御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

東京学生映画祭に行って来た

2015-05-31 08:52:38 | 時評・論評
縁あって東京学生映画祭に行って来た。
初日の金曜日がアニメ、2日目3日目が実写で、2日目を見た。
4本の出展作品と、1本の海外学生映画の特別映写があった。
4本の作品は以下のとおり。

自転車の外へ(多摩美):閉塞した島での高校生の生活、そこから抜け出そうとする主人公の姿。古いカメラとそれを狙う銃を持った中国語を話す女がスパイス。

日陰のスワン(早稲田):合唱団のピアニストの座を新入りの男の子に奪われる女の子の話。そのつらさとそれを受入れアルトに回って歌うことに積極的に取り組む姿を描く。

雲の屑(多摩美):田舎の閉塞した人間関係を、その中で展開されるネットワークビジネスと東京から帰ってきた凶暴な男を中心とした暴力から描く。

みんな蒸してやる(多摩美):案山子になりたい男の子とその男を慕う妙な女の子の物語。小ネタの連続で展開してゆく。

実写部門の審査員は大林、深田、古館。


作品に関して、また審査員のトークに関していろいろ感想はあるが、現時点では審査の結果が出ていないので記載しない。審査の結果が出たあと編集しなおす。

ひとつだけ海外作品の特別上映について、これは審査に直接関係しないので感想を言っておく。

作品の名前は「アルバート」。ポーランドの映画らしい。役者の迫力がすごいね。また荒涼とした工場地帯の光景が印象的。そこで働くアルバートは、食事やリラックスする時間さえも管理された工場労働者である。途中ねずみをひそかに飼うが、処分させられてしまう。隣に居た年老いた従業員は、咳が止まらず生ごみと一緒に運ばれてしまった。なにやら1984みたいな話。
しかし率直に言って古いね。ついこないだまで社会主義国であったポーランドではあのように時間がとまっているのだろうか?そのような世界がまだ記憶に新しいのだろうか?なんか不思議だね。
僕たちの現代の課題は、社会のほとんどの人が自由にある程度以上豊かな暮らしをしつつも何かに従属しているような、あるいは不安に押しつぶされそうな気分を持っていることなんだよね。ケインズの言う「孫たちの経済的可能性」を実現してなお人間が幸せにならないのは何でなのか、ということだよね。そういう視点から見ればこの話はもう済んだ話である。いったいどこが高く評価されたのかわからない。ま、学生映画だからこんなもんかなあ。

本日の夜に改稿します。

6/6追記:その日の夜に感想を書くつもりが1週経ってしまった。賞は「雲の屑」が観客賞もグランプリももらう総なめ状態だったようだ。それ以外はこの日のものは賞なし。
で、僕の感想。

自転車の外へ:題名がダサイよね。自転車でいける外、島の外の世界へ、という希求と希望を描く、ということであればもう少し題名もあったような気がするなあ。さてストーリーだが、確かにじいちゃんも父ちゃんも土方だとか、たった4レーンしかないボーリング場だとかそこで会うのは同級生で男でつるんでるとホモと簡単に言われるとか、島の閉塞を表現した場面は少なからずある。最後に丘に登ってカメラを構えフラッシュが光る場面で終わる。外への意思を象徴した場面かな。こういう風にせんをひけばまあいいかな、と思う。が、古いカメラの意味がいささかなぞだし、それを取りに来る中国語を話す銃を持った女とかその依頼者、最後の場面での発砲を含む両者のいさかいとかわけわからんので、そっちのほうの派手な動きに頭が行くと閉塞だのなんだのは印象から外れてしまう。もっとじとっとした閉塞を救いない感じで静かに描いてもらいたいと思った。

日陰のスワン:これはストーリーと画面が一番まとまっていたかな。その分印象が薄味だったと思う。案外余白が悪くないよね。ピアニストの座を奪われたあとのヒロインが静かに夜にピアノに向かっているところとか、奪った男の子と囲碁をしたあとの一人顔とかね。しかしヒロインが先輩に襲われそうになる場面は必要だったのかなあ?あれなしでもいいような気がする。

