御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

須原一秀「<現代の全体>をとらえる一番大きくて簡単な枠組」

2009-12-26 21:57:54 | 書評
今年はかなり精力的に読書が進んだ年であり、またわりと問題意識も系統だっていたのでそれなりの進展はあったといえよう。現代芸術、村上春樹、現代思想などなどにつきある程度の水準の見解を持つことができた。しかしその一方で飽きたというか、どうしても知りたいと思う気分も薄まり読書の限界生産性が落ち気味であった。それでしばらくは読まずにぼんやり考えたり、声楽の訓練を受けたりしようかと思ってた。

その気分は今でも変わらないのだが、この本はぐっと来た。須原氏は分析哲学・科学哲学から哲学に入り、「止むにやまれない探求に最終回答を」出そうとし、それが見出せずその他の方面も探求したが求めるものはなかった。うん、僭越ながらここまでは自分とそっくりだ。そして、氏は堂々と「哲学溺死宣言」をした上で「自覚なき肯定主義」の現代を「明るい消極的理想主義」で堂々と駆け抜けろ!といっているように思われた。

これはとりあえずの書き込み。氏の他の本とあわせもう少し読みこんでみる。

なお、平岡正宗さんが描く表紙絵と裏表紙絵は秀逸。田村隆一の「腐刻画」を思わせる。

藤堂志津子「秋の猫」ほか短編

2009-12-23 17:51:51 | 書評
小谷野氏が結構絶賛していたので買ってみた。といっても氏が直接言及していた長編ではなく短編集。藤堂さんの本は意外に店頭に並んでいない。不人気?
ともあれ、この短編集はすべて30台以降の女性を主人公とし、またすべてがペットがらみ、そして男がらみである。

表題作は柴田錬三郎賞をもらったというがそれほどのものか? いや悪くはない。まあだらしない男を見放して結婚をあきらめた30台の女性が飼い猫との生活に充実を見出す、という話。強がりでなくもともとの理想をあきらめて別の幸せな境地に達する、というのはまあ普遍的なことなんだろうな。それがまあたくましい女性の観点から描かれている。
「幸運の犬」は、だんなと犬の「親権」を争い、だまくらかして犬を連れて逃亡する話。慰謝料を5千万円と吹っかけてもぎ取るとかだまくらかしかた、逃亡先の設定の仕方などなかなかリアルでいいね。
「ドルフィン・ハウス」はさえないアパートの管理人に接近して結婚をもくろむ女の話。愛情というより打算づくで「この辺で手を打つか」と露骨に考えている。まあそれもありかなあ。
「病む犬」と「公園まで」もそういう打算とか生活臭が結構強くというかあっけらかんと漂っているのだが、どちらもいい形で男と結ばれ最後には深い感情的な交流を果たしている分、より救いがあるかなあ。

「病む犬」でちょっと感動的な記述。
「・・・思惑とおりに私は津山と結婚した。津山はいい人だけれど、私は相変わらず彼を愛しているというほどではなかった。しかし結婚にはそうした、あいまいな甘ったるさは、さほど必要ではなく・・・」
という、実に醒めた、しかし正しい認識が披露される。ところが、その直後の第一子出産の所では
「「マシューのことは、お父さんも大好きだけど、人間の子供も、なんてかわいいもんなんだろうね、マシュー。マシューの弟だよ」 夫のその言葉を聴いた瞬間、私の胸のうちに、夫への感謝と謝罪の気持ちが湯水のようにわいてきた。 気がつくと、暖かな涙をこぼしていた。」
と、その夫への感謝が素直にあふれ出ている。しゃれた会話もなくドラマチックな出来事もなく、普通の男女が打算込みで結婚する、というおそらく多くの夫婦のありかたの中で相手へのあふれ出る感情が吐露される。これはなかなかすばらしいではないかい、と思ったね。

