御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

Young Artists Japan vol.2

2009-10-31 20:25:41 | 時評・論評
若手美術家発掘組織(というか会社)のタグボート(確か機械商社ミスミの元社長がやっていた)の主催する若手作品の展示会。有楽町の交通会館の12階を全部借りてかなり大規模に行なわれた(31日、1日)。
で、僕は31日本日行ってきた。えっと、かなり面白く見ることが出来たと思う。美術館以外のこういう場所は初めてだが、誰かの目に強くスクリーニングされていない、権威が確立されていないものをみるのはある意味非常にカジュアルに見ることが出来て楽しかった。やはり美術館では「有難いはずのもを見せているぞ、君はどう受け取る?」と聞かれているようでつらいことはつらいな。両方の経験が必要なのだろう。ただ、やはりまだ僕の目は型とか形があまりにもゆるいので、美術館のようなかっちりしたところで見たり本を読んだり誰かに指導してもらって下地を作ってゆく必要があると思う。

さて、備忘録として印象に残った作家を2人ほど。

田中 美弥佳: 墨絵で西洋的・現代的モチーフを描いていた。ただ、ミスマッチは面白いが意匠そのものは残念ながはそれほど好みでないかな。
http://fumikaya.web.fc2.com/

遠藤和貴子:余白の多い画面、そこに描かれる素の表情の女性たち。ちょっと面白く謎かけをされているようである。余白が大きく大判なので壁の少ない我が家では問題多くやめる。
http://wakikoendo.exblog.jp/

彼女らを含み作家は半分ぐらいはブースにいた。皆愛想よく、仲間内で固まることなくかといって媚びることもなくしっかり訪問者に対応していた。最近の若者はぼくらのころよりずっと出来がいいんだよねえ。ま、前からわかっていることだけど。

あと、タグボートのブースで本物のウォホール(キャンベルスープ)とリキテンシュタインをみた。村上、奈良もあり。

またあったら行ってみよう。

浜井浩一「2円で刑務所、5億で執行猶予」

2009-10-29 21:19:44 | 書評
「犯罪不安社会」も前に読んだ。浜井さんは多面的でバランスが取れていて、しかし主張に柔らかな芯がとおっているすばらしい犯罪学者である。
表題は、小室のようなセレブは大詐欺をしても人脈や資産があるから弁償したり立派な弁護を受けたりして5億だましても執行猶予がつくのに、そうしたことのない貧しく貧相な人は2円の盗みでさえ実刑になってしまう、という索漠とした現実を語ったもの。
このほかにもいろんな点からいろいろなことが論じられているのでまとめにくいが、印象に残った部分を転記またはまとめておく。ただし、「3丁目の夕日」の頃が実は殺人や強姦のピークで最近はその何分の一課まで下がっているといった、自分にとって既知の話は省略。

ポピュリズムの基本的手法は、わかりやすさと情緒の味付けである。

殺人の検挙率が高いのは8割以上が顔見知りの間で、そのうち4割は家族間で起こるためでもある。

団塊の世代の移動とともに殺人の検挙人員の山が移動しているのがわかる。

皮肉なことに、「最近の若者」を最も憂いている団塊の世代より上の世代が、尤も人を殺しているのである。
(1936-45年生まれ。この世代が、人口比で見ると尤も殺人での検挙者が多い)

