御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

小谷野 敦 「こころ」は本当に名作か

2009-11-28 23:02:57 | 書評
なんだかこの人とはものの見方といいひねくれ方といい恐ろしくよく似た方向性を感じる。で、この人が博覧強記の人だから、意見が一致したら自分の大雑把な考え方も正しいことが検証されたような安心感が得られる、というとてもいい気持ちの読書になる。
そういう快哉を叫ぶのはあんまり良くない、なんて昔はいい子ぶって思っていたが、いまやそんなことはない。先が短いんだから(笑)。

さて、表題の「こころ」。いや全く同意するね。三四郎からそれからから門からこころ、どれもいじいじとした駄作だと思うね。我輩や坊ちゃんの方がよっぽどいいような。

このブログでも書いているがドストエフスキーに関する意見も同感。「いったい、「大審問官」なんて、キリスト教徒でない人が読んでなんの意味があるんだろう」はまさに我が意を得たりである。このブログにもそんなことを書いた。筆者はまた、カラマーゾフも含め「哲学は哲学として小説の外でやれ」っていっているがこれもそのとおりだな。

フィッツジェラルド。ギャッピーについて、筋も不自然だし「単にジャズ時代などというとノスタルジーを感じる、村上春樹を含む全共闘世代が持ち上げてるに過ぎないのではないか」とぼろくそ。ま、賛成だけどね。ありゃつまらん小説だよ。

永井荷風。親の金で暮らせるボンボンが洋行から帰って東京が江戸が失われてゆくのを嘆くというのは、田舎ものが都会に出て田舎に帰って変貌ぶりを嘆くが如く品のないこと、と石川啄木が怒ったそうだが、全く同感。この人にはそんな資格はない。自分の金を何人かの女郎の解放に使えたはずだ。

そのほか森鴎外、スタンダール、トーマスマン、ワイルド、フォークナー、ヘミングウェイ、テネシー・ウィリアムズ、ダンテ、近松、井原、上田秋声、樋口、志賀、芥川、三島が「疑わしい」範疇に入っていた。

三島はなるほどだね。ブログをみたら金閣寺については「できのいい時事テーマ小説以上のものじゃあないんじゃなかろうか。」と自分でも言っている。その後あれこれ読んでも、「美文はわかるがストーリーはねえ」てな物言いが多いね、自分でも。

一方で読むべき本の筆頭に源氏、シェイクスピア、ホメロス、ギリシャ悲劇、日本のトップレベルに八犬伝、泉鏡花の草迷宮 歌行燈、川端康成、谷崎の細雪と吉野葛 が挙げられている。

なお、面白かったのはあとがき。つい最近僕が批判した水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」が、筆致はやわらかいが違う角度から強く批判されていた。要は高等文学のための日本語がどうのこうのといったところで、昔々からエリートは実学を志していたものであり、「文学」などという物を好むのはごく一部でしかない。アカデミックの中でだけ暮らし東大教授の旦那をもち、大学で教えることもなくたまにものを書いてちやほやされている人にはそういうことが見えてない、ということだそうな。さらに、その批判の中で「国語教育というのは、論理的で正確な日本語の読み書きと古典文法に限定すべきで、文学教育はすべきでない」といっているのは僕の考えと全く一致する(別の機会に書いた「国語と日本語」参照)。ほんと、なんだがえらく意見が一致する。僕がラディカルなまま生きていたらこの人みたいになってたんだろうなあ、としみじみ思うね。


中上健次 「地の果て 至上の時」

2009-11-24 21:24:33 | 書評
ちょっと長い中断を含んだので結局半年近くかかったろうか。
それにしても長い話がだらだらと続く。秋幸とその父龍造の愛憎を軸にして些事の積み重ねのような出来事が次々と積み重ねられる。水の宗教の教祖の母親が死んで腐乱死体となって人前に披露されるようなことはあったものの、最後の龍造の自殺とヨシ兄が鉄夫に銃で撃たれるところまではある種淡々と日々が積み重なってゆく。もちろん紀子の家出のような事件もあり、けっこうドラマチックなことは起きているのだが、大事とも扱われず話は進む。濃密な文体のせいか、山とか先の楽しみをもたせないのになぜか600ページあまりを読んでしまった。
しっかし、枯木灘の時も思ったが、この愛憎と暴力の気配がない混ぜになった世界はなじみの手触りがある。そういえば龍造はうちの隣に住んでいたおじさんと重なる。僕らにはいいおじさんだったが、焼け野原になった町の土地を好きなように我がものにして財を為した悪党だ、との噂もあった。

少々解説の類を見たが父殺しだとか王がどうのこうのとかいって、やっぱりなんか間違っている気がした。これはなじみとか直感的な手触りの世界ですよ。愛憎と暴力の気配のある世界、恐らくかつて日本の地方に常にあったと思われる世界、になじみがあるかどうかだろうな。