もうちょっと読んでみるか。

小谷野 敦 「反=文藝評論」

2009-12-20 15:38:10 | 書評
えーと、毎度おなじみ小谷野氏の評論集。一番最後の章が「『ノルウェイの森』を徹底批判する」である。
「私が春樹を容認できない理由はたった一つ。美人ばかり、あるいは主人公好みの女ばかり出てきて、それが簡単に主人公と「寝て」くれて、かつ二十代の間に「何人かの女の子と寝た」なぞと言うやつに、どうして感情移入ができるか、という、これに尽きるのである。」
という一節がよく引用される。まあいかにも「もてない男」の著者らしいといえばそのとおりだが、安易と言えば安易な連想で、小谷野は「ただ」のもてない男ではないという思いもあり買ってみた。

そしたら、まあ驚き。前に書いたとおり、氏のひねくれ方と言うか方向性が自分のそれとかなり似ているのだが、今回もそういう点が多くあった。極めつけは、僕が昨日「蛍」について、
「なんだが漱石以来の高等遊民(=生活が楽なので悩みでもないことを悩みにする人たち)の系列だねえ、こりゃあ。「ノルウェイ」が自伝的、ということはもしかしたら春樹氏は死んだ親友の恋人と寝たのかもしれない。そのことへの反省・反芻がこういう作品になったのか。かっこつけてるが自己弁護臭は強いなあ。」

と書いたが、なんと非常に趣旨が似たことが書いてあった。もちろん文脈は厚く射程ははるかに遠い。

「だが、真に村上春樹を「否定」するためには、近代文学のキャノンを否定しなければならないのだ。例えば森鴎外の「舞姫」や夏目漱石の「それから」「こころ」は、春樹の先祖たちである。女を妊娠させて捨てて狂気させた、ああ俺は罪深い、とか、親友の恋する女を奪ったために親友は自殺した、だから親の遺産があるのをいいことに働きもせず罪悪感を抱えて生きています、勝手に死にます、とかいう小説どもだ。」

こういわれちゃうと喪失も孤独もあったもんじゃあないなあ。暇人のメランコリー、ってところか。でも、これは正しい見方だろう。まあ舞姫では男は女ゆえに恋ゆえにかなりつらい立場になっていたし、その立場から救われるとしても女を捨てなければならないことに大いに悩み、悩みと己の気持ちの醜さへの反省から雪中をさまよい死にかけてはいる。要はかなり良心的で泥臭いので多少は共感は持てぬわけではない。その一方で漱石の方はここにあるとおりだな。反省しているんだったら、なびいた女と一緒に親友の墓の前で心中でもしろよ、と読んでていいたくなるようなところは何度もあったね。

ということで。そのほかにも面白い論議多数。ただし村上論も含め作品論であると同時に評論論でもあり、その点では文藝評論家を初めとする評論家の動きを知らねば十分消化はできない。

「蛍・納屋を焼く・その他の短編」村上春樹

2009-12-19 08:14:02 | 書評
「蛍」という短編が「ノルウェイ」の元となっているとの話を聞き、注文してみた。「蛍」「納屋を焼く」「踊る小人」「めくらやなぎと眠る女」「三つのドイツ幻想」が収められている。
年代でいえば1982年から84年の作品で、エポックメイキングな「世界の終り・・」と「ノルウェイ」の少し前だ。

さて「蛍」。これはノルウェイの前半にきれいに対応する、というかほぼそのものだ。ただし短編だけにしゃれた会話だの井戸の暗喩などが出てこない。その分なにやら構造というか心情がすっきりと出ている気がした。死んだ友達の恋人が異常に饒舌にあれこれを語った、「僕」はそれに付き合っていたが遂に帰るつもりになった、すると彼女の半日に渡る饒舌はとまり今度は泣き止まなくなった。その夜彼女と寝た、その彼女は初めてだった、なぜ恋人とはなかったのかと聞いたがそれは聞いてはいけないことだったようだ。彼女は沈黙の中に入る。それで僕は翌朝あきらめて書置きをして去る。その後しばらくして彼女から精神病の療養所に入るとの連絡があった。そのあと蛍を放す場面が、村上らしい多義性・象徴性を含む形で記述される。

で、なんだか「ノルウェイ」の正体が判った気がする。これ、率直に言っていい加減なやつのアンニュイな(格好をつけた)自己正当化に過ぎないんじゃないかな。死んだ親友の彼女と寝ちゃいかんよ。それに寝た後の処し方もずいぶん冷たい気がするなあ。寝たあと、いくら相手が心を閉ざしているからと言って(時間的には付き合ったものの)さして言葉もなく去る。なんか情がないよね。