プラトンの言葉「最近の若者は、目上の者を尊敬せず、親に反抗、法律は無視、妄想にふけって、道徳心のかけらもない。このままだとどうなる?」

昭和30年代は、些細な理由での一家皆殺し事件が多かった。経済的に余裕がなく、社会全体にゆとりがなかったのである。

家族内殺人は、心理的には自殺と同じような心理機制を持っているとも言われている。ある種の拡大自殺である。

いまや万引きは高齢者の犯罪といっても過言ではないだろう。

(高齢者が狙われるのではなく)キャッチセールスなどに引っかかりやすいのは社会経験は乏しいもののお金は少し持っている20台である。

ジュリアーニの言う割れ窓理論は、オリジナルを拡大解釈しすぎ

エビデンスに基づいた犯罪対策ーキャンベル共同計画

スケアード・ストレイトは再犯を促進する。

ブートキャンプは再犯率を変えない。

被害者の心情を理解させるプログラムは再犯を促進させる可能性がある。
-自己イメージ悪化、やけになる? というのが仮説。

日本で検挙され検察におくられる犯罪者は200万人。

検察の役割は治安の番人ではなく、刑罰の適切な運用、つまり、冤罪を生まない正義の実現ということになる。

200万人のうち98%が不起訴や罰金刑の勝組、2%が負け組。勝ち負けのポイントは財力、人脈、知的能力。

裁判で真実は明らかにならない。

いずれもある意味での価値判断や心証が重要である。・・・専門家の意見は証拠のひとつでしかない。裁判は、科学的な原因の検証や事実の解明の場ではない。多くの人はそのことを忘れている。

法学部のカリキュラムには一般教養を含めて統計学をはじめ科学的な思考を養う科目がほとんどない。

法律の世界はべき論の世界であり価値判断の世界。

158ページ東大ルンバール事件にかかわる最高裁の文書。これは実は具体的には何にもいっていない文章である。

法律家は、法律の専門家、つまり、問題を法的に処理する専門家であって、社会問題を解決する専門家ではない。

二大政党制は対立型なので、危機感があおられやすい。

社会科学において社会現象を説明しようとする場合、個体差以外の一般的な原理で説明を試みるのが原則である。

陪審員の離婚歴のほうが死刑判決に影響しやすい。

アメリカの成人男性の2%は刑務所にいる。

アメリカの法と秩序のキャンペーンの裏には根深い人種偏見がある。

倉橋由美子「ポポイ」

2009-10-28 21:47:37 | 書評
あらら、これを忘れていた、と読み直し。生首の話である。生きた生首。テロリストが入江さんのところを襲って、話し合ったのち自ら切腹、同時に仲間から介錯された。その首をすかさず拾い人工血液を流して水耕栽培のように生きながらえさせ、機械を通じた会話をかわしたり性的興奮を与えたり一緒に作詞をしたりする。世話をするのは入江さんの孫の舞さんでこれが主人公。時期はシンポシオンのちょっとあと。聡子さんは順当に宮沢夫人として収まっている。また慧くんが入江さんの孫?の神童にして大神秘家にして美少年ということで登場。舞は愛人のひとりでもある。

そろそろ飽きた。御伽噺ならいいが、現実に引き換えるといやになるねえ。美しさも賢さも優雅さも、所詮はよき血・よき家系ということだもんね。ま、三浦雅志は御伽噺でいいって言ってるけどね。「夢の浮橋」の親たちのスワッピングの醜さ・ダサさ、また容貌の凡庸さに随分親しみがもててしまうな(笑)。

入江一族が住んでいる家の描写が面白い。中に庭があり回りは銃眼のような窓しかない壁に覆われている。これは最高裁判所の建物を意識しているように思う。

切腹だから三島は当然出てくる。三島は空虚な伽藍を作りそこにご神体として自分を入れようとしたが果たせなかった、という物言いは実に納得。三島は確かに空虚だ。

さて、「夢の浮橋」のメモでもし優雅に禁忌を犯すなら性的なものばかりでなくても、と言ったが、まさにこれが回答だった。生きた生首を、あるいは人の生を、死を、優雅にもてあそぶということか。 生首の本人がそれなりに満足しているので案外嫌悪感は湧いてこない。いっぽうでちょっとままごと感が強く、優雅と言ってもしょせんそんなもんかい、という気はせんでもなし。生首が生きるという、またそれが最後は死ぬということのリアリティーのある陰惨さを少し見せ付ければ優雅さがよりコントラストとして生きたのではなかろうか。
所詮ロココ的優雅さというのはバロックとロマンという、ダサくて汗臭くて「本格的な(笑)」時代の幕間でしかありえない、幕間だから輝く、ということかもね。おっとこれは知らぬのに言い過ぎかも。