「青春の終焉」三浦雅士

2009-11-21 08:21:54 | 書評
「1970年代に青春はひっそりと終焉した。教養の終焉も、大学の死も、その一環に過ぎないのである。」

それに前後して進歩や成長の神話も終焉を迎えた。また現在を弁明する道具としての歴史も終わった。ブルジョアの勃興を背景として隆興したこれらの観念や考え方は、ブルジョア社会が大衆化社会に到達する中で、あるいはそれに遅れて、息を引き取った。あとは人々は神なき・それに代わる超越者なき日常を、廃墟のごとく未来を感じつつ、昨日の如くあすを感じつつ(永久回帰)生きるのみである。

「超越は存在しない。人はいま、その誕生の時と同じほどに異様な自由のまえに、立ちすくんでいるように思える。」

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ちょっと格好つけてまとめるとこんな感じかな。500ページの浩瀚な本、それも「群像」への掲載をまとめたものだから話はかなりの広がりをもつ(特に日本文学・論壇)し、著者が更に一考したい段階のものもそのままある。が、乱暴にまとめてそれほどはずしてはいないかなとは思います。

青春・進歩・大学・教養・成長・歴史認識 と言ったものがワンパッケージとされるもので、しかもその起源が、とても大雑把にいえば近代の、ブルジョアのヨーロッパである、というのはいいまとめだった(とは親切にまとめられてはいないが)。じゃあその青春の特徴は何かというと、革新的であり、根源的であり急進的であることである。中世以前の社会ではそれは逸脱でありよくないことだったのである。普通は自滅する。しかし青年の行動力、無謀と情熱が合理的精神と手を組んだなら、それは生産の拡大に結びつく。すなわち、産業革命を経て青春は美徳となった。
しかし、近代化の結果として近代を支えた概念への疑問が生じ、また環境としてもブルジョアがリードする社会(啓蒙主義)から大衆社会に移行する中でこうした概念の下部構造は希薄化した。世界中で青春時代が終わってる。ヨーロッパは20世紀初めからそれに気がついていた(本家だから当然)。自分たちが若さを失いつつあることを。
オヤジが「今の若者は若者らしくない」とかいったり、いまの社会が若者に寛容でないといったことも、社会の青春の終焉と軌を一にしているのだろう。おっと、ぐっと日常に落ちたが。これからは「成長」ではなく「変容」であるのかもしれない。そこには青春賛歌、青年賛歌は確かに不要だ。それ以上に、もはや誰も逸脱(=青春)を非難することはあっても賞賛することはないのだ。

「青春の規範とは根源的かつ急進的に生きることにほかならなかった」ってのは響いたなあ。根源、ってRadicalのことだろうな。まさにそうだよな。小市民的な範囲ではありながら出来るだけそう生きてきたつもりなんだよなあ。青春というものが終焉したとしても自分としては根源的と急進的の看板はもっておきたいなあ。もう第二の天性だものね(というか生来の癇症の正当化でもあるのだが)。それも青春の残光を浴びて育った人間のノスタルジーかなあ。ぼくのはどっちかというと「自ら省みて直くんば、千万人と雖も我行かん」だから洋物とは毛色が違うかな、と思ったがこれは吉田松陰だからむしろよりきつい青春原理主義者かも(笑)。

ともあれたいした本である。いまの世の中に存在している(残光として残っている)近代の「良い子の」規範らしきものを相対化するには非常に良いので皆で読もう。でも厚いからなあ。3分の1ぐらいにして普及版出しません? 三浦さん。

ところで村上春樹にかかわる面白い記述があった。「村上春樹の主人公たちの青春は、つねに、すでに終わってしまっている。あらかじめ失われているのである。」「つまり「僕」にとっては世界は一様なものの繰り返しに過ぎないのだ。」
そうだね。村上は物語自体というより、物語の語り、事件を主人公が受ける受け止め方の方に特徴があるといえるかもね。そういえば「メリーゴーランドでデッドヒート」とか言ってたな、「世界の終りと・・」の中で。
「村上春樹以後、世界は果ての果てまで終わってしまっていて、ただひたすら遠いかこのように現在を生きる、そういう若者の姿を描く作家が次々に登場した。」そうだ。

なんてやってると山のようになるのでこの辺で。

[現代芸術]徹底批判 大航海 No.70

2009-11-14 09:47:24 | 書評
これはすごい雑誌だね。最近廃刊になったそうだが残念。今回があまりに面白かったので、「脳・意識・文明」 の特集号と 「ニヒリズム」の特集号も発注しておいた。それにしてもこれだけ充実した論考集がたった1500円で手に入るとは幸せなことである。特に脳・意識・文明の特集では二分心論のジュリアン・ジョイスが結構取り上げられているので楽しみである。