それだけじゃなくてご丁寧に「いろんなことがよくわからん」などというふざけた手紙を出している。相手が精神的な窮地にいるのにこれはなんだ。いささか適切でない、自己中心で甘えた行動である。こういうときは「強者」は凡庸なるものとして振る舞い、むしろ相手に自分を馬鹿にさせることで相手に一種の救いをもたらすべきなのである。凡庸な励ましを(嫌がられても)したりしてもがいて突破口を開こうとしたり、また手紙を書くなら凡庸な手紙を書いて馬鹿にされるべきなんだ。傷口に傷口をあわせてはならず、傷口には凡庸さというガーゼを当てるべきだ。自己中心でなければ考え付くことだと思うんだがなあ。

なんだが漱石以来の高等遊民(=生活が楽なので悩みでもないことを悩みにする人たち)の系列だねえ、こりゃあ。「ノルウェイ」が自伝的、ということはもしかしたら春樹氏は死んだ親友の恋人と寝たのかもしれない。そのことへの反省・反芻がこういう作品になったのか。かっこつけてるが自己弁護臭は強いなあ。

その他の短編。短編のせいか音楽や本の趣味を衒学的に示すことなく進んでいるので長編の気障さ、いやらしさはないな。そのせいか空気は春樹風というよりも安部公房風だったね。なんとはない不条理劇。笑ったのは「踊る小人」で主人公が美人をナンパして断られたりしてたこと(そこで小人に助けられる)。春樹様の小説では主人公には女のほうから寄ってきて、そもそもナンパはしない(ノルウェーではゲームでやってるが)。そういう中でナンパに苦労してるってのは面白いね、ハハ。

ドイツもの三作はわけがわからない。

注)その後「ノルウェイ」の直子(=「蛍」の彼女)は統合失調症の疎通性障害である、との指摘をしたブログを発見した。ああ、そうか、なるほど。統合失調症ならなんだか身に覚えがあるなあ。だからなんとなくハルキ様から離れにくいんだなあ、と妙に納得。
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-629.html

村上春樹は難しい

2009-12-12 15:30:23 | 書評
4月ぐらいから「村上春樹マイブーム」があった。今度こそは何とか、と思い「世界の終りと・・」などをかなりじっくり読んだ。以前に集中して読んだときよりはかなり理解や納得も進んだようには思う。しかし最後まで肉薄できなかったかなあ。残念ながら。

それを説明するのに加藤弘一氏の下の解説をベースに論じてみよう。加藤氏の解説は思想とかほかの小説家や評論などの引用を振り回したりすることなく、村上の小説そのものをじっくり読みこれを解題している。その意味でわかりやすくまた素直な論議であり、腑に落ちる点も多い。
http://www.horagai.com/www/txt/haruki2.htm
http://www.horagai.com/www/txt/haruki1.htm

ただ、悲しいことにこれを見て再び小説を読むと、加藤氏の描くようなコントラストがはっきりした造形が決して僕には読み取れない。「ノルウェイ」の場合で言えば、こんな具合(><は加藤氏の論)。

>永沢の高いプライド、克己心、漁色は現実への過剰適応であり、内部は荒涼としている。<
なるほど。そう言われると永沢みたいな嫌味なやつが登場している意味がよくわかる。でもですね、加藤氏はこれを、人生すべてをゲームとみなすがごとき永沢の発言から導出している。しかし、そりゃ乗りでそう言うこともあろうし、その時点で永沢が自分のことをどこまでわかっているのかもいかがなものか。学生の自己規定なんてろくにアテに出来ない、とおもうけどなあ。

>ワタナベの直子に対する加害性。緑とのデートを逐一報告することで致命的に加害的<
それで直子は悪化していったというのだが、これはそう読めるのかなあ? 直子だってワタナベと友達でいたいのか恋人になりたいのかはっきりしてないしなあ。そもそも離れているからそのへんの機微はわかりにくい。たまに行ったとき手でワタナベを慰めてくれるということが彼女の愛の表現? いや死んだキズキの友達であるほうがよい? でも直子はもともと異界の住人だったしなあ。何が出来るってんだ?