雲の屑:これは賞もとったし評価も高い作品だな。男の世界の不条理な暴力性のある交友というのは良く描かれているなあとは思った。要は「ブラック」ってやつね。ただ、最も凶暴な男の暴力が突出しすぎていて、それだとあいつが悪いって感じになる。実はネットワークビジネスやっているやつもその周辺も十分に暴力的な人間であり、そのことも描かれているのだから、「スターリン」と呼ばれる男の凶暴性を少し抑えたほうが、不条理な暴力性のある交友の描写、という点では優れていただろう。あと、ヒロインの女子高生の役割が薄く感じられた。またスターリンの最後が異人にバットで殴られて終わりかい、って感じ。彼が死んでも不条理な暴力性のある社会は続くんだよなあ、ヒロインにも救いがないんだよなあ、ってところで終わるとよいと思った。

みんな蒸してやる:まあこれは小ネタの連続だから統一的にどうのこうのという話ではないが、監督さんは人並みではない発想を持つ人なんだという印象は強かったね。

あとは審査員。大林さんはもうだめだね。ピンとはずれだったりあまりに包括的過ぎて異論が出ないような話をするだけの人であったように思う。昔話はある程度面白かったが。深田さんは実に誠実で的確な評価をする人だと思う。作品へのコメントは実に的を得ていたし、「技術的進歩が映画監督の特権性をなくした、皆が競い合える時代である」という認識は実に鋭い。古館さんも面白くまた心得たコメントしてたね。




社会的惨事の消化あるいは昇華の仕方-東日本大震災4周年に思う

2015-03-14 15:34:24 | 時評・論評
親族の命日はその人物をしのぶ契機である。普段は雑事にまみれた生者たちも死者の生前の姿や言動を想起し、感慨を持つ。そのことにより死者は生者の記憶の中でなおも生きることができる。年を重ねるにつれ感慨は丸みを帯びてくるだろう。次第に薄れていくだけかもしれない。しかし、それはそれでよいのだろう。そうやって死者は緩やかに生者の中でも消化されまた昇華され、ある意味再びの死を迎える。そして次はしのんできた生者の番である。

この3月11日は東日本大震災の4周年であった。テレビは追悼的番組一色であったようだ。私は一切そのような番組を見ていないが、あれこれ聞くに感情的なものが多かったように聞く。また原発絡みで誤解を広げるような話もいまだに絶えたわけではないようだ。まあいつもあるような日本のテレビ放送がされたってことだろう。

追悼というのは本来宗教的感情を伴うものであるから、感情的になるのはまあ当たり前である。しかし冒頭に述べた親族や身内、知り合いならともかく、社会的追悼となると少し違ってくる。皆で黙祷をする、ささやかに式典をする、ぐらいならいいんだが、テレビがあり新聞があり雑誌があり、実に余計なことをしでかす。他人の追悼の感情を理解したつもりになって安直な映像にまとめて適切な時間に収め、直後にコマーシャルを入れてスポンサーから金をとる、というのそもそも最低であるが、それに似たことを新聞も雑誌もやっている。テレビの場合で言えば、多くのああいった映像の背後に感じられる世をなめたテレビ関係者の傲慢を思うといつもむかむかする。追悼どころか冒涜である。すぐにテレビを消すかチャネルを変えてしまっていたが、近頃はテレビのニュースや報道番組、ドキュメンタリーは一切見ないようになった。わざわざ腹を立てるために見ることはない、という当たり前のことである。

こんな風に自分が腹を立てるのは、原爆の町に生まれたから一層強い感覚があるのかもしれない。まあテレビの話ではないんだが、その日のちょっと前ぐらいから共産党系の原水禁と社会党系の原水協の連中が町にやってきて、追悼とか原爆許すまじ、とひと騒ぎして帰る。あとは何にもない。僕の親戚にも居た原爆の生き残りの人や原爆で死んだ人の親族が持つ追悼の思い、惨事の消化と昇華には全く関係なく騒ぐだけであった。今は地元を離れたからわからないがおそらく今でもそうなんだろう。冒涜の馬鹿者どもめ。ああいう輩を駆除する権利がほしいものだ。

別に遺族や被害者に寄り添ってくれ、というつもりはない。おそらくいやらしいべたべたとした寄り添いをされるだけだ。いや、しているかもね。そんなことではない。ほっといてほしいのだ。ほっといて、まあそれでも気がすまないなら遠慮がちに話を聞いてくれ。もし被害者や遺族が許すなら画像でも文章でも記録にしてくれ。ただし、安直に編集せず。そして、希望を穏やかに聞いてくれ。金かも知れない、追悼施設かも知れない、あるいは遺族や被害者の前から黙って立ち去ることかもしれない。取材者の感情を満たすのが目的ではないのだから、遺族や被害者の思いが最優先である。