さて、14のエッセイとひとつの対談が収められており、このうち12のエッセイと対談を読んだ。主な論旨は不器用ながら下にまとめた。
しかしまあ、これで一応現代芸術に関する思想面からの集中的追求は終りかな。どのような分野でもそれなりの評価の文脈とか作法があるのかと思いざっくりと学んでみたが、誰かも下でいっていたとおり現代芸術はある種浮遊した評論と制作の永久運動におちいっているようだ。村上の言うような文脈の読みとそれへの適切な切り込みは、売り込む側としては必要だが、味わう側は下で尼ヶ崎がいっているようにそんなもの関係なしに自分が価値ある経験が出来るかどうかということで臨めば良い。ピカソの絵でも絵葉書でもいい感じがする方を買えば良いと言うことであり、ぐるりと元に戻って、素直な直感主義で行けば良いと改めて悟った次第。消費者・鑑賞者が文脈を(知的な見栄から)理解しようとすれば、ブランドにカネを払うと同様に文脈にカネを払わされるだけだろう。ま、直感を発達させるには趣味を共有できるよき指導者・パートナーが欲しいことは欲しいが。
また、より価値のある経験ということでは芸術的体験をするほうが重要だろう。歌のレッスンやピアノの練習、ちょっとかじった俳句やドローイングを再びやって見ようかと思う。


(全体観)
論者の強調点は違うが、概ね次のような点は共通である
①芸術は「もともとある」ものではなく、社会的・歴史的な経緯から(そしてその圧力から生じる感受性の変化から) 芸術に「なる」ものである。
②そのための社会的・歴史的圧力が希薄な現在(ポストモダン)、芸術のありようが無秩序に多様化しているのは当然である。

(個別論考)
「近代の残滓としての芸術」貫 成人:
マネの絵は遺族や関係者が死後のオークションで価格を法外に吊り上げたので歴史に残った。ガラクタが傑作に変身することで芸術の定義も変更され、我々の感受性も再構築される。感性や感覚はそれぞれの時代と地域において再構築されるものに過ぎない。
それでも芸術が高い価値をもつに至ったのは近代の芸術崇拝の思想ゆえである。国民国家の統合装置・威示装置として。
しかし冷戦終結後近代国家モデルは決定的に崩れた。芸術のための芸術、芸術至上主義は基盤を失った。世はニーチェ的永久回帰の中におかれている。
それでも、自分の感覚を「いま、ここ、わたし」に限定させず、さまざまな規模の過去や伝統、状況に開きゆくものとして芸術の意味は大きい。芸術はもはや近代の残滓であり終わったかもしれないが、それは遍在してもよいのである。
←源平翁の言う、「工業製品に抜かれてしまった芸術」というのはこのことかな。つまり、いまや工業製品が遍在する芸術、ということ。

「芸術と近代国民国家」松宮秀治:
芸術崇拝や芸術の自立的価値は18世紀の啓蒙思想という西欧の特異な思想の産物である。人間が人間社会の価値を自ら作りだしうる、という思想であり芸術のための芸術、というのもその並行的思想である。フランス革命後は政教分離、国民国家という神話のよりどころとして文化英雄をミュージアムに祭ることが行なわれる。
しかし、「職人的技芸」という出自を忘れ「芸術」という特権的地位に安住することで腐敗と堕落と力の衰退が生じた。近世以前を越える作品が出ないのはそのためである。
19世紀末の画家たちを初め芸術家たちはそのことに気がつき、力では足元にも及ばない近世以前の作品と勝負することをやめ、奇を衒った突飛さで勝負することにした。
「いわゆる現代絵画とは想像力の欠如と近代西欧の芸術概念を詐欺的に利用した、一種の山師的な芸術である。その旨みを最も味わいつくしたのがピカソであり、そのやり口が最も巧妙だったのがデュシャンである」
←これはそうかもな。絵、うまくないもんね、みんなとはいわないが。

「ロマン派の呪縛と現代音楽の袋小路」 岡田暁生:
18世紀までは作曲家は堅牢な作曲システムの中でいい曲を作れば良かった。19世紀の作曲家は、システムを崩しながらオリジナルな曲を書こうとした。20世紀の作曲家は、曲を書く前にまず自分の音言語システムを構築しなければならない。これは、社会がお互いに無関心な多数のマスに分裂していることの反映でもある。しかしこれはそれぞれが手前勝手なルールでゲームをやってるのと変わらない。
18世紀までは統治者が社会に統一を与え、趣味・芸術にも統一様式をもたらした(メディチ家とフィレンツェルネサンス、ルイ14世とフランス・バロック、ルイ15世とロココ)。その統一がなくなったいま、複数の「内輪」が存在するのみである。これが現代音楽の不毛の要因である。
もうひとつは、作曲、演奏、批評、聴取の分離。聞き手の声はもはや作り手に届かない。
対策。もう一度アングラから始める。社会を統一する「宗教」の再構築が必要である。気心のしれた仲間とそういう試みをした晩年のシュトックハウゼンのように。
←社会の作りなおしからやるしかない、という主張。よくわかるがそれはまた別の内輪を作るだけでは? 統一性も至高の価値もない永久回帰の世界を生きぬくしかないんだと思うがなあ。