>それでレイコを形代に和解の儀式を演ずる<
これは加藤さん以外の人もそういう指摘をしている人は多い。しかし僕は納得しないなあ。直子が死ぬ前に服はレイコさんに、と書き残したことと、レイコがワタナベを訪ねてきて結果として性交したことが繫がって、これが和解の儀式、って言うことらしいけど、それじゃあ安手の刑事ドラマみたいだよね。あるいは生じてしまった偶然の出来事にあと付けで解釈を加えているというべきか。

えっと、まだ何点かあるがここまで書いてきてわかったことがある。加藤氏のようなしっかりした読み方をする人は、村上の発する微弱なシグナルをある種増幅してコントラストの強い像に焼きなおす。で、僕が乗り切れないのは、そうした増幅がやや安っぽいことに思われ、判断留保をしてしまうのだろう。

微弱なシグナルややさしいヒネリから、独断と偏見と割り切りでどう解釈を立ちあげるのか、ということが村上世界を理解するコツなんだろうなあ(その意味では「世界の終り・・」はわりと陽表的要素が多いかな)。そういうのって、現代美術を見ているような話で、興味をもって、あるいは理解しようとして眺めているときは作品ごとの微差やヒネリに興味そそられるが、一歩建物をでてしまうと微差は微差、多くはさして印象を残すほどのものでなし。僕にとっては、あるいは僕は、まだその程度だな。とりわけノルウェイは。ともあれ、まもなく届く「蛍」(ノルウェイの元となった短編)を含む短編集で今回は締め。次のマイブームはいつのことになりますやら(笑)。

さすがは小宮先生

2009-12-10 07:02:33 | 書評
昨日小宮・岩田の「企業金融の理論」を読み直す機会があった。僕は昭和53年発行の第3版第2刷を買っている。その頃は学生だが関心は厚生経済学にあったので、おそらく会社に入って株式部に配属されてからじゃなかろうか。
それで読んでみると、もちろん復習であるせいもあるが、なんとも簡潔にしてテンポがよくわかりやすく、しかしこびることのない記述に感心した。最近ご議論を目にすることはないが、さすがは小宮先生である。

ついでに言えば、物言いもとても明確で剛直だ。序章では資本コストを巡る日本の現状の問題を指摘するが、その一方で安易に「欧米では」とカサにかかるわけではなく、「これまでに企業金融の理論の本格的な発展が見られた唯一の国であるアメリカ」との指摘で米国のみが日本以外で本格的理論の発展を見た国であることを言い、しかしながらその米国でも伝統理論派とモジリアーニミラー派の間で15年にもわたって感情的なものを含んだ論争が繰り広げられて話が相当にこんがらがっている、と指摘している。また論議好きの小宮先生らしく「企業金融に関する通俗的観念」なる一章を設け、株主、経営者、証券関係者、行政当局などにはびこる誤った俗説をいちいち取り上げて論破している。これもとても歯切れがよい。ひとつ引用すると、「株主の被害妄想」と題した節で、「ある企業の収益率が低すぎると思うのであれば、他の企業の株式に乗り換えることもできるし、さらに株式を売却して社債なり定期預金に乗り換えればよいのである。株式投資は大いに得をするときもあるが損をするときもある。損をしたときのことばかりが脳裏にしみこんで上記のような「被害妄想」に陥るような人は、株式投資はしないほうがよいのである。」とばっさり。

なんとも剛直で筋の通った、誰にもこびずしかしおごらぬ態度はすばらしいねえ。これで思うこと二つ。東大はマル経ばかりだと思って避けたんだが、もし行って小宮ゼミとか根岸ゼミに入っていたらどうだったかなあ? 著名だがやる気のない先生についた僕の大学時代よりはおそらくよほど充実していただろうな。それから、これは思い出だけど、この本を読んでMM理論を知った後に増資還元ルール(と言うか要望)のお守りをした。増資金額相当額を増配で還元することを求めるという、資本コストもへったくれもない相当幼稚な話。職場の上司たちはそのことを理解したうえでルールの存在を政治的に是認しているのかと思ったがそうではなかったのでいささか唖然とした。それでも「仕事」って一応できちゃってたんだよねえ。。。当時は。いや、今でもか(笑)。