これが追悼としてできることである。それ以上は何もない。復興を助けるなら金を落とせ、職場を作れ、遊びに行け。それでいい。そしてうまい食事にうまいと言おう。TOKIOのように。ただしこれは追悼ではない。ある地域に対する経済的な手助けである。恩に着せることなく金をおとし、必要がなくなれば黙って引こう。

まあそういうことだ。しかし社会としての追悼にはもう一段やるべきことがある。徹底的に科学的にまた理性的にやるべきことをやる。更に、その惨事の原因となった罰するべき対象があれば罰するのだ。そして一歩一歩進めてきたことを周年日に報告するのが真の社会的追悼であろう。原爆に関して言えば、市の中心の平和公園から過去帳に記された人々が町の発展を見守っていると考えたい。でも復興の歩みは毎年忘れずに報告しよう。あと原爆は震災と違って人災だから、人災を起こした人を裁こう。だれがなぜ落としたのか、それに罪はないのか、ということの明確化しよう。おそらくアメリカの大統領の謝罪と、ルメイの子孫の謝罪が必要だ。本当ならルメイとトルーマンを平和公園で磔にしてゆっくり死んでもらうぐらいの罪なんだがね。いや、それでも甘いかもしれない。この罪の明確化を徹底的に怠るがごときことをしたは残念なことだ。「あやまちはもうくりかえしませんから」ではなく、「過ちはもうくりかえさせませんから」という構えを取り戻すことだ。敗戦後の政治状況で困難であったことは良くわかるのだが、60年安保の学生の騒ぎのときにアジェンダとすることはできたと思う。何らかの工作をして学生運動側から提出させアメリカの世論に影響を与えることで何かが変わったかもしれない。今からでも遅くはない。いろいろなやり方はあると思う。

東日本大震災については、現在までの復興を周年日に報告しよう。何がとこまで戻り、何がまだ(もう)ダメか、は実は皆に知れ渡っているわけではない。徹底的に科学的にまた客観的に記述し、犠牲者の前に報告をすべきである。全国の原発を止めてしまうというとんでもない二次災害を民主党政権が引き起こして、それを自民党政権も元に戻せず国富を失っているが、それも客観的に報告しよう。そうした淡々とした事実の報告と記録を行い、その整理・記述する行為自体が行政の優先順位の設定をより厳しく規定し、包括化して行くことは大変結構なことだと思う。そうやって進展を伝えるのが社会としての惨事の追悼の仕方である。

フランスの風刺画新聞社襲撃事件について:これは殺人事件であって、言論の自由とテロの戦いではない!

2015-01-18 17:07:59 | 時評・論評
この件についてはたくさんの人がいろんな意見を言っているから、僕なんぞが言うべきことはないんだが、もやもやするので下手なりに書いておく。

1.あの風刺画は最低である
第一に言いたいのは、あの風刺画は最低である、ということだ。風刺というのは権力と権力をからかうことにあるのである。フランス社会でマイノリティーのイスラム教徒を対象にしてどうする? やるとしても一番最後だろう? カソリックとかアメリカとかフランス政府が本来大々的からかいの対象でしょうが!
それから、あの絵はどこがからかいなんだ? 単に侮辱しているだけじゃないか? 描かれたほうも気分によっては苦笑いするような、そういう絵を描けよ。クオリティが最低の仕事をしている。風刺画じゃなくて侮辱画だ

確かフランスでは大震災のとき腕が六本あるゴールキーパーや3本足の相撲取りを描いたよね。弱っている国に誤解というよりも侮辱・差別とも言うべきメッセージを出してきた。あんときも何が風刺だ、何がユーモアーだ、とい思ったが、今回も一緒だね。少数派・弱ったものに対して当人にとっては侮辱か差別としか思われないものを出してくる。フランス人の風刺だとかユーモアは要はヘイトだね。今回のではっきり見切りがついた。

