未知の人から詩集が贈られて来た。

『三日月をけずる』(服部誕著・書肆山田刊・2018年年9月)
著者の服部誕さんに覚えがない。しかしどこかで聞いた名前ではある。
そして、送られてきたスマートレターの宛名が「喫茶輪」気付け「出石アカル」となっている。
「え?」と思った。
開けてみてわかった。手紙が入っていた。
《謹啓 (略)本日、たまたま貴ブログ「喫茶輪 コーヒーカップの耳」を拝見しましたところ、昨年11月に拙作「大空高く凧揚げて」をご紹介いただいていたことを知りました。(以下略)》
ということなのでした。
そのあとも文が続いて丁寧なお便りである。
ご指摘の拙ブログ。→
「大空高く凧揚げて」
この詩「大空高く凧揚げて」は、お贈りいただいた詩集『三日月をけずる』の巻頭を飾るものでした。
全文読ませていただきましたが、思いのほか言葉が多く、詩とすればもう少し削った方がいいのでは?とわたしは勝手な感想を持ちました。
しかし、これはこれで「読ませる詩」だとも思いました。
そして、詩集、全部読ませて頂きましたが、たしかにこれは詩としては「書きすぎでは?」と思わぬことがないのですが、
やはりなぜか「読ませる」のでした。飽きないのです。
わたしに元々散文志向があるからかもしれませんが、読んでいて楽しいのです。
特に、お母さんのことを書かれた作品は温かみがあって胸に沁みました。
年齢はわたしより10歳ほどもお若いのですが、子ども時代のことを書かれた作品には、わたしの体験と重なるものがあり、とても共感しました。
「千九百五十九年の釘の話」に出てくる、「ぺちゃんこの釘」なんてのはわたしも体験しました。大きな声では言えませんが、電車のレールの上に釘を置いて、電車に轢かせてぺしゃんこの釘を作り「手裏剣だ」と言って遊んだこと。また「釘刺し」という遊びも隣の地蔵さんの境内でよくしました。ここに書かれているよりわたしたちはもっと複雑なるルールでやったことも思い出しました。そして「字隠し」はすっかり忘れていましたが、これもたしかにやりました。懐かしい懐かしい思い出です。よくぞ思い出させてくださった、という感じです。
ほかにいくつかの散文体の作品もあり、どうもこの人は、散文を書かれた方がいいのでは?という感想を持たされました。
これはわたしの勝手な読みかもしれませんが。
この詩集については先に
「座布団の行方」と題してちょっと書いています。
思いがけない人から、思いがけない詩集をお贈りいただき、楽しませて頂きました。
服部さん、ありがとうございました。