そういえばカタストロフィ理論って最近聞かないね

2009-12-07 06:17:57 | 時評・論評
直前に、ナイトの不確実性を振り回すやからを批判したが、考えてみると昔もうちょっとましなカタストロフィの理論、ってのがあった気がする。と思ってWikiをみたら以下のとおり
「カタストロフィー理論(または、カタストロフ理論、Catastrophe theory)は、力学系の分岐理論の一種を扱う理論。不連続な現象を説明する、画期的な理論として一時注目をあび、さかんに研究、議論された。」
うん、もはや過去形だ。さびれた感じ。70年代から80年代あたりの流行のようだ。ぼくも確かサイエンス社の本を買った記憶がある。

さて、このカタストロフィの理論を使ったリーマンショックの説明がそういえばさっぱりないなあ。アンチ正規分布の親玉タレブもカタストロフィは触れていないし。でも、「人間行動や経済現象の本質的な要素は変わらないのだが、それを市場証券価格に換算する関数が変形し、大きな崩落につながった」といった解説は随分リーズナブルなんだがなあ。

例えば、おわんの中で行ったりきたりしているビー玉があるとする。ビー玉の動因は人間の行動でありファンダメンタルであるとする。高さを証券価格であるとしよう。行ったりきたりして平和に暮らしていたのだが、おわんが傾いた、あるいは変形してふちの高さが低くなったりすると、ぽんと飛び出してビー玉は暴落する。そんなイメージである。

まあこれは例だが。昔は対象の現象を理解するのに①根本の動因と②それを対象の現象に変換するメカニズム につき頭を悩ませたものである。それこそが経済を構造的に理解すると言うことであった。それがマネタリズムや合理的期待以降、なんだか時系列解析みたいなことになったり先見的・超人的予見力を経済主体に持たせたりして、経済主体の行動や相互関係に関する地道なエンジニアリング的積み上げを馬鹿にするようになった。たぶんそのせいで知性が退化したんだろう。あれだけ研究の対象になりそうな事件があったのにナイトナイトと振り回すバカどもが跋扈するんだもんなあ。フリードマンの大罪はここにもありだな。

9日追記:ビー玉がだんだん大きく重くなった、と言うのはいい記述かもしれないな。経済の諸制度の枠組みの中で動いていたビー玉が、重く大きくなって茶碗と言う諸制度を軋ませるようになり、遂には茶碗を倒して外にでてしまった、と言うのは面白いのでは? このアイデアあげるから誰か煮詰めてちょうだいな!


ナイトの不確実性 -あんまり振り回さぬほうがいいいっすよ

2009-12-06 22:33:59 | 時評・論評
ナイトの不確実性、ということを持ち出す人が多い。まあ昨年の金融危機におったまげて確率事象からはみ出たことが生じ、それを論議したのはそういえばナイトだ、ということで持ち出されるようだ。まずは定義とか論じられ方を見ておく。

Wikipediaより
「このタイプの最大の特徴は、第1や第2のタイプと異なり、確率形成の基礎となるべき状態の特定と分類が不可能なことである。さらに、推定の基礎となる状況が1回限りで特異であり、大数の法則が成立しない。ナイトは推定の良き例証として企業の意思決定を挙げている。企業が直面する不確定状況は、数学的な先験的確率でもなく、経験的な統計的確率でもない、先験的にも統計的にも確率を与えることができない推定であると主張した。」

池田信夫Blogより
「ブラック=ショールズ公式でもわかるように、正規分布になっているようなリスクは、オプションや保険などの金融商品で(理論的には完全に)ヘッジできる。しかしナイトのいう不確実性は、そもそもそういう分布関数の存在しない突発的なショックである。それは誰も予想できないがゆえに社会に大きなインパクトを与え、危機管理を困難にすると同時に、企業の利潤機会ともなる。」