投資教育論の思い違い

2009-10-27 07:34:59 | 時評・論評
投資教育論批判はいつか遡上に乗せるべきと思っていたが、10月27日の日経にまた投資教育論が載っていたのでそろそろ批判第一回を始めようと思う。
17面の「一目均衡」で、編集委員の前田昌孝氏は「投資教育が必要な理由」と題して前半で投資教育の国際セミナーのことを報じ、後半で投資教育の現状を嘆く。

「個人が株式の役割を十分に理解していないから、「会社は株主だけのものではない」といって、低収益経営を続ける経営者も見られる。夢の実現にまい進する新しい企業はあまり育たないし、市場の健全な育成を忘れて不正に走る金融機関も後を絶たない。
だから日経平均に採用されている225銘柄に20歳になってから毎月1万円ずつ投資するという、投資の教科書が理想とするような中長期投資を続けたと仮定しても、配当を別にして、現在56歳以下の人は含み損状態だ。
こんな悪循環を放置していくら株式投資をしようと訴えても個人のお金が大きく動くはずがない。下手をすれば外国株投資の薦めになってしまう。投資教育の前にはまずはどうしたら経済が持続的に成長し、豊かになれるのかという「成長メカニズム」を教えることからの再出発が必要だ」

まあこれは暴論であることは読むだけで明らかであろう。個人株主に経済教育と投資教育をしっかりしさえすれば、そして個人投資家が増えさえすれば、ガバナンスがしっかりしてベンチャーを受け入れ成長を可能にする、不正のない市場が生まれるという夢のような話のようだ。じゃあその教育をするのは誰なのだ?筆者は、この論に入る前に、1996年に個人金融資産の5.6%を占めた日本株が最近は4.6%にまで低下した、と嘆いている。つまりこの間の大株主は法人であり外人であった。その人たちはちゃんとした市場育成ができなかったようだ。しかし教育された個人ならできるらしい。じゃあどういう人が教育する? 市場育成に失敗した法人外人には個人に教える資格があるはずがない。じゃあ誰が?いったいどういう成長教育であり投資教育を?
と、論旨を追うだけで矛盾だらけだ。こんなヤケになったような論議するのは反則である。まずは自ら想定する経済・成長教育であり投資教育を提示して、それを世に問うてほしいものだ。市場にとっての顧客である投資家を「教育する」という傲慢の問題はとりあえずはさておくとしても。

なお、そのあと著者が挙げている英国の「金銭教育」はいいことみたいだね。響きからすると、投資信託の手数料ぼったくりも含め、「投資教育」と称した高手数料商品や(隠れた)ハイリスク商品のプロモーションには気をつけよう、というのも含まれているんだろう。それはいいことだ。

倉橋由美子「酔郷譚」「「老人のための残酷童話」

2009-10-25 12:52:49 | 書評
「酔郷譚」は心筋拡張という、死に向けた悪化が自覚できる病で死んだ著者の最晩年の作品。短編集だが、慧くんという美少年、真希さんという美人のパートナー、九鬼さんというバトラー役を軸にさまざまな幻夢の冒険が語られる。ギリシャ神話と漢詩・中国故事、日本の中世近世の物語からの引用が縦横に広がるのはこれまで以上かも。エロティックさも一層軽やかながら際立っている。夢の浮橋以降、洗練と浮世離れが軽やかに進んでたどりついた境地であろう。

「老人のための残酷童話」は結構残酷な話が星新一風の軽さで記述されている。なかでは「天の川」「老いらくの恋」「犬の哲学者」がまあ印象に残ったかな。ちょっとほかは締め切りに迫られたような感じもないわけではない。