2.ユーモアーは伝わらなかったら発信者の負けである
襲撃後の記者会見で「テロリストはユーモアがなかった・理解できなかった」とかほざいているらしいが、そりゃ芸人がスベッたとき、「観客はセンスがなかった」といっているようなものだ。見苦しい負け惜しみでしかない。相手につたわるように描けばいいのだ。イスラム教徒を苦笑いさせる風刺画を一生懸命考えろよ。ムハマンドがケツこっちに向けて星出しているのなんて誰も笑えないよ。風刺なら風刺らしく、まじめにやれ。

3.人殺しはいけない
それでも人殺しはいけない。下らん侮辱画を書いた人間を殺すのがいけないのではなく、どんな人でも殺してはいけない。それがすべてだ。
侮辱画があまりにひどいからといって人殺しが許されるわけではない。
ただ、逆も言える。殺されたからといって侮辱画に何の問題もないということではない。

4.言論の自由は別途論議すべきである
ホームズ判事だったか、「映画館の暗闇の中で、実際には何も起きていないのに「火事だ」と叫ぶことはいかなる基準から見ても言論の自由として守られるべきことではない」といっていたがそのとおりだと思う。社会的圧力とか正しい慣習により守るべき範囲というものを守らせる必要があり、またやむなき場合は名誉毀損などの法的手段を確保しておく必要があろう。ただ、「どのくらいなら」というのを明文化するのは難しいとは思うので、必要があれば誹謗中傷の被害者が対抗できる手段を確保するといったことで整備すべきであろう。
侮辱画を描く自由が全面的に認められるかどうかは社会的判断だ。侮辱画を書く自由=言論の自由⇔テロ 見たいな形で扇動された400万弱のフランス人と巻き込まれた(言論が自由でない)各国首脳の興奮が収まったところでまともに論議したらいいんじゃなかろうか。そうでなければ言論の自由に名を借りたイスラム迫害だね。

5.これはフランス国内の問題である。
日本で言えば在特会の(初期の)デモにしばき隊が武器を持って殴りこんで死人が出たような話である。何で世界的な話に騒ぎがひろがるのか?
フランスはイスラム教徒の過激化を防ぐ必要があるし、自動小銃なんてものが国内に出回っている現状を何とかしなければなるまい。

朝日新聞騒動に思う

2014-09-04 21:54:37 | 時評・論評
今日は9月4日である。8月5日に慰安婦誤報をなぜか傲慢な物言いで認めた朝日新聞の苦境がますます加速している。最近はネットや雑誌だけではなく他の新聞まで(毎日まで!)砲撃を浴びせるようになった。つい最近は池上彰の批評掲載拒否がきっかけとなったのか、記者たちの自社批判がツイッターでも飛び出してきた。その前の文春などの広告掲載拒否ではそれほど動かなかったかに見える社内が、中立色が強く知名度の高い池上氏を拒絶したことで表面的にも見える形で動いたわけだ。ちなみに池上記事掲載拒否の第一報は文春である。で、ひとしきり騒ぎがあって朝日側は折れて掲載することになった。が、一回拒否したことはいつまでも残る話ではある。それにしてもツイッターや内部のメール(これも文春が暴露)によれば編集長とか社長とかはまだ自分たちがどういう立場にいるかわかってないようだから、まだまだ爆撃は続くし燃えるネタはある。この先どういう燃え方をするのか。それからNYTとか海外メディアはどう反応するのかね。誤解が解けるようにうまくいけばいいのだが。

今回の件そのものについてのこれ以上の仔細はしっかり書いておられる方が多数いるのでそちらに譲るが、今回の件は、自分があるとき戦ってきたこともある朝日新聞的なものについに終止符が打たれようとしているという観点から大変興味を持ってみている。そもそも朝日新聞については、いやらしい顔をした紅衛兵の写真とともに文革をたたえるがごとき記事を出したり、北朝鮮が天国で朴政権の韓国は地獄みたいな記事を書いていたので胡散臭い新聞だと思っていた。ベトナム戦争でサイゴンが陥落したとき、「北ベトナム勝利」ではなく「ベトナム 解放」と大見出しが打たれたのには非常に腹を立てた。ここまで価値観丸出しの報道をしていったいどういうつもりか、「解放」っていったいなんだ!と2-3日立腹していた覚えがある。