「芸術院とは何か」小谷野敦
芸術院の告発記事みたいなもんだね。内輪の、老人のための年金分与システム。納税者よ文句言え、というのが趣旨。さすが小谷野さんの目のつけどころと筆致ではある。


「<おもろい>もとめて三千年」篠原資明
これはわからん。感性過剰性、痕跡過剰性、解釈過剰性というのが差異の生成を現在・過去・未来の観点から見たありようなんだそうだがなんのこっちゃ。これらが有効な概念装置として働いているとも思われず。三浦雅士はなぜこれを載せた?

「現代音楽の聞き方?」片山杜秀
現代音楽でも重要な音型(テーマ)はあるそうな。が、それを聞き出すのは無調だから結構大変で楽譜を見るしかない、などなど。
←もし現代音楽を理解しようとするなら面白い(また頭でっかちではない)話がいくつかあった。

「バナナの叩き売りの口上はいかにして「芸術」になったか」
音楽は最初からそのようなものとして「ある」わけではなく、文化的なコンテクストの中で「なる」ものである。 また音楽や「芸術」は、芸能、記念物、歴史遺産、民族資料等々の事象を括る様々な概念のひとつにすぎず、それらのせめぎ合いの中でたまたま優位性を示したというだけの話、それだけが何か特権的な地位を占めているというわけではない。
←やわらかいが究極の価値相対主義であり、まあ正統かな。

「現代芸術は裸の王様か?」安芸光男×三浦雅士
内容深く多岐にわたり、また発想知識見識の広い両者の会話の迫力は要約できず。ただし基本はニヒリズムの反映としての現代芸術の混乱(というより芸術の終り)、というところかな。

「「アンフォルメル以後」の以後」栗原祐一郎:
少々わかりにくい論考(というか発散した論考)だが、アンフオルメル以降のアートを
「芸術とは何か」という問いかけによって逆説的に作り出される不毛な永久運動みたいなものであって、その連なりから自律(独立)したアートだとか自律した批評だとか、そんな物は絵に描いたモチに過ぎない。
と評している部分は面白い。18世紀以降の美術史全体がそんな感じがある。やがて空しき、しかし知的な創作と批評の連関運動かな。

「芸人から芸術家へ」 加藤徹
中国の「女形」梅蘭芳を題材に、アジアで芸人が芸術家になってゆく様子を描いている。アジアにも芸人は居たが、西洋の衝撃を受けて初めて芸術が認識された。
芸術の本質は科学や資本主義と同じく近代西洋社会が生んだ価値(再)生産システムである。暗黙知の持ち主である芸術家に加え、形式知に長けた知識人が批評という二次創造のシステムを構築している。
←現場力の東洋、構築力の西洋、というのはビジネスでも見るなあ。

「私芸術とインタラクティブ」尼崎彬
この論考はダンス・演劇という分野のせいか、現在に向かって明るさが高まっている。
ダンス・演劇は60年代の革新、80年代の解放を経て90年代は新たな出発である。90年代は60年代と違い革新における歴史意識はなく、80年代と違い既存権威からの解放感さえない。過去を模倣しない、観念的テーマに頼ったりしない、ひとりよがりの罠に落ち込まない。等身大・同時代の空気がそのまま呼吸されている。
芸術家の創造を専門家が評価することによって芸術の価値は測られて来たが、もはや一般人はそのような教えはいらない。自分に「どのように価値のある体験をもたらしてくれたか」で評価される。ならば、身体感覚を巧みに表現した舞踏の舞台もジェットコースターから得られる感覚には及ばないことになる。戦争の悲惨を訴える絵が一枚の記録写真に及ばないことになる。芸術の定義はやり直しである。
ケータイ小説だとかニコニコ動画上の「男女」、初音ミクなど、インタラクティブの中で素人が創造をして新たな共有資源を作り出している。これは実は近代以前の、アマチュアの活動を中心に据える芸術活動の復活である(例えば短歌などは玄人はいなかった)。劇団などは地方公演では最近は必ずワークショップが望まれる。平田オリザは、いまの人が当然のようにモーニング娘を踊るように、将来は演劇もそうなるだろう、とまでいう。
芸術は一般の人にとって受動的に鑑賞するものから能動的に参加するものへ、また共同ですべてのプロセスを味わうものへと変化しつつある。
←これを読むと、ほかの人たちの嘆きがプロだけの世界での閉塞に過ぎないと思われたりするね。鑑賞するもの・されるもの、とだけみるから閉塞するんだ、ってね。考えてみれば我が娘は素人映画製作に励んでるな。

