御託専科

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社会的惨事の消化あるいは昇華の仕方-東日本大震災4周年に思う

2015-03-14 15:34:24 | 時評・論評
親族の命日はその人物をしのぶ契機である。普段は雑事にまみれた生者たちも死者の生前の姿や言動を想起し、感慨を持つ。そのことにより死者は生者の記憶の中でなおも生きることができる。年を重ねるにつれ感慨は丸みを帯びてくるだろう。次第に薄れていくだけかもしれない。しかし、それはそれでよいのだろう。そうやって死者は緩やかに生者の中でも消化されまた昇華され、ある意味再びの死を迎える。そして次はしのんできた生者の番である。

この3月11日は東日本大震災の4周年であった。テレビは追悼的番組一色であったようだ。私は一切そのような番組を見ていないが、あれこれ聞くに感情的なものが多かったように聞く。また原発絡みで誤解を広げるような話もいまだに絶えたわけではないようだ。まあいつもあるような日本のテレビ放送がされたってことだろう。

追悼というのは本来宗教的感情を伴うものであるから、感情的になるのはまあ当たり前である。しかし冒頭に述べた親族や身内、知り合いならともかく、社会的追悼となると少し違ってくる。皆で黙祷をする、ささやかに式典をする、ぐらいならいいんだが、テレビがあり新聞があり雑誌があり、実に余計なことをしでかす。他人の追悼の感情を理解したつもりになって安直な映像にまとめて適切な時間に収め、直後にコマーシャルを入れてスポンサーから金をとる、というのそもそも最低であるが、それに似たことを新聞も雑誌もやっている。テレビの場合で言えば、多くのああいった映像の背後に感じられる世をなめたテレビ関係者の傲慢を思うといつもむかむかする。追悼どころか冒涜である。すぐにテレビを消すかチャネルを変えてしまっていたが、近頃はテレビのニュースや報道番組、ドキュメンタリーは一切見ないようになった。わざわざ腹を立てるために見ることはない、という当たり前のことである。

こんな風に自分が腹を立てるのは、原爆の町に生まれたから一層強い感覚があるのかもしれない。まあテレビの話ではないんだが、その日のちょっと前ぐらいから共産党系の原水禁と社会党系の原水協の連中が町にやってきて、追悼とか原爆許すまじ、とひと騒ぎして帰る。あとは何にもない。僕の親戚にも居た原爆の生き残りの人や原爆で死んだ人の親族が持つ追悼の思い、惨事の消化と昇華には全く関係なく騒ぐだけであった。今は地元を離れたからわからないがおそらく今でもそうなんだろう。冒涜の馬鹿者どもめ。ああいう輩を駆除する権利がほしいものだ。

別に遺族や被害者に寄り添ってくれ、というつもりはない。おそらくいやらしいべたべたとした寄り添いをされるだけだ。いや、しているかもね。そんなことではない。ほっといてほしいのだ。ほっといて、まあそれでも気がすまないなら遠慮がちに話を聞いてくれ。もし被害者や遺族が許すなら画像でも文章でも記録にしてくれ。ただし、安直に編集せず。そして、希望を穏やかに聞いてくれ。金かも知れない、追悼施設かも知れない、あるいは遺族や被害者の前から黙って立ち去ることかもしれない。取材者の感情を満たすのが目的ではないのだから、遺族や被害者の思いが最優先である。

これが追悼としてできることである。それ以上は何もない。復興を助けるなら金を落とせ、職場を作れ、遊びに行け。それでいい。そしてうまい食事にうまいと言おう。TOKIOのように。ただしこれは追悼ではない。ある地域に対する経済的な手助けである。恩に着せることなく金をおとし、必要がなくなれば黙って引こう。

まあそういうことだ。しかし社会としての追悼にはもう一段やるべきことがある。徹底的に科学的にまた理性的にやるべきことをやる。更に、その惨事の原因となった罰するべき対象があれば罰するのだ。そして一歩一歩進めてきたことを周年日に報告するのが真の社会的追悼であろう。原爆に関して言えば、市の中心の平和公園から過去帳に記された人々が町の発展を見守っていると考えたい。でも復興の歩みは毎年忘れずに報告しよう。あと原爆は震災と違って人災だから、人災を起こした人を裁こう。だれがなぜ落としたのか、それに罪はないのか、ということの明確化しよう。おそらくアメリカの大統領の謝罪と、ルメイの子孫の謝罪が必要だ。本当ならルメイとトルーマンを平和公園で磔にしてゆっくり死んでもらうぐらいの罪なんだがね。いや、それでも甘いかもしれない。この罪の明確化を徹底的に怠るがごときことをしたは残念なことだ。「あやまちはもうくりかえしませんから」ではなく、「過ちはもうくりかえさせませんから」という構えを取り戻すことだ。敗戦後の政治状況で困難であったことは良くわかるのだが、60年安保の学生の騒ぎのときにアジェンダとすることはできたと思う。何らかの工作をして学生運動側から提出させアメリカの世論に影響を与えることで何かが変わったかもしれない。今からでも遅くはない。いろいろなやり方はあると思う。

東日本大震災については、現在までの復興を周年日に報告しよう。何がとこまで戻り、何がまだ(もう)ダメか、は実は皆に知れ渡っているわけではない。徹底的に科学的にまた客観的に記述し、犠牲者の前に報告をすべきである。全国の原発を止めてしまうというとんでもない二次災害を民主党政権が引き起こして、それを自民党政権も元に戻せず国富を失っているが、それも客観的に報告しよう。そうした淡々とした事実の報告と記録を行い、その整理・記述する行為自体が行政の優先順位の設定をより厳しく規定し、包括化して行くことは大変結構なことだと思う。そうやって進展を伝えるのが社会としての惨事の追悼の仕方である。