1月17日 火曜日
午前中、夕方のTeam Nishimura Project定例ミーティングのための資料作りをしていたら、宅急便で『VOLVO OCEAN RACE 2005-2006 カタログ』の見本が届いた。
昨年11月にスペインで取材して、ページ構成や原稿執筆、写真選びなどで年末まで忙殺された仕事だ。大変だったけど、手にしてページをめくっていくと、充実感があふれてくる。努力したことが形になって出来てくることは、本当にうれしいなあ。
このカタログは、ボルボ・カーズ・ジャパン社が制作したもので、全国のボルボ販売店のショールームに置かれることになっている。
ヨットやヨットレースのことを知らない人を対象に、このレースのこと、このレースに使われている最新のヨットのことなどを、分かりやすく、しかも専門的にディープに説明している。巻末には、このレースを記念して販売されているVOLVO OCEAN RACE 2005-2006特別限定車の仕様詳細も掲載されています。興味のある人は、
ボルボ・カーズ・ジャパン 0120-55-8500 www.volvocars.co.jp
へ、お問い合わせください。
午後、東京へ。出版社1軒に顔を出した後、六本木のTeam Nishimura Projectミーティング開催場所へ。いつもの面々が顔をそろえる。みんな忙しいのに、本当にありがたい。大阪からTさんや、群馬からT助教授も来てくれている。
今日のミーティングから新メンバーのYさんが参加。
YさんはフリーのTVディレクター。将来、Team Nishimura Projectを映像で紹介するときが来たときには、中心的存在になるはず。
本日は、西村の先週のヨーロッパ出張の報告、4月から始まるイベントの運営資金の具体的調達の策、Team Nishimura Projectのロゴ案の検討などが議題だった。
その後、新メンバーYさんの歓迎会を兼ねて、全員で新年会。
Team Nishimuraの宴会部長、G社のS氏の活躍で、昨年の忘年会同様大いに盛り上がった新年会になった。
次のミーティングは来週25日。4月から始まる具体的活動を前に、慌ただしくなってきた。
さて、『ヨーロッパと日本の海洋文化、マリンレジャー文化の違いについて考えてみる』第2弾、今日は昨日に引き続き、「コートダジュール、その光と陰」の後編です。
《コートダジュール、その光と陰》
(昨日の前編に続く、後編)
西村一広
【ステイタス・シンボル】
コートダジュールの各町に点在するそんなマリーナや一般の港を歩いてみると、100フィートから200フィートのセーリングヨットやモーターヨットが、見渡す限りずらりと並んでいる。
それらのほとんどは、船尾を岸壁に向けた艫付けで舫われている。
トランサムからメインキャビンの入り口にかけてのデザインは各艇様々に趣向が凝らされていて、ステップや手摺り、ドアノブに至るまでピッカピカに磨き上げられている。
船上パーティーに招待するゲストたちを迎え入れるためのエントランスの演出に、それぞれの艇のオーナーが見栄を張り合っているようにも見える。
それは、彼らが成功し、その証として豪華ヨットを持つことがステイタスとして社会に認知されているからでもある。
艇を美しく保ち、ゲストを乗せて優雅にクルージングするために、それぞれの艇が数人のプロセーラーを雇い入れている。つまり一つの港ごとに何百人ものプロセーラーやその見習が、その能力を生かす仕事の場を得ている。
しかし、これらのマリーナに広がる光景は、日本の未来のマリーナ像なのだろうか?
