「図書」(岩波書店)1月号を読んでいた。
すると懐かしい『兎の眼』(灰谷健次郎著)のことを柳広司さんが書いておられる。

懐かしいというのは、この本のことを鮮やかに覚えているから。
長男が幼稚園に入り、わたしがPTAの会長をしていた時の保護者の一人に勧められて読んだ本なのだった。
その時はまだ、灰谷さんが足立巻一先生を父親のように慕っておられたなどとは知る由もなかった。
わたしは、足立先生のことすらも知らない頃であった。
なのに、この本にいたく感動し、記憶に残るものになったのだった。
柳さんの文章は、5ページにわたって書かれている。その終わりの方にこんなことが。
《泣ける小説。という売り文句を最近書店の売り場でよく見かける。(略)井上陽水の歌詞ではないが、大の大人が人前で涙を流す、泣く、のはよほどのことだという認識が、少なくとも私の世代まではあった。「思わず泣いた」「号泣した」「何回泣いた」などと、引き出しの奥深くしまった日記帳にならともかく、不特定多数の者の目にふれる媒体に書くことは、正直言って恥ずかしい行為だった。(略)本作に「泣ける小説」という宣伝文句を使うのはやめてほしい。「読んで泣けた」という読者感想も聞きたくない。(略)”泣く“という行為は人の思考を停止させる。本書を読んで、もし泣きそうになっても、歯を食いしばって、考えてほしい。「泣ける小説」だからこそ「泣かない読書」を試みてほしい。ミステリアスなタイトルも含め、考えることを多く要求する作品だと思う。》
本当に最近「泣ける」とか「号泣」という言葉が安易に使われ過ぎているように思う。
すると懐かしい『兎の眼』(灰谷健次郎著)のことを柳広司さんが書いておられる。

懐かしいというのは、この本のことを鮮やかに覚えているから。
長男が幼稚園に入り、わたしがPTAの会長をしていた時の保護者の一人に勧められて読んだ本なのだった。
その時はまだ、灰谷さんが足立巻一先生を父親のように慕っておられたなどとは知る由もなかった。
わたしは、足立先生のことすらも知らない頃であった。
なのに、この本にいたく感動し、記憶に残るものになったのだった。
柳さんの文章は、5ページにわたって書かれている。その終わりの方にこんなことが。
《泣ける小説。という売り文句を最近書店の売り場でよく見かける。(略)井上陽水の歌詞ではないが、大の大人が人前で涙を流す、泣く、のはよほどのことだという認識が、少なくとも私の世代まではあった。「思わず泣いた」「号泣した」「何回泣いた」などと、引き出しの奥深くしまった日記帳にならともかく、不特定多数の者の目にふれる媒体に書くことは、正直言って恥ずかしい行為だった。(略)本作に「泣ける小説」という宣伝文句を使うのはやめてほしい。「読んで泣けた」という読者感想も聞きたくない。(略)”泣く“という行為は人の思考を停止させる。本書を読んで、もし泣きそうになっても、歯を食いしばって、考えてほしい。「泣ける小説」だからこそ「泣かない読書」を試みてほしい。ミステリアスなタイトルも含め、考えることを多く要求する作品だと思う。》
本当に最近「泣ける」とか「号泣」という言葉が安易に使われ過ぎているように思う。