最後の冒険者たち

2006年09月30日 | 風の旅人日乗
今週の雑誌ターザンに、外洋ヨットレースの最高峰、世界一周ボルボ・オーシャンレース2005-06についての記事が掲載されている。
今回のレースで圧倒的な強さで優勝の栄冠を勝ち取ったオランダ艇「ABN AMRO ONE」のことや、レースの精神的起源について。
次回開催が2008年となって、寄港地として日本を含むアジアの国の1箇所が加えられたこと。
そして、次のレースに向けての熱い想いや、今年4月に、太平洋横断最短記録を達成した「ジェロニモ」到着時の裏話など。
あとは、Tarzan No.474の107~109ページをご覧下さい。

さて、今日は、2006年のCaptain's World No.100に掲載された『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』の最終回です。(text by Compass3号)

Captain's World

『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(昨日から続く)

セーリングによる太平洋横断最短記録に挑戦しようとしているフランス艇から、クルーとして乗艇しないか? という連絡があったとき、現役のプロセーラーとしての生活を少しでも長く続けたいと望んでいる自分の心の奥の声は、「もちろん乗る!」、と即座に叫んだ。しかし、理性を優先させるほうの自分は、その声をまず押さえて、この航海の難易度を忙しく計算し始めた。
「否」と答えるためのファクターはたくさんあった。
転覆したら二度と起き上がることのできないトリマラン艇による北太平洋航海の危険性。フランス人セーラーで構成されるチームに、唯一の日本人として加わることの難しさ。そして、五十一歳になって全盛期よりも確実に肉体が衰え始めている自分の、セーラーとしての総合的な能力が、初めて乗る大型トリマラン艇で通用するか否かの不安。
しかし、これらすべてが、「太平洋を渡るチャンスが巡ってきたのなら、そのチャンスを生かさないでどうするのだ。外国艇が太平洋を渡って日本に来ようというのに、その艇に日本人が乗ってなくてどうするのだ!」、という、日本人セーラーとしての素朴な熱情から出てくる内なる声を押さえ込むことができなかった。
太平洋は自分たち日本人の祖先が深く関わってきた海だということを、ぼくは知っている。その太平洋を、ヨーロッパを代表するセーラーたちがセーリングで渡り、最短横断記録を作ろうとしている。そこには誰か日本人代表が乗っていなければならない、とも思った。それは、彼らヨーロッパ人を海から迎え入れる日本人の使命でもあるはずだし、太平洋という海を切り開いてきた自分の祖先に対する責任でもある、と思えたのだ。
ぼくにとって太平洋横断は、東京商船大学(現・東京海洋大学)卒業前の航海実習として帆船日本丸で渡って以来のことになる。その実習航海では、帆船の実習生として覚えることの多さに手一杯で、日本人として太平洋を渡るということの意味を考える余裕などほとんどなかった。しかし今度の航海では、古代日本人と心を通じ合わせるつもりになって、彼らの記憶を自分の脳幹の中に探しながら、心の中の眼で太平洋を見ながら渡ってみよう、と決めた。
サンフランシスコから横浜まで、約6000マイル近い距離を、我々はわずか2週間で突っ走った。
かつて経験したことのないような高速で走るトリマラン艇でのセーリングは素晴らしい経験だった。片言の英語を使ってのフランス人セーラーとの航海生活もとてもうまくいったし、彼ら全員とお互いに深い親友になることもできた。そしてなによりも、航海を終えて横浜にゴールしたときに、フランス国民の英雄であり、また、気難しく厳しいことで知られるキャプテン、オリビエ・ドケルソンに「今後自分が挑戦するどの航海にも、おまえを連れて行ってやる」と言ってもらうことができた。自分のセーラーとしての力がフランスのトップセイラーに認めてもらえたこと以上に、日本人セーラーの能力を彼らヨーロッパ人セーラーに伝えることができた感動でいっぱいになった。

ヨットという言葉は、西洋で発達した西洋型のセーリング艇の総称だ。しかし、なにも西洋型ヨットだけがセーリング艇ではない。日本にも、ほんの最近まで現役で活躍する日本オリジナルの様々なセーリング艇が存在した。江戸時代の日本の経済活動を支えた菱垣廻船も北前船も、優秀なセーリング艇だ。そして、日本のセーリング文化を現代に伝える、ほとんど唯一の生き証人である沖縄のサバニも、日本の優秀な海洋文化の血筋を引いた立派なセーリング艇である。
我々日本人は、一万年以上の昔からほんの百年ほど前まで、長い長い歴史を持つ海洋文化を背負った海洋国民だったし、優れたセーリング技術も持っていた。しかし、そのことを知っていたり、そのことに誇りを持っている現代の日本人はあまりにも少ない。

今回、フランス艇に乗って太平洋を渡ることで、ぼくは、自分が大いなる海洋民族を祖先にもつ日本人セーラーなのだという誇りを、改めて心に刻むことができた。この、ワクワクするような気持ちを、もっともっと多くの日本人の同朋と共有したいと願っている。
周囲を海に囲われた日本。そこに暮らす人々が、ずっと昔から、現在の日本人のように海に無関心で生きてきたことのほうが不思議なことだと思う。日本人はほんのつい最近まで、海と深く関わりあって生きてきたのである。
昨年、2005年の夏、愛・地球博の関連イベントとして、セーリングを知らない子供たちを対象に、海で遊ぶことの楽しさやセーリングの面白さを知ってもらうために、2泊3日の体験セーリングキャンプを数回実施した。そのときに、感じたズシリとした手応えは、自分の予想を遥かに上回るものだった。わずか3日という短い体験で、子供たちが海とセーリングに夢中になっていく様に、我ながら驚いた。注意深くカリキュラムを組み、楽しく海と接する機会を与えてあげさえすれば、海洋民族の血を引く日本の子供たちはその記憶をすぐに思い出すのだ、という思いを新たにした。
我々の少し前の世代が、自分たちの海洋文化を子孫に伝える努力を怠ったから、それまで長く続いていた日本民族の海洋文化のことを現代日本人は忘れてしまった。その過ちを繰り返してはならないと思う。
自分自身のセーリング活動を続けることも大切だが、それと並行して、次の世代に日本の海洋文化を伝えていくために、自分ができることから始めようと考え、そのための具体的な活動を始めた。
2005年夏のセーリングキャンプで実施したカリキュラムを更に推し進めた催しを通年で開催したいと考え、母校の国立東京海洋大学や、ぼくのセーリングのベースである神奈川県葉山町や葉山ヨットクラブの協力をいただきながら、海を知らない子供や一般の人を対象に、海とセーリングの面白さを体験する場を提供するセーリングキャンプ開設の準備を進めている。ぼくが最初に立てることのできる波は、さざなみのようなものに過ぎないだろうが、繰り返しているうちにそれが次第に大きなうねりになって、日本中に広がっていくことになる可能性はゼロではないだろう。
現代の日本人たちが、自分自身の海洋民族としての能力を知り、海という言葉に憧れるだけではなく、実際に海に親しみ、たくさんの日本人が再び海に乗り出していく日々が来ること、そして日本が、再び優れた海洋文化国として世界に認められる日が来ることを、強く願っている。そうなりさえすれば、アメリカズカップであろうが、世界一周レースであろうが、日本の海洋文化を背負った日本代表チームが世界の海を舞台に活躍することなど、夢ではなくなるはずだ。
白状すると、実はそれがぼくのセーリング人生の最終目標なのだけれど・・・。

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