こういう朝日新聞の何がいやだといって、要は上から目線でまた非論理的でまた陰湿であるということだ。えらそうに語るが論理の筋が通っておらず、最後は心情的なものまで持ち出して結論を押し付ける、あるいは拗ねる(笑)、あるいはイジけるようなものばかりだった。「こうこうこうだから俺はこう思う、どうだ!」みたいな、自分の立場と考え方を堂々と打ち出したさっぱりした論議ではなくて、ああいう話もありこういう話もあり、だがら一概にそういうことをしてはいけないんではないか、みたいなうじうじしたものが実に多かった。天声人語なんてうじうじした悪文の典型で、論拠の曖昧さや論理の矛盾を指摘せよ、という問題を作るには好適な教材であった(笑)。だから天声人語を写経のごとく有難く写すノートが出たときには本当にびっくりしたよ。

でもこういう話が朝日新聞にとどまるならよかったんだが、そうでもなかったんだよね。大学生のときはまあそういうストレスはなかった気がするが、高校のときは「「ベトナム解放」って偏ってるよね」と説いて回っても誰も賛意を示してくれない。まあどうでも良かったのかもしれないが。日本の会社に入社して社会人になると、「なあにを偉そうに言いやがる」とか「お前論理学ってやつを教えてやろうか」てな話が多すぎて少々驚いた。なんだか全て朝日新聞的に見える。偉そうに、非論理的に語り情緒で結論を押し付ける。こんなんばっかりだったねえ。ただしその方向性は必ずしも左翼がかっていたわけではない。熱血上司なんてのもその類だったかな。そういえば金八もそうだな。僕は大きらいなのは朝日新聞的だったからだな、どうも。その後外資やベンチャーで暮らしているせいか、あんまりそういうのは感じない。まあこういう場所は生き残るのが大事な仕事だから上司も与件、同僚も与件として割り切らなければならないからね。けしからんと息巻く気構えが少々衰えていることは認めるところであるが。

朝日新聞がめでたく変身したりつぶれたりしても、かわらぬ日本の社会が土壌となって同じようなものが栄えるんだろうか?それとも世の中はすでにまともに変わっていて、朝日が偉そうで非論理的で情緒的な人たちの最後の砦、ということなのだろうか。まあ反原発とか沖縄の基地の話とか反安倍デモとかの悲壮感というか孤立感を見ると心情的左翼どももかなり追い詰められていると思われるから、おそらく後者ということを期待したいがね。それは朝日が変わるかつぶれるかしてしばらくしてわかるんだろうな。

檀れいと松下奈緒の発泡酒コマーシャル

2014-07-13 17:36:54 | 時評・論評
サントリーの金麦の檀れいのコマーシャルは有名ですよね。僕はあれを初めて見たときはなんとあざといコマーシャルかと思ったね。アラフォーにしてあのかわいらしさを保つ檀れいを使い、バックグラウンドの曲になつかしの深夜ラジオのオールナイトニッポンのテーマソングを使っている。なんか露骨な団塊親父狙いだなあ、と思ったんだよね。こう露骨に標的にされたのでは僕よりちょっと上の団塊の人たちもいやになるだろうに、と思ったらそんなことはなくて。結構大評判。若い人でも録画してみてるっていってたな。確かさんまの番組で三橋さんだったか誰だったか。
しかしあんなんにころっと行くなんてちょっとちょろすぎはしないかい? 魅力に絡めとられるにしても檀れい自身は本当は決してあんな女じゃないし、いろいろ考えればコマーシャリズムたっぷりのたちの悪いファンタジーというのが見え見えの作品だよね。
なんて思ってたら、松下奈緒のアサヒプライムリッチが最近金麦の後追いを始めた。松下奈緒に檀れいと似たようなことやらせてんだよねえ。なに考えているんだか。まえの「リッチしよう」を「エッチしよう」と紛らわしく聞かせるバージョンがいろいろあってやめることになったってこともあるんだろうが、クリエーターとして恥ずかしくはないのかね、後追いということは。それに檀れいは骨細で小柄だけど、松下奈緒は大柄で骨太。あのオクターブらくらく届く大きな手は並の男より大きいかもしれない。そんな女にひたすら可愛い路線をさせても間違ってるよ。誰がいったい喜ぶんだろう(その意味では松下奈緒の「清純派」路線自体少々間違ってはいるんだけど)。

とか僕は思うけどこれも受けているのかなあ。もうちょっと皆さんいい趣味を身につけてテレビの画像の浄化にご協力願います(笑)。
久々なのに少々詰まらん話題で恐縮でした。

河野談話は見直しはしないが骨抜きにする、という戦略なのかな?