で、こう言う論議でいつも不満なのだが、通常の統計量であれば(ウィキペディアの言う第一、第二)不確実性がぐっと減るとか、ヘッジ可能とか随分無邪気に言っていることである。それから、サンプルが圧倒的に不足しているということも考慮にのぼらない。
まず後者からいえば、いまのような金融市場が出来たのはせいぜいここ50年ぐらい、資本移動の自由化が進んできた世の中、ということでは20年ぐらいのものではなかろうか。そういう世界でサンプルが不足しているのは全く否定は出来ない。あっさりナイトナイトといわず、統計量の不足を論じたり、あるいは別の読み方でアジアの金融危機などもクライシスに勘定するなどの工夫があってもよいのではないだろうか? なにやら知的な怠惰を感じさせる話である。
前者についても知的怠惰感は否めない。単純とされる統計量であるさいころだって、1回限りだとどういう結末があるかわかったものではない。ロシアンルーレットを想像すればわかるように、統計的処理とかヘッジができた話じゃあない。見る立場と捉え方によれば何でも不確実なものは不確実なんである。ベルカーブ現象であっても致命的なことは生じうるわけだ。その辺しっかりと考察した上でやってほしいねえ。それもしっかりやらずナイトナイトと軽々しく言っちゃあいけない。

ということで。ナイトナイトと軽々しく言う人はそれだけ軽薄、という意味においてナイトの不確実性は役に立つ指標だと思う(笑)。

大航海vol.71「ニヒリズムの現在」

2009-12-05 15:31:21 | 書評
あーあ、これを最後に大航海は休刊となった。思想なき時代に羅針盤も探検もないぞ、ということなのかな。
それにふさわしく最後の特集は「ニヒリズムの現在」である。面白かったのは現代芸術特集の前号と何やら通底するものが感じられたことである。現代芸術も思想も、はたまた我々の日常も大きな価値・外から与えられる価値なしの中でのもがきなのか。これをまとめるのはかなりしんどい。とりあえず半分ぐらいの論考に言及しておく。

(佐伯、松原)
経済学者2人の話はともに面白くない。思想的パースペクティブが短くなるし、ほかの思想の世界ではあんまり面白くもないナイトの不確実性なんて話が有難く語られたりするわけだしね。
それと、最近の金融危機を何らかの象徴にしようとする、というか象徴にせよという期待に応えようとするところも無理があるかなあ。むかしっからブームとバーストは資本主義の運命だからね、今回に限ったことでなく以前からあるわけで。むしろどういう経済体制を選ぶか、社会主義の実験に失敗したいま、ニヒリズム・価値多様化の現在に適応する経済体制とはなにか、あるいは現在の体制が人々の倫理観や知性・認識にどう影響しているかを論じたほうが面白いと思うがなあ。しょせん思想・歴史の分野では経済学者は素人ってことのように見えたなあ、僕には。

(ザ・スタティーズ・オブ・ザ・グローバルニヒリズム: 古田博司)
「ありもしない理想主義がその価値を喪失することという、ごく一般的なニヒリズム解釈をもってすれば、現在の先進国において、人々のニヒリズムへの覚醒の広がりには日々目を見張るものがある」
うん、いいまとめだ。簡単なようでいて鋭い。特に「ありもしない理想主義」という言い方。この部分で普通は些かの躊躇いがあるのが普通だがここではばっさり。それは、
「経験科学・実証研究の進歩→冷戦構造の崩壊→インターネットの拡大→グローバリゼーションの進展」
でおきた。要はキリスト教と同じで、知識の蓄積が知識を笠の下に収めていたメタ概念を破壊したということだ。 ま、作業仮説が壊れるようなものである。ところで日本では科学・研究の結果は2000年になってからだって。そういえば知識人がペシミズム・ニヒリズムを語り始めたのはかなり遅い印象があるね。
古田氏によると、メタ物語がなくなると実証のための事実収集に恐ろしく手間がかかるそうな。まあ権威ある話がなくなったからねえ。そうやってメタ物語がない中で実証主義をこつこつとやるのだがそれも大変なばかり。それに実証過程での思い込みは不可避で、けっきょく思い込みが残存する。
さて、そのあとのグローバリゼーションだが、要は資本主義が各国に広がった。でも民主主義はやってる国があったりやっていない国があったりする。民主主義をやっていない資本主義国の元気が良い(ロシア、中国、インド)。もちろん資本主義もうまく行かない国だってある。
こうして世界は資本の論理も貫徹しないし、民主主義も中途半端にしか広がらないだらりとした世界になった。アメリカの衰退は多極化ではなく無極化をもたらした。「いい加減な資本主義」がはびこった。
インターネットの広がりは悪意なき誤記・誤謬の情報を増幅、悪意ある嫉妬や憎悪を広めた。便利にして有害な情報の氾濫である。こうした中で人々の道徳を論じる気力は磨耗して行く。また既存メディアはネット上の言説に対し差別化を図るべく、傲慢にも精度の低い奇麗事を流す。そうしてゆっくり落ちぶれてゆく。
このような中、旧倫理にかわり有用性が新道徳として登場して来ている。
「もしかすると、哲学や倫理学、それ自体がいまや残照となっているかもしれない。今を生きるのに、哲学や倫理学がいるだろうか。恐らくは、要るまい。」