以上。あと4論考は未読または未消化。

田村隆一「腐敗性物質」

2009-11-10 22:36:24 | 書評
腐刻画

 ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは
黄昏から夜に入ってゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるい
は深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとく
にも想われた

 この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した 
その秋 母親は美しく発狂した

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うん、やっぱりすごいね。
この詩を巡ってある人と話になり、現代詩文庫の田村分をなくして以来ネットで我慢していた(というよりネットでいつでも見られるからと思い見ずに安心していた)が、まあこの際と思ってネットで本を探してみると自選詩集とされているものがあったので早速買い求めた。

で、この際と思い通読して思ったこと。
①到着するまでに久々に宮沢賢治とか中原中也とか丸山薫を引っ張り出して眺めていたのだが、それらに比べて田村の何とごつごつしていることよ。詩人としての巧みさ・洗練は決して高くはない。
②それでも、「四千の日と夜」に収められているものは無骨なまま、ごつごつしたまま、恐ろしくよく響いてくる。それまでのクラシック音楽に対するストラビンスキーの登場のように。上の詩も含め、「荒削りでわけがわかんないけどすごい」、と思わせるものが多い。
③しかしそれ以降のものは今ひとつ響かない。むしろ偽悪的に聞こえてくるものもあり、あまり良い趣味を感じない。
④終戦ののちの時代背景が田村をして詩を吟ぜしめ、田村は詩を発することにより生きることができたのだろう。しかし、そのあとは蛇足だったのでは。つまり必然の詩は「四千の日と夜」にすべて吐き出されたのだ。

三浦雅士「ニヒリズムとしての現代芸術」

2009-11-08 22:40:05 | 書評
佐伯啓思と三浦雅士の論文・対談集「資本主義はニヒリズムか」に収められた一遍。非常に鋭い筆致で、資本主義のニヒリズムと現代芸術のニヒリズムは並行関係にあることが論じられている。第一節の表題「現代芸術は資本主義のニヒリズムを体現する」はずばりそのことを表している。

美術も音楽も舞踏も、芸術のための芸術、という自由を手にした。しかし、そもそもすべてのものはそれ自身の中ではなく外部の文脈の中でその価値を発揮する。ミケランジェロが法王の発注で聖堂を飾るものとして作品を作ったように。ところが、そのような文脈を失ってしまうと芸術は非常に不安定になる。なぜなら芸術作品はそれ自身で価値で測れる価値があるわけではないのである。芸術が芸術であるというだけで価値があるというのは強がりに過ぎない。そこに根源的不安の源がある。ボロックの窶れと自殺のような死はそれを象徴する。

これは貨幣にしても同じである。もはや金兌換ではない貨幣が貨幣というだけで価値があるはずはない。
←これは三浦さんの認識不足。貨幣が貨幣を生むようになり自己目的化したとはいえ、貨幣は実物との交換価値により支えられるものだから、不兌換であっても相対価値を保つ(もちろんその先を問うことはできるが)。その一方で、自己目的化した芸術には交換価値がないため不安定性は貨幣よりかなり高いと思われる。

「芸術のための芸術」の価値不在性、あるいは根源的不安を補うのが、美術であれば美術館であり画商である。これらは金融市場の格付け会社のようなものである。本来価値のないものに価値をつけてゆく。だから、「傑作だから美術館に入る」のではなく「美術館が保有しているから傑作」と言うような転倒的判断も起きる。

金融も芸術も自己目的化して自由を謳歌し、その一方でいまや決定的に「何のために」を欠いてしまった。しかし続いているのは、人間の本性の何かがそこに表現されているのであろう。


以上がざっとした論旨。氏の金融の決め付けが些か通俗的な部分を含んでいたのは気になったし、まだ詰めきられていない部分を含む論考であるとは思うが、なるほどよくわかった。
自由な活動を手にした経済も芸術も、自由の反面、その暁には決定的に「何のために」を欠く存在となってしまった。現代美術に自分が感じてきたフラストレーションは僕が年来感じてきた仕事や生へのフラストレーションとほぼ一致する。そういうことだったのだ。 あと、前に書いた、GEISAIで秋元康なんかが個人賞をもっていることの意味もよくわかった。美術の格付けシステムとして、ある種美術の外部の権威を導入する必要があるということのようだ。転倒した話だけどまあ納得。うーん、いまさら改めて思うが、世界はそういうことだったんだよなあ。遊戯として軽やかに戯れることができなかったのは残念。ま、空しかったろうけどね、僕みたいなタイプだと。