2014-03-16 02:06:15 | 時評・論評
こないだ菅さんが河野談話の継承を言って、米国が「いいことだ」とえらそうに言ったら「前から言っていることだ」とさらりとかわし、安倍さんも同じことを言って、韓国大統領に「評価する」といわせたようだ。これだって前から言ってるわけだからいまさら評価も何もないのだが、形の上でポジティブな発言を引き出してきたのはなかなか大きいね。

で、切り札というか脅しのカードはまだこちらの手の中にあって、それが河野談話の検証、というわけだ。河野談話が朝日新聞と福島瑞穂のでっち上げに乗じてかさにかかったヒステリックな韓国を鎮めるために作ったきわめて粗雑な政治的なものであり、その内容については検証が足りないし実は日韓外務省と政治家たちの合意の作文だった、これで韓国はおとなしくするといった、ということが維新に答える形で国会で報告されれば、河野談話は無力化する。今後は河野談話を出すことになった問題が捏造されたものであり、またそんながせねたで韓国がヒステリックに叫んだから仕方なくやった、それでおとなしくなる約束だったんだ、という注釈が河野談話に対しては必ずつくようになる。

ということでさすがに韓国も検証はいやみたいだね。検証カードを温存しておとなしくさせるか、今後ぎゃあぎゃあ言わせないために検証して反証しやがれ、とやるかはまあ情勢しだいかな。
しかしいつの間にか日本の外交もしたたかになってきたものだと思う。ま、検証カードの使い方を見るまでは断言できないが、今のところはうまい。この調子で何事にも対処してくれるとよいね。

韓国がしつこい訳

2014-03-01 17:33:02 | 時評・論評
朴大統領が就任してからというもの、韓国の日本に対する口汚い非難は絶え間なく続いている。前の李大統領のときも後半はひどかったが、まあ自分が大統領辞めてから逮捕にされたり死刑にされたりされないためのポーズと思えばある程度理解できるし、まだ交渉の余地はある非難の仕方であったように思う。

しかし朴さんになってからはまあひどい。ひどいもんだから日本国内でいつも登場していた「いやいやそうは言っても日本にも悪いところはあって」という連中も鳴りを潜め始めた。日本人すべてが嫌韓になりつつある。政治家ならば加減のいいところで撤収・休戦しなければ本当に日本を敵に回すことになる。そのときに中国が頼りになるなどと思ってはいけない。そもそも頼りにしてはいけない相手だし、日本と中国は嫌いあっていてもまだ共生に向けて話し合う余地がある。いや、中国は共生なんて考えてないかもしれないが、少なくとも小康は望める相手である。韓国は本当に孤立する覚悟と、自らのでっちあげと暴論とともに心中する覚悟があるのだろうか? あるのならばそれでよい。しかし全国民的合意は恐らくない。空気を見て黙っている人が風向きの変化があれば表面化して、恐らく世論は対立する、あるいは一気に逆転するだろう。下手をすれば大統領は石もて追われるだろう。それまで日本は、身にかかる火の粉は正論で振り払いつつも、力強く、冷静で毅然とした国家であり続ければよい。敵失は冷静でない側に必ず発生する。

おっと、そんなことを書こうと思ったのではない。上のような事は結構立派な論者が冷静におっしゃっていることなんでそちらをご参照いただきたい。
本題は慰安婦の件である。韓国があれほどまでにしつこいのはなんでだろうと思うわけだ。というのは、植民地での被支配のなかで問題が生じたことはいくらでもあるだろう。それを慰安婦に絞っているのはなぜか? 