ここに居並んでいるような艇が日本に一隻でもあると、そのオーナーは日本では「一体どんな悪いことをして稼いだ金で造ったんだ」という目で見られるはずだ。そして、悪意の目を持ったマスコミの格好の餌食にされることだろう。
しかし、ここ、ヨーロッパではそのようなことは起きない。
仕事に成功してヨットを持つことが、堂々としたステイタスとして認知されるからだ。
何人かの日本人もこのあたりにモーターヨットを持っていて、そのうちの一人は10億円もするヨットを所有しているそうだ。その人の名前も著名な会社名も教えてもらったがここで出すのは控えようと思う。そんなことをすれば、その人の名前が日本では悪意を持って受け取られるに違いないからだ。
日本の、ある大企業の、セーリングが大好きだと言うCEOとお話をさせていただいたときのこと。
「何億円もするプライベートジェット機を日本で持つことはお咎めなしなのに、ヨットとなると会社名義で買い入れざるを得ない。社長であっても会長であっても、会社のヨット部員として社員に混じって密かにセーリングを楽しむことしかできない」、と苦笑交じりに聞かされた。
そうなのだ。それが日本の海洋レジャー文化の、現在のところの姿なのだ。
仕事に一生懸命努力して、苦労して自分で稼いだ金であっても、海の遊びには堂々と使いづらい、というのが日本という国の、お国柄なのである。
恐らく、階級社会が歴史のほとんど発端から長く続いているヨーロッパと、第2次大戦後、階級社会を一旦捨てて、国民みんなが中流層になろうとしている日本との間には、豪華ヨットを持つことや海洋レジャー文化の捉え方に、何か根本的な違いが存在するのだろう。
【遠い国から日本を思う】
フランス国営鉄道のニース駅から、地中海を背にして北の方向に15分ほど歩くと、コートダジュール地方であるニースとプロヴァンス地方とを結ぶ、「プロヴァンス鉄道」という名の単線の始発駅がある。
カンヌ、アンティーブ、カップダイル、モンテカルロと、名うての港町を歩いてこの地方に集まる大型プレジャー・ボートの群れに圧倒されて、胸焼けしたような気持ちになり、ある1日、そのプロヴァンス鉄道に乗って、同じコートダジュールでも、プロヴァンス地方との境に近い山間の農村を訪れることにした。
古いディーゼル機関車が引っ張る2両編成の車内には、ニース市内へ仕事に通う地元の人たちと、ドイツからの若い世代の旅行者が多く乗り合わせている。
年代物のディーゼル機関車が吐き出す排気が車内に入り込む。その臭いに悩まされながら1時間あまり、とある駅で、当てもなく降りてみる。
駅と川を挟んだ急な山の斜面に、高い城壁に守られた村があった。
強い風が吹いているのに、深い谷には重たい空気がよどんでいるように感じられる。荷車を引くロバの目に悲しさが宿っている。
ほの暗い谷間の、それ自身が光を放っているかのような金色の紅葉にも、胸を締め付けられるような寂しさを思い起こさせる色がある。
この村は、川と険しい山と高い城壁に守られた要塞のようになっていて、村の入り口に架かっている跳ね橋を上げると、外敵に攻め入られる心配がなくなる。コートダジュールの海岸線にも点在する典型的な「鷲の巣村」のひとつだ。
この時代になっても何者かに攻められる可能性を恐れてでもいるかのように、その橋は今でもすぐ上げられるようになっていた。
サッカーという競技は、ヨーロッパで、戦争で勝ったほうの兵士が負かした側の兵士の頭を落とし、それを蹴り合って遊んだのがルーツなのだそうだが、その頃のラテンの人たちの戦いはかなり血なまぐさかったのだろうと察せられる。
そんな時代を偲ばせる村の中を歩いていると、その時代時代の為政者、権力者たちの侵略ゲームの犠牲になって死んでいった人々の亡霊が、まだ彷徨っているようにも感じてしまう。
この村の人々は息を潜めて生活しているように思えた。侵略者におびえ、自分たちの収穫を搾取する貴族におびえた日々の記憶にまだ執拗に取り憑かれていて、今でも日々を秘かに慎ましやかに生きているように見えた。
こんな農村の閉塞感を嫌って、フランスの若者たちは冒険に乗り出すのだろうか。初期のパリ~ダカール・ラリーを企てたフランス人、ミニトランザットや世界一周シングルハンドレースに夢中になるフランス人たちはこの息苦しさから逃れようとして、冒険に情熱を注ぐのだろうか。
何億円もするヨットを個人で所有する層と、山間の村で長いあいだ貴族階級から搾取されながらつつましく生きてきた層。その2つの層を表裏一体で見ることができる国と地方…。
わすか数日間ほどコートダジュールを歩いただけで何かを導き出そうとするのは大変危険だと承知している。
