御託専科

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「半沢直樹」にいちゃもんつける人たちの器量

2013-09-23 21:51:58 | 書評
言わずと知れた半沢直樹だが、金融経済の専門家というか銀行にかすった業界の人が結構文句をつけているのがおもしろいのでちょっと書いてみた。

誰だったかが「ばかばかしい、登場人物は全く付加価値を生んでいないことばかりに取り組んでいる」とか言ってたがこれは全くのお笑い草である。
金融もので言えば古くはライアーズポーカー(これはノンフィクションだが)とか虚構の篝火とか、最近で言えばFiascoだとか、大体そんなもんじゃない?まともにやってる連中のまともな仕事はマニュアルとか教科書にはなるけどあんまりおもしろくないからおもしろい小説やノンフィクションにはならない。付加価値、っていうなら、ここに挙げた本みたいにあからさまな価値破壊をしていないだけ半沢はまっとうと言えるかもしれない(笑)。この文句つけている人はどういうものが興味深い物語になるのかがわかっていないのか、あるいは良くある一般的日本企業や日本人を非難することで自分を差別化したがる反日的日本人ってことだろう。

そのほかにも、不良債権の実態とずれているとかあんな国税検査官はいないだとか、そんなことを言っている人も多かった。そこはまあ僕も認めないわけではない。リアリティということでいえばどんなものかなあ、と思う場面はある。
でもね、そういう気分を持つ人に対して言っておきたいのは2点。ひとつは筒井康隆の言葉である。彼は「文学部唯野教授」はすべて実際の事件などをもとに書いたそうだ。ただそれがすべて同じ大学で同じ時期に起きると狂気じみたまたこっけいな話になる、とも言っている。そういうことは半沢にもありましょう。
それから、言い逃れではないがフィクションはフィクションである。黒澤の七人の侍を見ながら「あんなことがあるものかい」と時代考証的にいう人はそんなにいないだろう。羅生門の原作の芥川の「藪の中」だってあんなことはない。ドストエフスキーのカラマーゾフだって大審問官みたいに次男がとうとうとしゃべるってことは現実には起きそうにないよね。他にもいくらでも例は挙げられましょう。フィクションにはフィクションのあり方と言うものがあるのであって、半沢だってその中で解釈されるべきだ。

要は言いたいことは、半沢は再現ドラマではない、と言う当たり前のことだ。もちろん日本の銀行と言う舞台を使うことで背景に関する暗黙の説明を大幅に現実から借用していることは間違いない。しかしそれだけのことだ。
批評する人はフィクションとして、物語としての半沢をぜひとも論じて欲しいね。現再現ドラマとしての出来に細かないちゃもん付けるのは器量が疑われるし、再現ドラマと思って銀行批判をするなんざあ少々恥をかいているともいえるかな。

それでお前どう思うって? それは稿を改めまた(笑)