御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

天皇の責任、ということ (保坂、加藤などの戦争決定過程を記述した本を眺める)

2014-02-25 00:35:09 | 書評
保坂正康の「陸軍軍務局と日米開戦」を読んだ。まあなんとも短慮で被害者意識が強くまた子供のような思考の連鎖で戦争になってしまったものかい、とは思ったのだが、そうはいってもいろいろと事情はあったのだろうと思い関連するものをあたってみた。吉田裕「アジア・太平洋戦争」 NHK取材班「日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)」阿川など「二十世紀 日本の戦争」 猪瀬直樹「空気と戦争」 加藤陽子「それでも日本人は「戦争」を選んだ」などである。改めてこの方面の蔵書が多いのは少々驚く限りではある。小生の関心の絶えない部分である。

さて、いろいろ眺めて思ったのだが、確かにいろいろ事情はあったようだ。局所均衡的な思考の累積が戦争という誤った決定を下させたことになる。とまあ多くの本はそういっている。優秀な人々が優秀であるにもかかわらずその本分を過度に狭め部分的な陣取り合戦に精を出させたのは明治憲法の仕組みゆえらしい。そういう視野の狭い陣取りをやっていると、優秀な人々もハルノートのようなものがやってきたときははるかにレベルが上の出来事のように思い、例えばそれに肩透かしをくらわすとかとぼけるとかいった高等戦術を思いつかない、生真面目な木っ端役人になってしまう。ガキのごとく騒ぎまた被害者意識を持ち嘆く。相手を幻惑しようとか何かいっぱつかまそうとか、そういう精神は全く見えなくなってしまうわけだ。どうもそうだったみたいだ。

明治憲法の仕組みの話に戻る。「統帥権の独立」は有名だが、明治憲法下ではあらゆることが天皇のところで最終決断される形をとるわけであるから、大局は天皇にしか把握できずまた大局からの判断・実施も天皇からしか出来ない。このようなシステムならば天皇のスタッフが必要であり、それが恐らく明治の元勲たちであったが、元勲たちが死んでしまえばスタッフ不足の天皇は何も出来なかった、ということらしい。

しかし思うのだが、それはやや天皇に同情的に過ぎないか? 吉田の本が言っているように、天皇は国務大臣の輔弼に基づいて大権を行使すると言う点では「受動的君主」だったが、明治憲法下では天皇が自らの意思で大権を行使する「能動的君主」として立ち現れることを阻止することはできなかった。ここをはっきり指摘しているのは吉田の本だけである。もしそうであれば、天皇にはもともと英米協調を旨としてきた君主らしく陸海軍の暴走を止めて欲しかったし、開戦に至るにしてもより大局を考えたタイミングや戦う相手、戦線の規模などに積極的に関与してもらいたかったと思う。少なくとも最高意思決定者として最もよい選択をしたとはいえないのではないか。とりわけ、「全体の責任」を取れる人を天皇以外に設けていない明治憲法下では天皇の責任は(必要なときの権力の不行使も含め)重い、と思う。いろんな本でこのあたりはぼやかしている感じはするが、吉田の言うように天皇は能動的君主足りえたわけであり実際にそうでもあった局面もあるわけであるから、その判断が正しかったか、他も考ええたか、といったことを検討するのは大事なことではなかろうか。

なおこれはいわゆる「天皇の戦争責任」の話ではない。戦争責任というのは周知のとおり事後法であり問う意味はない。しかし天皇の「敗戦責任」の話ではある。天皇が大局から関与し、タコツボで歪んだ論理に縛られた陸軍、海軍、内閣をうまく導いていれば、よりよいいくさのあり方(あるいは外交のあり方)があったのではないか、ということである。