だから性急に結論を出そうとすることは控えなければならない。しかし、日本の海洋レジャー文化は、欧米のそれを模倣しようとしたところからすでに無理が発生しているのではないか、と強く感じた。
「ヨーロッパではこうだ、アメリカではこうだ」と、先輩日本人たちからずっとそう言われ続け、我々はそのような欧米の海洋レジャーのあり方が唯一無二だと思い込んでその真似をしようとしてきた。
しかし、ヨーロッパにはヨーロッパの歴史や文化があり、それらと共に彼らの海洋レジャー文化も育まれてきた。
そして日本という国にも、独自の誇るべき長い歴史がある。その歴史の流れの中で誕生する日本独自の海洋レジャー文化があることのほうが自然なのではないか。それを積極的に探っていくことが日本に本当の海洋レジャー文化が根付いていくことにつながるのではないか。
日本独自の、日本の海洋レジャー文化のありかたを模索していくことは、回り道のように思えて、実は地に足をつけた日本の海洋レジャーが浸透していくための近道なのではないか。
日本とあまりにかけ離れた歴史と文化を背景に持つ国にいることをヒシヒシと感じながら、そう思えて仕方がなかった。
午前中、夕方のTeam Nishimura Project定例ミーティングのための資料作りをしていたら、宅急便で『VOLVO OCEAN RACE 2005-2006 カタログ』の見本が届いた。
昨年11月にスペインで取材して、ページ構成や原稿執筆、写真選びなどで年末まで忙殺された仕事だ。大変だったけど、手にしてページをめくっていくと、充実感があふれてくる。努力したことが形になって出来てくることは、本当にうれしいなあ。
このカタログは、ボルボ・カーズ・ジャパン社が制作したもので、全国のボルボ販売店のショールームに置かれることになっている。
ヨットやヨットレースのことを知らない人を対象に、このレースのこと、このレースに使われている最新のヨットのことなどを、分かりやすく、しかも専門的にディープに説明している。巻末には、このレースを記念して販売されているVOLVO OCEAN RACE 2005-2006特別限定車の仕様詳細も掲載されています。興味のある人は、
ボルボ・カーズ・ジャパン 0120-55-8500 www.volvocars.co.jp
へ、お問い合わせください。
午後、東京へ。出版社1軒に顔を出した後、六本木のTeam Nishimura Projectミーティング開催場所へ。いつもの面々が顔をそろえる。みんな忙しいのに、本当にありがたい。大阪からTさんや、群馬からT助教授も来てくれている。
今日のミーティングから新メンバーのYさんが参加。
YさんはフリーのTVディレクター。将来、Team Nishimura Projectを映像で紹介するときが来たときには、中心的存在になるはず。
本日は、西村の先週のヨーロッパ出張の報告、4月から始まるイベントの運営資金の具体的調達の策、Team Nishimura Projectのロゴ案の検討などが議題だった。
その後、新メンバーYさんの歓迎会を兼ねて、全員で新年会。
Team Nishimuraの宴会部長、G社のS氏の活躍で、昨年の忘年会同様大いに盛り上がった新年会になった。
次のミーティングは来週25日。4月から始まる具体的活動を前に、慌ただしくなってきた。
さて、『ヨーロッパと日本の海洋文化、マリンレジャー文化の違いについて考えてみる』第2弾、今日は昨日に引き続き、「コートダジュール、その光と陰」の後編です。
《コートダジュール、その光と陰》
(昨日の前編に続く、後編)
西村一広
【ステイタス・シンボル】
コートダジュールの各町に点在するそんなマリーナや一般の港を歩いてみると、100フィートから200フィートのセーリングヨットやモーターヨットが、見渡す限りずらりと並んでいる。
それらのほとんどは、船尾を岸壁に向けた艫付けで舫われている。
トランサムからメインキャビンの入り口にかけてのデザインは各艇様々に趣向が凝らされていて、ステップや手摺り、ドアノブに至るまでピッカピカに磨き上げられている。
船上パーティーに招待するゲストたちを迎え入れるためのエントランスの演出に、それぞれの艇のオーナーが見栄を張り合っているようにも見える。
それは、彼らが成功し、その証として豪華ヨットを持つことがステイタスとして社会に認知されているからでもある。
艇を美しく保ち、ゲストを乗せて優雅にクルージングするために、それぞれの艇が数人のプロセーラーを雇い入れている。つまり一つの港ごとに何百人ものプロセーラーやその見習が、その能力を生かす仕事の場を得ている。
しかし、これらのマリーナに広がる光景は、日本の未来のマリーナ像なのだろうか?