実は日本の植民地支配は相対的には案外まともだったので欧米への訴求力のある事案がほかになかった、とか、偽の証言をした軍関係者がいてそれを広げた朝日新聞と福島みずほがいて、要は日本のオウンゴールだったから乗りやすかった、という面もあろう。
しかしふと思ったのだが、これは韓国人の売春婦も含む女性への性的扱いのひどさを反映しているのではなかろうか、と思う。最近読んだ記事で、フィリピンの売春婦のあいだでもっとも評判が悪いのは韓国人だそうだ。サディスティックで実際結構暴力も振るい、見下した態度をとり、金払いも悪い。カネを払うときは地面に投げつけるようなこともするそうな。まあ女を買うなんて連中がすべて上品って訳じゃないからどこの国にもこんな連中は少しはいるだろう。が、韓国のたちの悪さはどうやらフィリピン人を見下すがゆえに生じているようにも思われることである。そんなメンタリティがあればこそ、ベトナムでのあの非道な行動があったのではないだろうか? そして、そういうメンタルを背景に、自分たちが格下だった被殖民時代にはきっとそんなサディスティックで見下した扱いを女性が受けたに違いない、と思っているのだ。確たる証拠はないし検証に耐えない話で暴走すれば大ブーメランで大怪我をするリスクを負っている、ということが普通ならわかってもよさそうなのだが、直感的に絶対そうに違いない、と思い込んで感情的に突き進んでいるのかもしれんね。まあ偽証・詐欺の類が日本の500倍ある国だから本心はわかりませんがね。

「楽しんできます」とか「楽しむことが出来ました」だとか、ほんとに思っているの?

2014-02-10 16:53:06 | 時評・論評
ソチ五輪が始まった。まあ僕はあんまりウィンタースポーツのマニアではないんだが、こういうときしか見られないスキーの滑降だとか大回転だとか、ジャンプなどには素直に興味を引かれてついつい見てしまう。スピードスケートもそうかな。残念ながら人気のフィギアスケートは今ひとつスポーツとも思われずそれほど興味がもてない。マスコミがこぞって立派なアスリートを捕まえて「真央ちゃん」なんて呼ぶのもとてもいらいらする。あ、そうか、そりゃスポーツじゃないってことかな?

じゃあスポーツってなんだよ、とふりかえると、要は一定のルールの下で定められた目標の最大値を競うもの、ということである。制約条件つきの最大化を競う。それが高さ・遠さであったり速さであったり。フィギアみたいなのには「美しさ」ってのが入るんだろうけど、それは競技的な美しさってことにして欲しいよね。そもそもなんだよあの音楽とかコスチュームとか。審査員の目を幻惑しないために統一の制服にしちゃうとかね、そんなことがあってもいいんじゃないかねえ。

なんかフィギアスケート批判になったけど本題はそんな話ではない。今回のオリンピックに限らず、最近は日本選手がよく、「楽しんできました」とか「楽しみました」とか答えていることが多いが、これははっきり言ってとっても聞き苦しい。本人の言葉ではなく、なにやら場の空気が言わせているような気配がにじむ。どうにかしてくれ、というのが言いたいこと。

いや別に竹田恒泰氏みたいに「負けたのにへらへらと「楽しかった」はありえない」とかそんなことを言っているわけではない。国費を使っているのだから楽しむなんて事を言うなよ、と言うわけでもない。選手は個人としてその資質の高さと厳しい訓練によりオリンピックの地を踏んだのである。そこに選ばれるために大変な努力をしたわけであり、国としても周囲の人間としても余人をもって代えがたし、と判断して選んだのである。その意味ではそのこと自体を誇りに思ってよいわけだ。国や周りの人に感謝はするものの、そんなにいちいち恩に着る必要はない。お互い様である。

でもね、やっぱり思うことを言おうよ。「楽しんできます」というのはやっぱりとってつけたような言葉だよね。自分の言葉じゃないよ。もしその手の言葉があるとすれば「なんだかわくわくしますね、ええ」ぐらい言ったらいいんじゃないかなあ。終わったあとは「クッソくやしいです」「いけるとこまではいったと思うので満足です」「最高です」「超気持ちいい」って言えばよいじゃん。まあインタビュアーがどいつもこいつもボケばっかり、という問題はあるんだけどね。欧米の選手の言い方とかマスコミの期待に無理にあわせることないよ。あなた方の一世一代の晴れ舞台なんだから。

モンスター化する投資家たち -麻生発言に寄せて-

2013-06-16 17:29:04 | 時評・論評
14日麻生さんは株価について「もっと上がると思って損をしたとか、それはその人たちの感性の問題。その責任までこっちに言われても、どうにもならない。」とコメントしたそうだ。それと合わせて、今の株価12000円台は昨秋の8000円より5割高い、とも。まあこれはついでだが。