「帰ってきたヒトラー」 ティムール・ヴェルメシュ

2014-02-10 17:24:05 | 書評
ヒトラーが1945年に地下壕で自殺をしたあと現代で目覚め、50台半ばの、ヒトラーを真似たコメディアンとして世に受けられつつ次第に名声と人気を得て、ついには政界に乗り出そうかという気配まで漂わせたところで終わる。基本的にはコメディである。ヒトラーは1945年と同じく、まじめに国家のことを考えすべてに対応しようとする。ただ、もちろんいまは総統ではないことは理解しており、周囲の味方を増やして影響力を高めてゆこうとするまともな努力をしている。また自分が「眠っていた」65年間のドイツの歩みも十分学ぶ。
くそまじめなヒトラーの認識や言動が現代の人々に誤解されて受け止められながらそれはそれで何とか事態が進んでゆく。アンジャッシュのコントのような話が最初から最後まで続く。また昔気質の人からみた現代の物事に対する鋭くまた本質的な指摘(誤解もあるが)はいちいちおもしろい。いまの政治家たちに対する批評も現代ドイツ政治をもっと知っていれば恐らくもっとおもしろいのだろう。まあしかし、煎じ詰めて言うなら政治家のひどさは日本もドイツも一緒だなあ、と感心しつつ安心した。

そんな本だが、これはすばらしく示唆にとんでいる。著者も言っているように、ヒトラーは熱狂的支持も得た人物であり合法的に選ばれた人物でもある。そのような人物が魅力がないはずはなく、戦略的思考にも優れているはずである。そうであればいま蘇ってどう生きるか、今の目から過去をどう振り返るか、ということを本人の視点から語らせるのは大変意味のあることだと思った。
日本でも応用が出来るのではないか。戦前の大物を蘇らせてその目から現在と過去を振りかえらせる。適切な歴史の見直しになるのじゃあないかなあ。

「楽しんできます」とか「楽しむことが出来ました」だとか、ほんとに思っているの?

2014-02-10 16:53:06 | 時評・論評
ソチ五輪が始まった。まあ僕はあんまりウィンタースポーツのマニアではないんだが、こういうときしか見られないスキーの滑降だとか大回転だとか、ジャンプなどには素直に興味を引かれてついつい見てしまう。スピードスケートもそうかな。残念ながら人気のフィギアスケートは今ひとつスポーツとも思われずそれほど興味がもてない。マスコミがこぞって立派なアスリートを捕まえて「真央ちゃん」なんて呼ぶのもとてもいらいらする。あ、そうか、そりゃスポーツじゃないってことかな?

じゃあスポーツってなんだよ、とふりかえると、要は一定のルールの下で定められた目標の最大値を競うもの、ということである。制約条件つきの最大化を競う。それが高さ・遠さであったり速さであったり。フィギアみたいなのには「美しさ」ってのが入るんだろうけど、それは競技的な美しさってことにして欲しいよね。そもそもなんだよあの音楽とかコスチュームとか。審査員の目を幻惑しないために統一の制服にしちゃうとかね、そんなことがあってもいいんじゃないかねえ。

なんかフィギアスケート批判になったけど本題はそんな話ではない。今回のオリンピックに限らず、最近は日本選手がよく、「楽しんできました」とか「楽しみました」とか答えていることが多いが、これははっきり言ってとっても聞き苦しい。本人の言葉ではなく、なにやら場の空気が言わせているような気配がにじむ。どうにかしてくれ、というのが言いたいこと。

いや別に竹田恒泰氏みたいに「負けたのにへらへらと「楽しかった」はありえない」とかそんなことを言っているわけではない。国費を使っているのだから楽しむなんて事を言うなよ、と言うわけでもない。選手は個人としてその資質の高さと厳しい訓練によりオリンピックの地を踏んだのである。そこに選ばれるために大変な努力をしたわけであり、国としても周囲の人間としても余人をもって代えがたし、と判断して選んだのである。その意味ではそのこと自体を誇りに思ってよいわけだ。国や周りの人に感謝はするものの、そんなにいちいち恩に着る必要はない。お互い様である。

でもね、やっぱり思うことを言おうよ。「楽しんできます」というのはやっぱりとってつけたような言葉だよね。自分の言葉じゃないよ。もしその手の言葉があるとすれば「なんだかわくわくしますね、ええ」ぐらい言ったらいいんじゃないかなあ。終わったあとは「クッソくやしいです」「いけるとこまではいったと思うので満足です」「最高です」「超気持ちいい」って言えばよいじゃん。まあインタビュアーがどいつもこいつもボケばっかり、という問題はあるんだけどね。欧米の選手の言い方とかマスコミの期待に無理にあわせることないよ。あなた方の一世一代の晴れ舞台なんだから。