ご飯物を食うと、どうしても最後の一粒まで残さず食べてしまう。
物理的に腹に入らない量はおいといて、完食の際に茶碗やどんぶりに一粒も残さないって意味ね。
昔、親が共働きというのもあって、よく祖父母の家に預けられたんやけど、その時に散々「お百姓さんが苦労して作ったお米を残しちゃアカン」と教え込まれたんですわ。
そうして茶碗のご飯を残さず食べるうち、気づけば一粒でも残すと気持ちが悪いと思うように。
「お百姓さんに悪い」という感情よりも、何粒か残ってる違和感が凄いイヤ。
大人になって思うのは、躾っていうのは得てしてそういうモノなのかと。
「~は~だからしても良い」、「~は~だからしたらダメ」っていう理屈じゃなくて、子供の時に刷り込まれた行動をそのまま引きずってる気がする。
だから躾もそうだけど、倫理観というものは親や祖父母といった家族の影響が大きいと思う。
最近街中で当たり前に見る行為でも、一昔前は普通に“みっともない”と言われるようなものもあった。
“時代が変わった”と片付ければ簡単だけど、でもそれってやっぱり昔の美徳とか倫理観を、親やその上の世代から刷り込まれてない、つまり家族の関係が希薄になったからなのかなあ、なんて考えてしまう。
うちはどうなんやろう?
俺的には関係の希薄な家族ではないと思ってるけど。
ところで、俺の親父は茶碗にご飯粒を残しまくります。
同じ人(俺の言う祖父母)に躾られたはずなのに、この差はいったいどうしたことかw
不思議やなあ。
物理的に腹に入らない量はおいといて、完食の際に茶碗やどんぶりに一粒も残さないって意味ね。
昔、親が共働きというのもあって、よく祖父母の家に預けられたんやけど、その時に散々「お百姓さんが苦労して作ったお米を残しちゃアカン」と教え込まれたんですわ。
そうして茶碗のご飯を残さず食べるうち、気づけば一粒でも残すと気持ちが悪いと思うように。
「お百姓さんに悪い」という感情よりも、何粒か残ってる違和感が凄いイヤ。
大人になって思うのは、躾っていうのは得てしてそういうモノなのかと。
「~は~だからしても良い」、「~は~だからしたらダメ」っていう理屈じゃなくて、子供の時に刷り込まれた行動をそのまま引きずってる気がする。
だから躾もそうだけど、倫理観というものは親や祖父母といった家族の影響が大きいと思う。
最近街中で当たり前に見る行為でも、一昔前は普通に“みっともない”と言われるようなものもあった。
“時代が変わった”と片付ければ簡単だけど、でもそれってやっぱり昔の美徳とか倫理観を、親やその上の世代から刷り込まれてない、つまり家族の関係が希薄になったからなのかなあ、なんて考えてしまう。
うちはどうなんやろう?
俺的には関係の希薄な家族ではないと思ってるけど。
ところで、俺の親父は茶碗にご飯粒を残しまくります。
同じ人(俺の言う祖父母)に躾られたはずなのに、この差はいったいどうしたことかw
不思議やなあ。