とりあえず倉橋由美子は締め。軽やかで高踏的な典雅さ、エロティックさはとても魅力的である。これからもこの世界に浸りたくなることはあるだろう。
ただ、浮世に典雅に遊ぶために恐ろしく才能と努力が費やされなければならないことは明白であり、それをする必然が今ひとつ納得できない。
①努力して典雅であるのはダサい
②典雅さは努力なしには身につかない
③したがって、典雅であろうとすること自体がダサいことである
というのが僕の怠惰是認三段論法かな。つまり、最も粋な人はディオゲネスである。

倉橋由美子「シュンポシオン」

2009-10-25 09:51:06 | 書評
「夢の浮橋」に登場する桂子さんの孫聡子と、耕一の息子であり哲学者の明さんを軸に、桂子さん、桂子さんと愛人関係にある元首相にして大変な教養人入江さん、明さんの妹とその夫の生物学者夫妻、明さんの前妻(死去)の妹のかおりさんたちが、恐らく伊豆方面の旅館(実は入江さんの持ち物)を舞台として繰り広げる知的にして高級な夏の宴。物語の中心軸には明さんと聡子さんが結ばれることになるという筋があるがそれ以上に絢爛豪華な古典から現代への知識教養の引用や披露、またそれらを決して衒学的に晒さない品の良さ、曖昧な会話を曖昧なレベルのまま終わらせるデリケートな神経の届き方などに全く感心する。聡子さんに擬すべき女性が知りあいにいるため、とても感情移入が出来た。残念ながら小生は自分を明さんに疑せるほどあつかましくはないが。。。
ただ、ちょっと面白かったのは、一夏のシュンポシオンが終わりに近づき皆が帰る算段を始めたあたりから会話の内容はまだ高踏的であるのにトーンが少し普通になって普通の宴会っぽくなっていることである。夢は夢、ということか。

書かれたのは1985年である。1975年作の「夢の浮橋」と比較すると性的な要素はかなり落ち着いている。決して後退してはいないが、絢爛豪華なコミュニケーションの一部を為すものとして、「あったほうがいいけどなくてもかまわない、香り・ほのめかしでもよい」より軽やかなものへと位置づけられていると思われた。著者自身の18世紀的ロココ的な成熟への進展を示しているのだろう。

なお、想定されている時代は2010年前あたりの、まさに今ぐらい。情報機器の発展は想定されていて情報を端末で自在に取り出せるぐらいのところまでは取り入れられているが、さすがにインターネットやそれによる大衆コミュニケーションの激変は算段に入れられていない。夢の浮橋でも出てきたが今回も出てきた「階級論」だとか、マスコミを通じた世論操作じみた話はさすがにリアリティーがないな。現実は、入江さんのような高級な人間が政治に足を踏み入れることが出来なくなった時代である。大衆化し、俗化した時代である。そして教養の社会的パワーが大いに衰退してしまった時代である。この本にもよく出てくる漢詩なんぞはとこかへ飛んで行ってしまった。竹内洋さんのいう「教養主義の終焉」である。

ではシュンポシオンは不可能か? いや、そんなことはないだろう。ただし、シュンポシオンを成立させるような人々が社会的にメジャーなポジションをとることはおそらくかなり難しくなっている(前から難しかったがさらに難しくなっている)。教養の高い思考についてゆきそれにつき語るような才能よりも、大衆に訴えかける弁舌のさわやかさが大事な時代である。なぜ? それは世の中がフラットになったからだ。かつてのような階級的選別プロセスで集団が高度化されることは、入試競争を除きほぼ皆無といっていいだろう。

まあそんなことがこの小説の価値を下げるわけではないが。でも、ここにえがかれている世界は、鎌倉武士に圧倒された平家あるいは平安文化の弱みのようなものとともに存在していると言っていいだろう。

