御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

公開組織と閉鎖組織

2007-05-16 08:39:35 | 時評・論評
ちょっとした思い付き。
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あなたが全員の顔を覚えられるぐらいの規模の会社あるいはチームのボスであるとして、ひとりの人間に褒賞を与えることになった。
候補は二人。A氏は最も優秀でかつ控えめ。褒賞を与えると「身に余る光栄」と本気で辞退しかねない。褒賞がなくても表立った文句は絶対に言わないと予想される。
B氏はA氏に次ぐ優秀な職員。だが自己主張はかなり強く、今回褒賞は自分のものだと思っている。褒賞を与えなければひと騒動するかもしれない。
さて、あなたはどうするか?
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ビジネスゲームではこんな設問が良くあるが、実は背景・文脈の話が大幅に欠けていて論議はまさにそれを補うことに費やされる。それが出すほうの意図なのかどうかよくわからんが。。。

それはさておき、まさに背景・文脈次第である。

(1)公正の観点から
・A氏にやるのが自然に見える。
・しかし、褒賞の大きさと相対的優秀さの度合いは釣り合っているか?また、褒賞が出ることは事前に期待された・開示されたのか?といったバランスの公正、ゲームとしての公正などはチェックが必要。

(2)組織維持・活性化の観点から
・B氏にやって騒ぎを抑える、というのが当面の策に見える。
・一方でB氏にやったのでは優秀さではなく自己主張の強さが報いられる、ということになり、他のチーム員は業績を挙げることよりも自己主張を磨くことにいそしむだろう、との考えも正論である。また、社外市場が発達していればA氏は辞めてしまうかもしれない。この場合は公正と組織活性化は一致する(公正であれば組織は活性化する)。
・ただし、A氏が暗く存在感のない人で、B氏がその逆、ということなら話は違うかもしれない。B氏にやったほうが人々は喜び元気になるかも知れない。

などなどつらつら考えていたのだが、(2)の論議をする中で、組織の中の公正の扱いにおいて状況が大きく影響するなあ、とは思った。判断者が家長で、AとBが兄弟だったらどうなのかなあ。どっちにしてもいいんじゃないかな、それで兄弟の性格や行動が変わるわけじゃないし、他の兄弟姉妹にそれほど影響があると思われない。要は濃密な関係の中では1回の褒賞が関係に影響を与える度合いは少ない、ということかな。Aに「わかってくれ、今回は」と目で語ってBにやっても良し、Aに与えた後Bと改めて話して少々説教をたれるも良し。 なんか考えがあってのこと、と理解してくれるんだよね、家族だと。

要は閉鎖組織だと公正というのはかなりの幅を持って考えることが出来る。公開組織はそうは行かない。ま、考えて見れば当たり前だね。決定者をよぉく知っている少数の人々には懐の深さがあるが、決定者を知らない多数の人々の参照体系は一般的な正しさだからな。

ふむ。もうちょっと。練りが足りなかったな。

「50年前の憲法大論争」保坂正康監修

2007-05-12 08:06:30 | 書評
昭和31年3月16日の「第二十四回国会 衆議院内閣委員会公聴会」の記録。
公述人3人とその主張の大雑把なまとめは下記。

神川彦松:改憲派。日本国憲法はマッカーサー憲法であり押し付けられたものだ。

中村哲:護憲派。よい憲法であり手続き的にも正当性がある。

戒能通孝:手続き論派。憲法調査会を内閣に置くのはおかしい。内閣には憲法への批判権はない。改正は国民でありその代表の国会の純粋な発議によるべし。

保坂は低く見ていたが僕は戒能氏の手続き論は重要だと思う。それは憲法の正当性判断においても言えることだ。

技術的手続き論とは些か違うかもしれないが、そもそも占領下で可決された憲法はいかによいモノであれ正当性には大いに疑義がある。そういう意味からすると現在の改憲・護憲論議は2段階が必要なのだと思う。まずは決をとることに決めるかどうか、ということ。外交的配慮も必要だからむつかしい点はあるが、ともあれ占領下の決定、ということを不当な出自と見るかどうかを決める必要がある。
不当な出自、ということであれば、現行憲法維持も含めた選択肢をいくつかまとめて決をとる、ということだ。この発想は戒能氏の論議に触発されたものである。内容の良しあしと手続きの正当・不当は別物である。

さて、質問者には石橋とか飛鳥田とか、絶滅種全盛期の人々がいたりして面白かった。なかでも辻正信がいたのにはおどろいた。ろくでもないやつ、と思っていたが中村公述人の戦中と戦後の主張の矛盾を丁寧に突いて、その時点の権力におもねる中村のあり方を浮き彫りにしていた。なかなか効果のある論議である。

僕の感想からすると、中村は変節漢だし神川は少し入り込み過ぎてやや思い込みが強すぎる。碩学、といってもたいしたことはないんだなあ、という気がした。憲法問題というきわめて政治的なエリアで学問をやっているとこの程度のことにしかならないのかなあ。