木舟の時代まで遡ることができる。実際に、沖縄のいくつかの博物館には、大きな木を刳り抜いて造られたサバニが何隻か保存されている。丸木舟の時代まで遡ることができるということは、即ち、サバニを伝って時代をずっと遡っていけば、丸型石斧が発見された一万二千年前と現代がつながることになる。そう考えれば、『生きた化石』とさえ呼べるかもしれないサバニは、かつて確かにあった日本起源のセーリング文化を現代に伝える、ほとんど最後の生き証人だ。そのことが、サバニに乗ることにぼくを夢中にさせる。
ぼくと同じようにサバニの存在価値を理解している数人の仲間と共に座間味島に通い、その帆装サバニを、古来からの操船方法で乗りこなす技術を身に付けようとしている。西洋型のヨットにあるような舵を使わず、櫂を入れるだけでサバニの挙動をコントロールし、同時に帆を操って、祖先たちがやっていたのと同じやりかたで大海原を自由自在にサバニで走ろうと思っている。祖先と同じ方法でサバニを操ることができるようになれば、祖先たちが風や波から身体で感じ取っていた感覚や、そして何よりも、彼らが海に出ていたときの気分に、数千年の時を隔てて直接触れることができるのではないか、と考えているからだ。
 もしかしたらぼくは、日本オリジナルの帆走艇であるサバニを乗りこなせるようになることで、日本人セーラーとして、自分自身のアイデンティティーに確固たる自信を持ちたい、と願っているのかもしれない。

(続く)