ところで、「なんのために?」は若いころの僕が非常に頻繁に人々に対して発して、すごく嫌われていた質問だ。それは僕の聞き方に皮肉が含まれていたこともあるが、多くはそこを追求されるのが嫌、ということだったと思う。ほんと、何のためにあれをやりこれをやっているのか、ほんと知りたかったんだよね。それに対して、権威ある重層的な迫力を持つ答なぞもはや世の中になかったんだな。既に僕が十代の頃から。いらいらしたわけだなあ。

なお、三浦氏編集の「大航海」の現代芸術特集を発注中。読んでからまたこの件は論じる。

コンサルタント ヨタ話二題

2009-11-07 21:04:19 | 時評・論評
1.地道仕事、ヘッジ、マジック
コンサルタントに限らずアウトソースされる仕事はこの3っつの要素で成り立っている。宅配便などは地道仕事一筋である。ここは付加価値が比較的とりにくい。
さて、コンサルタントや運用会社になるとこれにヘッジ、マジックが加わる。コンサルタントにしても運用にしても、誰かがやらなければならない基礎部分の仕事はやっているわけで、それは地味仕事である。しかし、依頼者の要請としてヘッジとマジックの要素があり、これをどうするかで付加価値が大きく変わる。
ヘッジというのは、そのコンサルタントなり運用会社を使うことで、結果に対する責任の分散が依頼者(個人または部署または会社)として出来る。特別賢い必要はないが、腹がいる仕事である。ヘッジでいくら取れるかは仕事の性質やそれが成り立っている枠組みなどが大きく影響する。
マジックは、コンサルなり運用会社への賢さへの期待である。運用会社への期待は平均的には裏切られるものである。コンサルに関してはまちまちであろうが過剰期待は禁物である。とまあそのあたりが本当のところだがコンサル・運用者側としてはそこはうまくやりたいものである。

2.枠組みを作りつつコンサルをすること
年金運用コンサルに典型的な話だが、これは枠組みの中での必要な登場人物としてヘッジの役割を果たしてFeeをもらっている。年金運用のロジックは「運用で勝つ」といった精神論の失敗をあまりにも多くみてきたため、そういう粗雑なしかし熱心な意気込みを解体し、部分部分で積み上げを行なう仕組で意志決定を行なわないとまともでない、ということになっている。こういう枠組みができ上がって年金コンサルのビジネスが出来上がり、またそういう枠組みをコンサルが強化してきた。人事コンサルも、90年代後半の年功序列をさげすみ成果主義・実力主義を尊ぶイデオロギー転換という枠組みにより大きく利益を得てきた。
どちらにも共通するのは、枠組みの存在あるいは変化がヘッジ的なコンサルニーズを生んできたということだ。そこで発想はぐっと飛ぶが、実はコンサルはそのことをより強く認識するべきではなかろうか。つまりコンサルニーズは存在したり発掘したりされるものではなく、作りだされるものであるということである。年金のようにアカデミックも含み総がかりで枠組みが作り出されることはなかろうし、実力主義の旋風ももう終わった。ニーズを発掘にいってもそれほど豊かなものがないとすれば、何らかの作業における標準手続きを作り出し、その一部にヘッジ機能を担うものとしてがっちり入り込むのは重要な戦略の一つである。

「ゲド戦記」1- 3巻、解説本「ゲドを読む」

2009-11-07 20:50:22 | 書評
「ゲド戦記」の3巻までを読み、貸してもらった解説本「ゲドを読む」を読んだ。1-2巻が比較的単純なテーマと物語構成をもって入るのに対し、3巻は含蓄深く現段階ではやや読み込みに自信がない。が、ハルキ様同様ほっとくとまた忘れるだけだからここでひと締めしておく。

えっと、最初に意外だったのは魔法使いたちの魔術が案外普通で、ものすごいものではないこと。船のくくりの術、なんてたとえばタールとかをつなぎ目に塗るみたいなことじゃなかろうか。「読む」で佐藤忠男が言ってたけど今で言えば魔法使いは技術者に相当するものかもしれない。そういう魔術の普通さのお陰で、物語はわりと普通でありある意味まともである。
(そもそも超越的な魔力を持ち込んでしまうとそれを発動させる手続き-特定の場所とか特定の石とかを探しだし、主人公が選ばれしものとしてその魔力の発動を媒介する-に物語がいっちゃうから、結構作る方は本筋の周囲に豊かさをもたせるのにいろいろ無理筋の苦労をしてるように思う)