(栗原裕一郎「ゼロ年代の想像力・・・」)
これは宇野某などの言説に対する反論のようであまり感心なし。

(「ポストモダン・ニヒリズムとは何か」仲正昌樹
ボートりヤール「近代性という19世紀の真の革命、それは、仮象=見せ掛けのラディカルな破壊であり、世界を脱呪術化し、解釈と歴史の暴力にゆだねることなのだ。」「第二の革命、つまり20世紀の革命である脱・近代性の革命は、意味の破壊の巨大なプロセスであり、それ以前の仮象=外観の破壊に匹敵する。」
ということで19世紀に神から自由になった人間は自らが依拠する価値を見出さねばならず、それが重荷となり、あるいは何もないことがわかり、第二の革命が生じた。自由意志も突き詰めれば何のことやら輪郭がわからなくなる。自らの意思によって諸価値を創造しているつもりでも、その"私の意志"自体は"私の意志"によって生み出されたわけではない。ニーチェは、それがたとえ物理的因果によりプログラム的に「意志」させられられているだけであっても、その矛盾に耐えて現在のあるがままの自分を肯定しようとして「永久回帰」を持ち出した。しかし客観的にはこれは負け惜しみである。
第二の革命は「人間」を価値の源泉として浮上させたことにより、人間自身の中心にブラックホールのような(空虚な)深遠が開いているかもしれないことがわかった、ということである。ニーチェはこのことの哲学的表現者だが、
「二十世紀の芸術や美学、あるいはそれらと結びついた政治は、「意味」の根源が実は空洞になっていることを暗示する、自己暴露=意味破壊的な表象形式を志向する様になった。シュルレアリスムやダダイズムに見られるそうした・・・」
論議は転じてニヒリズムの変質に行き着く。論議を簡略して言うと、次のボードリヤールのまとめで象徴される。
「ニヒリズムは歴史的にみても、かつては活動的で暴力的な幻、神話と光景だったが、いまや諸事物の透明な機能性の中に移行したのである。」
で、そういうニヒリズムをどうするか、ということだが、まあ見つめ続けよう、強引に新たな価値の源泉を探すのではなく、ということだそうだ。ま、妥当なところかな。かなり勉強になる論考である。

(「ニヒリズムという前提」貫 成人)
いろいろ勉強になるのだが、ざくっと最後のところでまとまっている。
「ニヒリズムは、現行の「価値」「真理」「実態」がいかなる事実的諸構造から生まれたか、そのメカニズム、「原因」を明らかにし、「自然史」における諸価値の実体化や神話化、あるいは「本質主義」を防止する。「人格」「自我」「自由」といった語によって陥りがちな思考停止を回避し、偽りの実態を形成する流動的構造を直視するための装置がニヒリズムなのであり、それは、既存の視線とは異なる焦点深度、異なる思考回路を見出すための前提なのである。」
と書いてみると、なんだこれって健全なダダじゃん、僕の基本的方向性じゃん、尊敬するファイヤベントそのものじゃん、って思うね。僕はこれからニヒリストを名乗ろうw。