これは全くの正論である。政府にどうにかしろというのは投資家とは思えない物言いである。投資家は、政府の動きを読みそれに対する市場の反応を読み、そして儲けよう、という人たちである。ならば政策が思い通り出なかったからといって、あるいは政策への市場の反応が思い通りでなかったからといって(今回の件は明らかに後者だと思う)それを政府に向かってあれこれ言うのは明らかに筋違いだ。特に政策そのものというよりそれに対する反応であればますますそうだ。空売りすりゃいいところを買ったのか?それで損してぎゃあぎゃあ言っているのか? そりゃ投資家じゃないよね。投資家を名乗るのであれば、自らの読み間違いを恥じ、反省して次の機会はちゃんと儲ける(あるいは損をしない)ことを考えるのが筋である。

もっと言ってしまえば、投資家というのは、政府がやっていることが間違いであったとしても、そのことに対する市場の反応から利益を引き出そうとする者である。であるから、投資家というのは政策の良し悪しは論じない。政策に対する(およびほかのあらゆる要素に対する)市場の反応を読み、そこから利益を得る機会を見出そうとするものである。

じゃあ政策の良し悪しを論じるのなら、どうすればよいか。投資家という立場を一旦離れる必要がある。例えば僕はクロダバズーカは無意味だと思う。ただ多少害があるかもしれない。これは市場参加者のアホさ加減による(賢ければ無害である)。なのでやらないほうがよかった。今となってはいかにたくみに市場を騙しつつなれさせつつ撤退するかだね。でもこう語るときの僕は経済を多少知っている(つもり)の一個人としてであり、投資家としてではない。

90年のバブル崩壊ぐらいから投資家の劣化はどんどん進んで来ている。日銀はこうすべきだ政府はこうすべきだ、だから株価が上がらない景気が良くならない、で、そうは言わないけど「だから俺は儲からない、損をした。どうしてくれる!」と言いたいんだよね。しかしね、いまや個人でさえも如何様にもポジションが取れるわけで、失政と思えば空売りすれば良い。上も下も、また日本株に限らずなんでもできるのに、おそらく自分の塩漬けポジションに苛立って当局にむかって声を上げる。思いどうりに行かないとぎゃあぎゃあ騒ぐ、モンスターインベスターだ。騒げば騒ぐほど儲かっていない(あるいは損した)ことがわかるから、結構恥ずかしい話なんだよね。騒ぐ前にひと呼吸して反省を。なんていっても、反省も恥も知らない奴らにゃ伝わんないだろうけどね。


再び石崎ひゅーい。

2013-05-12 14:30:30 | 時評・論評
今度は石崎ひゅーいの「第三惑星交響曲」。実はこれも歌えるようになろうと思っていて、不覚にも途中で落涙してしまった。

優しい顔もシワもエプロンも全部
土星の輪の中に投げる
僕ら皆笑っていた

君がずっと泣き止まないものだから
神様もワンワン泣いて
僕たちは祭囃子のなか

このあたりでぐっときてしまった。こんな多義的な歌詞の何処に涙腺を刺激するものがあったのか。安直なお涙頂戴歌詞ではないゆえこっちが構える間もないままグイ、とこられてしまったのだろう。しかししかし、じゃあ何が迫ってきたのか。

優しい顔も~全部、って母親のことかなあ。親戚や近くの定食屋のおばちゃんでも良いなあ。母性と包容力と寛容の象徴だろう。それを「土星の輪の中に投げる」とはどういうことだろう。投げてしまった、という悪い意味?そういうことでもないような。。。 「僕ら皆笑っていた」は、もし前節が悪い意味なら後悔の回顧だ。もし前節が良い意味なら懐かしみを込めた回顧だな。後者の見方を取りたいね。曲の前の方で「忘れないようにしたいけど忘れる」みたいな諦念を語っているので、土星の輪は忘却の象徴、あるいは忘却途上にある記憶のかもしれない。
なんてことを思いながら歌うと泣けてくる。君が泣き止まないのはなぜなんだろう。そうすると、「神様もワンワン泣いて」って、え、そう来るの?神様ってそんな泣いたりするの? って思っていると「僕たちは祭囃子の中」とくる。神のワンワンは祭囃子ってことかいな? 

なんて結局訳がわからないのだが、そう言った解釈を受け付けないが言葉がぐっとしみてくる、強い詩だ。僕にとっては西脇順三郎の「天気」にも匹敵する詩である。