さて第一巻。これは「読む」の河合隼雄の解説のとおり、確かに影は分離された無意識の隠喩であり、第一巻はそれと意識的自我の再統合の物語である。若者の成長物語とともにあるのは実に実感が伴う。特に影を呼び出すことになるのが幼いころ女性に言われてから、とかヒスイといういけ好かない友達との張り合いにおいてであるのはいかにも男の子らしい。 自分でも全くこれは身に覚えのあることで、女性の前で、あるいは同輩と競り合う中で見栄を張り自我をBoostしようとしたものだ。そうして形成される自我は強く、また奇麗事や建前で出来てており、それ以外の部分が無意識の領域に捨てられてしまう。そういう風に考えると、僕の場合は「影」が最初から存在したわけでも影が独立してできたわけでもなく、実は意識的自我が少年期から青年期にかけて形成されその陰画として「影」が出来たように思う。ぼんやりと存在していた自分というものが分裂していったのだ。
そういう僕の無意識は(物語の中でのように)自分を襲うほど強いわけではないが、その無意識の方を生き切れていないことの空しさが強まってくる(あれ、これが襲われたこと?)。僕の場合は20歳前後のころからであろう。その後はゆっくりと、社会的生活に必要な意識的自我は保ちつつも、もともとあまり無理をしたくないタイプなので徐々に無意識的部分との統合が進んだ気がする。要は、今は若いころよりはよっぽど楽にまた自然に生きている。それなりの社会的なポジションを確保し年齢が高まるにつれ意識的自我の主張により競争に参加したり自己防衛をしたりする必要が減ってきたのも大いに関係していよう。
影と自分と言うのを無意識と意識的自我としたが、実はこれは「自分の出自」とより「普遍的で高級なもの」、とすることも出来るかも。中堅都市で育った、ひととうまく交われず感情の起伏が激しい青年が、東京コンプレックスや海外コンプレックスの強い中堅都市の人々の中にいるのがいやでそこから抜け出して東京を知り大企業を知り外資を知り独立起業を垣間見て一通り邯鄲の夢を見た。教養なき育ちながら哲学や文学や音楽もある程度以上知り、自分の好みを知ることが出来た。いやそれ以上にすばらしいのは興味ないとか知らないと平然といえるようになった。もういいのだ。普遍・高級はあこがれるべきものから単なる意匠のひとつになり、自分の出自から来る自然の趣味と比較して良し悪しというものはなくなる。普遍・高級と我が出自はこうして同列化し、ある意味統合された。自分がそうなってくると、過去会社をつぶしたりして苦労して、今でもあばら家で多くの病気を抱えて暮らしているが、まあなんとも恬淡としている父親が恐ろしく凄い人間に見えてきている。
とまずは強引な第一巻の解釈。なお、生死の世界の境目があいてしまってそれを閉めるのに長老の命を費やしたことの隠喩は今ひとつ理解できていない。一方で、変身したら元に戻るのが大変というのはそのとおりと実感。防衛的手段として意識的自我に主張させると、次第にそれが人格になる。本来のナイーブでいとしい自分を忘れることは多々ありますね。これは他の多くのひとにも観察される。何かの本で読んだがニーチェのことばで「化け物と戦うためには自らも化け物にならなければならない」というのがあった。もっともな話だ。でも戦ったあとはちゃんと戻ろう。できれば、化けずに済ませよう、ということ。

注)11/9付記:無意識との再統合と似た話だが、僕が20代後半から30代前半にかけて唱えていて、また自分でもガイドラインとした説があった。それは「人間は無垢で生まれるが色に染まる。しかしいろいろな色に染まってゆくにつれ、虹の七色が混ざると透明になるように、明るくまた透き通ってゆく。そうして再び元の無垢に戻るが、これは試された無垢であり幼児の無垢よりはるかに強い」というもの。3-4人の支持者がいたね(笑)。いま言いなおすなら「汚れ汚れ学び学び、汚れ学びて果てに澄みゆかん」というところかな。楽になってきたのは昔よりは大分澄んできたってことかもね。

