御託専科

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「吉田茂と昭和史」

2014-10-19 00:47:11 | 書評
吉田茂という人は意外だが戦後の宰相時代よりも戦前の外交官時代のほうが輝いているように見えるね。戦後のことばっかりしか知らなかったから戦後の人とそう思っていた。また風貌のせいもあるがイギリス大使というのはイメージとしてはぴったりだ。しかしこの人は戦前に活躍した人であり、その舞台は中国である。大きな考えと戦略は戦前戦後とも持っていたが、やはりさすがに戦後は占領下、その手腕の発揮もある程度は限定的である。もちろん戦前も政党や軍部、はたまた天皇という難しい相手はいたのだが、より自主性が発揮できているように思う。

それにしても豪胆なひとである。若手の分際で白馬に乗って外務省に通ったというエピソードは有名であるがそのほかにも多くある。

対中強硬方針を主張して(ただしそれは当時の国際的所ルールに準拠したものであったのだが) 孤立し、奉天総領事から一見栄転のスウェーデン大使に転任を命じられたが、田中首相に直接自分を事務次官にしろと売り込んだ。そしてそれは成功した。そして田中首相の下、後には浜口首相・幣原外相のもと自分の得意分野である対中政策を満州事変も含む難しい時期において指揮をとった。

戦後、吉田を嫌うGHQの民生局が吉田の党を分裂させ中道の別の首班の内閣を作ろうとしたときはいささかも動じず、マッカーサーに「これは貴下の命令か」と真意を問い、マッカーサーに吉田首班を認めさせた。

昭和21年最初の首班指名後、組閣前に「食料メーデー」で21万人が皇居に押しかけるなど騒然とした空気の中、これまた吉田いささかも動じず、マッカーサーが動くまで組閣を待った。おそらく下手に組閣して現状の食糧不足に早速責任と方針を問われる立場になるよりもマッカーサーの約束を得てからにしようとしたのだろう。案の定食料メーデーの2日後マッカーサーは吉田に「日本国民は1人も餓死させない」と約束した。

あとしみじみ感じるのは、吉田のように大きな意味での外交として政治を仕切るのは大事なことだと思った。たとえば戦後に関して言えば、豊かで独立した国を作るためならば、押し付けとはいえ非武装憲法も当面の策としては厭わない、天皇規定が大きく変わっても「国体は変わらず」と言い通す、など、臨機応変といえば臨機応変、目的のために手段を選ばないといえばそのとおりの活躍をしている。

まあ誤算はなかなかそういう融通無碍なことを堂々とまたしれっとできる人間はいないってことかなあ。その後継は生真面目すぎるか、あるいは大目標への視点がなかったような気がする。だから吉田のような堂々とした狡さがなかったのかなあと思う。
ただし、そうはいっても池田隼人はオポチュニスティックだったし、あいまいを続けた佐藤栄作とか越後を豊かに、が潜在的目標であったかもしれない田中角栄は吉田に比肩するのかな。まあ彼らの業績が吉田ほどには目立たないのは時代の平穏さから見てやむをえないとは思うけどね。「吉田的偉大さ」というのは少々研究に値するような記がするね。