倉橋由美子「夢の浮橋」

2009-10-21 12:49:21 | 書評
いやあ、なんとも知的で典雅にしてエロティックな物語である。源氏物語の現代版か。

桂子という聡明にして美しい娘が主人公。桂子は圭介と文子の娘だが、本当の父親は宮沢祐司という大学教授。祐司と文子はもともと恋仲で、文子は圭介と結婚した直後に祐司と駆け落ちをして、その後圭介に(非常に優しく)連れ戻されている。そのときの子が桂子というわけだ。つまり桂子は祐司の子である。
込み入ったことに、結婚10年後に圭介は文子に、祐司とその夫人三津子とのスワッピングを提案、当事者が合意しそのあと10年来その関係が維持される。その仲を取り持ったのが、祐司の前妻のふじのである。ふじのは駆け落ち事件当時祐司の妻で、事件後離婚していまは京都の醤油屋だったか酒屋だったかの奥方に納まっている。書いててこんがらがるぐらい込み入っているが、桂子は祐司と文子の娘、というのがポイント。

祐司とふじのの間には耕一という息子がいた。これは桂子と恋仲であるが、軽い接吻があっただけでそれ以上のことはない。上記のとおり、耕一と桂子は腹違いの兄妹である。そのことは小説が展開するにつれ次第に明らかになってくる。
このため結婚はあきらめて桂子は指導助教授の山田と結婚、耕一はやはり才色兼備のまり子と結婚する。そして、しばらくたつうちにここでもスワッピングが始まろうとする。山田・まり子組が宿に入り、(中断の場合に入る連絡がないことで)順調に進んでいることを確認したところで、桂子と耕一は関係にはいろうとする。そこで桂子が耕一に「血がつながっているかもしれないことを最初から知っていたのか」と聞き、「知っていた」と耕一が答える。そして、知っていて行われた耕一の遠大なたくらみと思い、そしてこれから行われるであろう禁忌を犯す行為への思いに陶然とし始めるところでおわる。

薄汚く描かれる学生運動を背景とするなどして茶や着物などの典雅な風習がより際立つ。意外と面白いのは当事者たちが決して大金持ちというほどの金持ちではないこと、にもかかわらず家で普通のようにお茶が点てれたり連れ立って和服を着て能を見たりという日常の典雅さがある点が面白い。桂子さんもこの時点ではまだ大学生の悩める乙女である。のちの「酔卿譚」の慧くんみたいな、大金持ちで神童のごとく賢くて美しいスーパーお坊ちゃんが主役になるのとちがい、まだ身の回りでありうることとの感覚がある。

みやびな所作で行なわれるのであればスワッピングも近親相姦もひとつの舞に他ならないのかもしれない。ただ、桂子さんたちのスワッピングはともかく、親達の分はあまり美がないなあ。じつは圭介がM趣味で、それを受け入れてくれる人を求めていた、だからスワッピング、なんてね、安易だなあって感じ。この入り方は典雅でないな。それに、典雅に禁忌を犯したいなら、こういう性がらみばかりではなくもっと別のこともあろうに、と思わぬでもなし。

などなど、読み終わってあらすじを考えると不満がないわけではないが、読んでる最中は流れるような文章にツツーっと気持ちよく流されてしまう。三島三島とばかり言っていたが訂正せねばならぬかもしれないな。

2009/11/09 舌足らず部分を若干補足。

倉橋由美子「長い夢路」「ヴァージニア」「霊魂」

2009-10-17 19:37:18 | 書評
「長い夢路」より----------
二人のあいだには、たがいにことばの触手をのばして大脳のひだを愛撫しあうような関係は成立していたのに、手や唇で相手の身体にふれる習慣はなかった。そして雅世にいわせれば「お姉さまと高津さんのプラトニックで猥褻な関係」をのままにして・・・
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この一節を読み直したくて倉橋由美子を読み直し始めたら最初のところで当った。これは今でも少し憧憬をもっている男女のありかただなあ。ことばの触手で大脳のひだを愛撫するってどうやってやるのかよくわかんないけど(笑)、なにかどこかインテリジェントにしてプラトニックにしてエロティックな関係と言うのは昔からのあこがれ。
ところでこの小説はものすごく奥深い感じがする。脳梗塞で死にゆく父親をとりまく「鬼女」の妻、その血を受けた娘。いや、いずれもギリシャ神話か中世の日本の物語に出てくる人々のような、素直な不思議さをもっている。