第二巻。物語としては面白かった。「読む」などで語られている解釈は今ひとつのような気がする。河合さんは男性性と女性性の問題で腕輪の結合がその統合の象徴、と、あまりにユング学者らしすぎる解釈をおっしゃるし、訳者の清水さんは安気な隷属と重たい自由の選択、といかにも時代背景そのままのことをおっしゃっている。こういう視点であまり含意を読み過ぎると却って興を減じるような気がする。河合さんも清水さんも、最後の方で「解放者ゲド」にテナーが切りつけようとする場面を話題にしている。河合さんはゲドの対応が見事だ、男の対応としてうまい、と誉めるし、清水さんはテナーの行為に自由へのアンビバレンスを読み込んでいる。でも、僕としてはまあ、こういう矛盾する気持ちの行き来はありうるし、それへのゲドの対応も偶然に過ぎないかもしれないが、そういう、結果として剛毅な対応で物事が次に進むこともあるのだといっていると思う。要はこれらの出来事の偶発性が物語のリアリティーを増しているように思った。あまり隠喩を読むところではないような気がする。
で、僕が読んだ筋は、これはテナーにとっての与えられた「現実」の崩壊と自らによる「現実」再構築の話ということである。アチュアンの墓所の神殿ではダライラマのごとく生き返りを繰り返す「大巫女」とその取り巻きが本尊の「名もなきものたち」を祭る。大巫女のテナーにとってはそこが与えられた「社会」であり「現実」である。そこからゲドに連れ出され、そして悩んだ末に新たな「現実」を知ろうとし生きようとするところで終わる。それは与えられるものでもあり自ら再構築するものでもある。
再びわが身をひき出すと、「普遍・高級」への憧れもあり東京に出てきたのはいいが、そこで繰り広げられる学生生活の予想外の下らなさ、志のなさにあきれ、そういう現実に適応しつつも哲学・思想・歴史あたりの本を渉猟していま目の前の現実を相対化して、自分なりの現実認識を形成していった。これは30歳ぐらいまでかなり集中的に、その後も緩やかに継続している。自分にとっての「現実」(あるいは価値基準)の再構築は、自我の再統合と同時に進行してゆくものだと思う。つまり自我と現実の再統合。
ひとつ気になる点。アンチュアンの墓所が世俗の長である王の宮殿の立派さに比べ古びてきていること。没落しつつある由緒正しい神聖なる集団。絶対王政時代の教会とか徳川時代の天皇家を思わせる。で、そういう中で王の支配から、ではなく寂れた神聖集団から逃げ出すとはどういうことを意味するのだろう?上ではそれもあわせて「現実」としたが、ちょっと違う話になるかもしれない。

さてと第三巻。自己を再統合し、自我と現実の再統合を果たしたのち、ついに生と死の均衡と再統合が図られる、とでも言えばきれいで聞こえが良いが、いかがなものか。中沢氏や河合氏の解説も第三章は歯切れが良くない。中沢氏の言う旧石器的思考対新石器的思考というのはまあ斬新だが、そうはいってもゲドもアレンも新石器人だ。河合さんは老若の組み合わせの示唆するもの、竜は夢であることの暗示、あてどなき第三巻の旅と精神分析の類似性などを語っているが、どちらかというと感触的なものに過ぎない。
ではお前は、と言われるとさしたる定見までたどり着いてはいないのである。が、語ってみよう。まず思ったのは、「死があるから生が輝く」という言い方が多く出てくるが、これは相当用心して語らないと率直に言って説教臭いせりふである。僕は何度か死にかけているのでその意味は少しはくめるが(もちろん反論もある)、普通はきれいごとであり説教でしかない。その点においては第三巻は成功してないように思う。「生を拒否することで死を拒否する」という言い方もあった。これならわからんでもない。まるで生きていないように組織に順応して、そのことで組織内での死を拒否しているひとは、サラリーマン人生ではまあ数多く見かけてきた(笑)。でも作者はそういう意味で言ったんじゃないかな?
それほど話の中で発展的に扱われるわけではないが、「何かをすることの方が何もしないでいることよりずっと容易なんだ」というのは感心したというか大賛成だな。この趣旨の発言は2-3箇所で出てくる。僕は昔から人間の知性(特に自分およびもっともらしく活動的な人々のそれ)への不信が強い人間であり、「小ざかしいことはしない」というのが一番好きである。他人がそういうことをすると、その人間を懲らしめるために知性を使うことはわりと良くある(笑)。「ある」人生と「する」人生の選択、というバリエーションもあったな。僕はもちろん「ある」派である。
もう一つ断片を挙げると、皆が魔術を失い呪文を忘れ悪くなってゆく世の中、そのことを語るまいとする世の中というのは、新自由主義のここ20年弱だったかという気がする。ベルリンの壁が崩れた時にどこかで世界に穴が開き、正義だとか高潔だとか慎みだとかいう美徳が吸い出されてきたように思う。著者は60年代のことを言っているのかもしれないが。
さて、断片ばかりいっててもカタがつかないので、醸成不足ながら締めておこう。一番印象に残ったのはゲドがアレンに言った「そなたは根が深い」というひとことである。そう、根が深いひとはいるのであり、若くして根が深いひとには無限の可能性がある。願わくは、この先10年ぐらい、根の深い若人とともに力を尽してこの世に開いた穴をふさぎ、高潔な世の中の再来を夢みて隠遁するあるいは死にゆきたいものである。

なお、解説本「ゲドを読む」は中沢新一、河合隼男、佐藤忠男などの一流の論客がゲドを論じている。やはり中では中沢氏、河合氏の話が示唆するところが多く、上の論評にも溶け込んでる。というか、あんまり素直じゃあないんだけど、彼らが論じているのをみてそれはちょっと、という方向から辛うじて自分の論がまとまった感じである。最初に論じた人々には深謝。あと、収穫だったのは、映画の監督の宮崎吾朗が、案外に考え深いことを知ったこと(河合氏との対談)。映画自体は評判悪かったけど、またその評判には同意するけど、これを読んで「次は頑張ってな」と言ってあげたくなったね。