ここに居並んでいるような艇が日本に一隻でもあると、そのオーナーは日本では「一体どんな悪いことをして稼いだ金で造ったんだ」という目で見られるはずだ。そして、悪意の目を持ったマスコミの格好の餌食にされることだろう。
しかし、ここ、ヨーロッパではそのようなことは起きない。
仕事に成功してヨットを持つことが、堂々としたステイタスとして認知されるからだ。
何人かの日本人もこのあたりにモーターヨットを持っていて、そのうちの一人は10億円もするヨットを所有しているそうだ。その人の名前も著名な会社名も教えてもらったがここで出すのは控えようと思う。そんなことをすれば、その人の名前が日本では悪意を持って受け取られるに違いないからだ。
日本の、ある大企業の、セーリングが大好きだと言うCEOとお話をさせていただいたときのこと。
「何億円もするプライベートジェット機を日本で持つことはお咎めなしなのに、ヨットとなると会社名義で買い入れざるを得ない。社長であっても会長であっても、会社のヨット部員として社員に混じって密かにセーリングを楽しむことしかできない」、と苦笑交じりに聞かされた。
そうなのだ。それが日本の海洋レジャー文化の、現在のところの姿なのだ。
仕事に一生懸命努力して、苦労して自分で稼いだ金であっても、海の遊びには堂々と使いづらい、というのが日本という国の、お国柄なのである。
恐らく、階級社会が歴史のほとんど発端から長く続いているヨーロッパと、第2次大戦後、階級社会を一旦捨てて、国民みんなが中流層になろうとしている日本との間には、豪華ヨットを持つことや海洋レジャー文化の捉え方に、何か根本的な違いが存在するのだろう。
【遠い国から日本を思う】
フランス国営鉄道のニース駅から、地中海を背にして北の方向に15分ほど歩くと、コートダジュール地方であるニースとプロヴァンス地方とを結ぶ、「プロヴァンス鉄道」という名の単線の始発駅がある。
カンヌ、アンティーブ、カップダイル、モンテカルロと、名うての港町を歩いてこの地方に集まる大型プレジャー・ボートの群れに圧倒されて、胸焼けしたような気持ちになり、ある1日、そのプロヴァンス鉄道に乗って、同じコートダジュールでも、プロヴァンス地方との境に近い山間の農村を訪れることにした。
古いディーゼル機関車が引っ張る2両編成の車内には、ニース市内へ仕事に通う地元の人たちと、ドイツからの若い世代の旅行者が多く乗り合わせている。
年代物のディーゼル機関車が吐き出す排気が車内に入り込む。その臭いに悩まされながら1時間あまり、とある駅で、当てもなく降りてみる。
駅と川を挟んだ急な山の斜面に、高い城壁に守られた村があった。
強い風が吹いているのに、深い谷には重たい空気がよどんでいるように感じられる。荷車を引くロバの目に悲しさが宿っている。
ほの暗い谷間の、それ自身が光を放っているかのような金色の紅葉にも、胸を締め付けられるような寂しさを思い起こさせる色がある。
この村は、川と険しい山と高い城壁に守られた要塞のようになっていて、村の入り口に架かっている跳ね橋を上げると、外敵に攻め入られる心配がなくなる。コートダジュールの海岸線にも点在する典型的な「鷲の巣村」のひとつだ。
この時代になっても何者かに攻められる可能性を恐れてでもいるかのように、その橋は今でもすぐ上げられるようになっていた。
サッカーという競技は、ヨーロッパで、戦争で勝ったほうの兵士が負かした側の兵士の頭を落とし、それを蹴り合って遊んだのがルーツなのだそうだが、その頃のラテンの人たちの戦いはかなり血なまぐさかったのだろうと察せられる。
そんな時代を偲ばせる村の中を歩いていると、その時代時代の為政者、権力者たちの侵略ゲームの犠牲になって死んでいった人々の亡霊が、まだ彷徨っているようにも感じてしまう。
この村の人々は息を潜めて生活しているように思えた。侵略者におびえ、自分たちの収穫を搾取する貴族におびえた日々の記憶にまだ執拗に取り憑かれていて、今でも日々を秘かに慎ましやかに生きているように見えた。
こんな農村の閉塞感を嫌って、フランスの若者たちは冒険に乗り出すのだろうか。初期のパリ~ダカール・ラリーを企てたフランス人、ミニトランザットや世界一周シングルハンドレースに夢中になるフランス人たちはこの息苦しさから逃れようとして、冒険に情熱を注ぐのだろうか。
何億円もするヨットを個人で所有する層と、山間の村で長いあいだ貴族階級から搾取されながらつつましく生きてきた層。その2つの層を表裏一体で見ることができる国と地方…。
わすか数日間ほどコートダジュールを歩いただけで何かを導き出そうとするのは大変危険だと承知している。
だから性急に結論を出そうとすることは控えなければならない。しかし、日本の海洋レジャー文化は、欧米のそれを模倣しようとしたところからすでに無理が発生しているのではないか、と強く感じた。
「ヨーロッパではこうだ、アメリカではこうだ」と、先輩日本人たちからずっとそう言われ続け、我々はそのような欧米の海洋レジャーのあり方が唯一無二だと思い込んでその真似をしようとしてきた。
しかし、ヨーロッパにはヨーロッパの歴史や文化があり、それらと共に彼らの海洋レジャー文化も育まれてきた。
そして日本という国にも、独自の誇るべき長い歴史がある。その歴史の流れの中で誕生する日本独自の海洋レジャー文化があることのほうが自然なのではないか。それを積極的に探っていくことが日本に本当の海洋レジャー文化が根付いていくことにつながるのではないか。
日本独自の、日本の海洋レジャー文化のありかたを模索していくことは、回り道のように思えて、実は地に足をつけた日本の海洋レジャーが浸透していくための近道なのではないか。
日本とあまりにかけ離れた歴史と文化を背景に持つ国にいることをヒシヒシと感じながら、そう思えて仕方がなかった。