(「夭逝者たちのニヒリズム」石井洋二郎)
人生不可解、と華厳の滝から飛び降りた藤村操、「20才のエチュード」を残した原口統三、並びに才女長沢延子の3名が語られている。
藤村に関しては世界の意味を理解することが人生の意味を理解することと同義である、との観念に縛られ、世界不可解ならば生きる価値なし、といってしまっている。実はこれは僕にもおぼえのある世界。30ぐらいまでは世界の意味と自分の存在の意味は結びついていた。徐々にわかるのは、意味が分んなくても生きていくぶんには支障がない、ということw。そうなんだよなあ。
原口はニーチェに心酔しつつ「こいつ威張りすぎ、強がっている」「永久回帰で宿命を受け入れるとかがたがたいってないではよ死ね」と、本質的にはいっているようだね。これは実に尤も。で、彼は死んだ。
長沢は「ニヒルの明るさ」を語る。光の不在ではなく「世界を分節するもろもろの差異を見えなくさせてしまうまでに拡散した光の過剰」。これは実は僕は見たことがある心象風景だ。それも確かに「ニヒル」として。なにやら空しい気分とともにイメージした記憶がある。なお、このイメージは上で仲正が引用するボードリヤールの(ポスト・モダン)ニヒリズムと似たイメージをもつ。




江副浩正「リクルート事件・江副浩正の真実」

2009-12-03 06:55:57 | 書評
佐藤優氏を初め様々な本で聞かされていたことだが、話が警察、検察、マスコミ及び裁判所、弁護士さらに事件関係者に絞って簡潔にまとめられているため、かなり構図が明確だ。それと、佐藤氏の本で記述された検事は「木っ端役人ではあるが高潔」でそれなりの品位があったが、この本での特捜検事どもは、脅しすかし泣き落としはもちろんのこと、「打ち上げ会に早く行きたいから調書に署名しろ」などというあきれ果てたことまで言う。語るに落ちるとはことことだ。こんな連中に高給払ってんだからね、税金で。給与半減してやれよ、ほんまに。

ともあれ、特捜検事どもは事件を捏造する。そのためには捏造調書を作り関係者のつじつまを合わせる。署名に同意しない場合は人質司法と密室のメリットを最大限使い精神的に追い詰める。強烈な人権侵害である。ロッキード以来世間で英雄のように扱われる吉永は英雄どころかこの人権侵害の親玉である。多分見識ある政治家と見られた後藤田もそうだ。恐らくマスコミとの付き合いでこの虚像は出来ている。彼らは、本来は栄光に包まれてもしかるべきまた更に社会に役に立ってもらってしかるべき人々を傷つけ墜落させる嫉妬深い悪魔である。造船疑獄以来この構図は変わらない。あるいは権力を背景にひとりよがりの正義を振りかざす点、旧日本軍陸軍の参謀本部と変わらない。強引であり国内無敵だが海外にでるとめちゃくちゃひどい作戦でやられてしまう。

江副さんの本でかなりしみじみと(類書以上に)わかった点は、裁判官の情けなさである。というのは、法廷でのやりとりで調書作成の強引さや検察ストーリーの矛盾などは相当明らかなのに(これはこの本の特色)、それでも捏造を疑わず?ものともせず?有罪を出す。取調べの強引さなどを正面から非難した地裁判決もあったりしてこれはすばらしいが(というより常識的にそうである)、同じ証拠で高裁で有罪にひっくり返る情けなさ。 加えて江副さんは株売却益への不当な課税をされてそれで国を訴えたがこれも理不尽な判決で25億ぐらいを不当にもって行かれている。裁判官よ、お前ら一体何を見てるんだ? 頭悪いんじゃないの? それ以前に常識ないんじゃないの?といいたくなるね。判決をいちいち第三者機関がチェックして点数出して、ひどいやつは法曹資格剥奪して裁判所を放り出そう。

裁判員制度は結構なこと。もっともっと範囲を広げて、こういう国策捜査系も裁判員裁判の対象にすべきだね。政治的には難しいとマスコミは騒ぐだろうが、半ばは彼らと検察のタッグがばれるからだろう。それから、取調べの全面可視化は急ぐべし。こんなことをしてるわけだから問答無用だね。ともかく、外の風を入れないとここまで濁ってしまった司法はまともになるまい。しっかし、マスコミの報道記者たちはえらそうなことを言いながら一体何をやってきたんだ?