「ヴァージニア」は小説というより小説論、米国批評、現代アート批評として感心するところが多い。「霊魂」は現代の御伽噺かなあ。

若者言葉のばか丁寧さのわけ

2009-10-17 19:23:42 | 時評・論評
若者言葉がばか丁寧だなあ、というのは感じていたし言われてもいることではあるが、まあバイト先のマニュアルとかのせいなんだろうと思っていた。昔から若者なんて敬語がうまいわけじゃあないからね。時代の導きでいかようにでも変わる。
が、文芸春秋11月号で俵真智が言ってた話で少し考え直し。彼女が言ってたのは「昔は異性がつき合うのでもいろいろ手続きがあったり、電話口に出てくるおとおさんと言った障害物があったりいろいろ手間があり、周囲のバックアップも得たりしてじわじわと進んでいたが、今はいきなりケータイのメアド交換になったりする」
なるほど。いきなり接近遭遇なんだ。だから丁寧さ、やさしさは相互の肌を守るべきクッションなんだね。大変だねえ、って言ってあげたくなるねぇ。


日本語は変形して生き残り続ける、んだろうな

2009-10-17 18:40:57 | 書評
水村美苗の「日本語が亡びるとき」が、恐らく多くはその題名の刺激性ゆえいろいろ取り上げられている。僕はこういう論議自体あまり参加したくない人間なので本は読んでおらず内容は書評で知ったぐらいだ。でも10月15日の日経夕刊でインタビューがしっかりとのっていたので割と詳しく著者の考えがわかった。
で、結論は、(記者がまとめた)著者の枠組みに乗るとしても論議には無理がある。

①英語を学ぶのには日本語の読み書きが基礎である←これは賛成
②明治の日本人には漢籍の素養があった←事実としてそのとおり
③普遍語である漢語を背景とすることで日本語は優れた文学であり思想を生み出した。←普遍語をアドホックに優れているとする点を除き賛成
④日本語を大事にしない教育が続けば、しっかりした、書き言葉としての日本語は滅ぶ。←そのとおり。

で、ここで大きな疑問。①~③と、④は何の関係があるんだ? どんなことでも粗末にしてしまえばダメになってしまうに決まっている。①~③に何をいっていようが関係なく。一体この前ふりはなんなんだろう?
記者はよほどひどいまとめをしたのか?あるいはもともとそんなものか?

とまあけちょんけちょんだが、更にいえば僕は普遍語>国語>地域語みたいな区分を、思想を盛る器としての言語の優秀性・適切性とともに論じることには大いに疑問がある。それに(よほど危機に瀕しているはずの他の言語を除いて)「日本語が・・」という題名で日本人の劣等感をくすぐって部数を伸ばそうという魂胆も気に食わない。だからホントはこういう話はハナっから乗りたくないが、ここまで書いたので徹底的にいっておく。

普遍語>国語>地域語みたいな区分は言語の優秀性や適切性などではかけらもなく、軍事的・政治的・宗教的覇権の結果に過ぎない。ラテン語や漢語、そして現代の英語支配はまさに覇権の移動に対応する。しかし人口も重要な要素。だから、ロシア語や日本語は根強く残る。普遍語の変化に応じて日本語は(恐らくロシア語も)英語を中心とする言語を取り入れる。漢語(あるいはフランス語)を取り入れてきたように。それだけのことだろう。億を越える人口がいればその言語が思想を語り文学を生むのは自然である。 スペイン語やポルトガル語も南米の言葉として生き続け、ガルシア・マルケスのような文学者を生み続けるのだろう。

日本語をしっかりやろうというのは賛成だし、漢籍的素養をもっとというのは個人的好みからは大賛成だ。僕は話し言葉に漢語が多すぎてわかりにくいとよく言われるので、そうなれば世界は住みよくなる(笑)。 ただ、漢籍のハレーションをふんだんに反映した明治の高級文学への愛着・ノスタルジーから「日本語が亡びる」なんて論議を展開するのは暴論だね。