御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「コインロッカー・ベイビーズ」村上龍

2009-05-31 20:44:05 | 書評
恐らく2004年来の再読である。当時ある人から村上龍を薦められ、5分後の世界、ヒュウガウイルスと来てこの本を読んだ。当時は性的な悪趣味やグロテスクさがなんともいえず気持ち悪く、そっちばかりに食あたりしてしまった感がある。それはまあ今回も同じ感慨ではあるのだが、まあ精神的体力があったのかそれだけでやられることはなく、細部をまた全体を楽しむ事が出来、大いに面白く読んだ。

さあて、と。何をここで書いておこうか。三浦雅士はさすがに練達の筆で解説を書いている。コインロッカーが現代社会のメタファーであること、バタイユの論理を引いて、余剰を造りそれを蕩尽することが生のエネルギーを全うすることであること、つまり、ポトラッチ=創られた冨の蕩尽=「祭り」としての破壊、といったことがテーマであるということを言っているようだ。ま、おっしゃるとおりである。そのほかにもネット上でかなりレベルの高い批評を見つけた。その辺で言われていることにもまた納得。

ということで対して付け加えることもないのだが、2点ほど。

ひとつは、村上龍のスケッチがとてもうまいこと。動画的に目に浮かぶような見事な記述がそこかしこにある。下巻半ばで山根が頭がおかしくなって殺人鬼となって暴れる場面とか、終りのころの、ハシが精神病院に入れられてあれこれ騒動がある場面などは恐らく余人の追随を許さない充実したタッチでえがかれている。似た場面は数多くある。とりわけ動的な場面はすばらしくよいと思う。三島とはタッチが違うがスケッチの名人ではある。僕の好きな場面をひとつ。
--
キクは熱心にノートをとる。アネモネは泳ぎ疲れて居眠りをしている。キクはかすかな寝息をたてているアネモネの唇を鉛筆の先で突ついた。アネモネは姿勢を変えずに目を開けた。朝の化粧は全部落ちている。ねえあのおじいさん若いころスピードスケートの選手だったんだってよ。アネモネは舌を出して唇をなめた。半分閉じた目蓋が震えている。
--

もう一点は最後の場面について。あんまり追及したのでは想像力のなさをさらけ出し余韻を減じてしまうがいっておく。
ダチュラは一体どんな風に散布されたんだろうか。まず、キクとアネモネはその影響から逃れたのか?そうでなければお互い殺しあったのか?ハシが精神病院から抜け出したあと無人の車中で聞いた放送は何? ダチュラが散布され皆発狂している中でなぜああいう冷静な退避指導がされているのか? これはどこかの公園で青いビニールシートをかけられた死体の群れについても同じ。これは誰が片付けた?まちじゅうダチュラを散布されていてなんでそんな冷静なひとがいるのか不思議である。そこで見た白い粉はダチュラではなさそうだが一体何?
それから、ハシの行動の意味。キクはまあ忠実に「破壊せよ」との内心の声に従いダチュラをまいた。破壊とは真に生きることでもあるという意味からもダチュラという興奮剤と言うか発狂剤はまあ最適。これは素直な話。一方でハシは、犬の死体を、(ダチュラによる)ずたずたに割きたい衝動を押さえ込み、また狂った妊婦の口を裂きたい衝撃を、切り取った舌先の記憶をよみがえらせることでかろうじて押さえこみ、ついに新しい歌にたどり着く。これは、ハシはダチュラの作用にさえ勝利したということではないのだろうか?

そんなところか。描写がどれも面白く引き込まれるので、どこから読んでも面白いと思う。


「憂国」ほか 三島由紀夫

2009-05-23 21:16:01 | 書評
「花ざかりの森」と題された短編集。中ではこの「憂国」が一番有名であろう。
しっかし、「憂国」は一体なんなんだろう。この題名。
226決起将校の仲間のひとりが決起に誘われなかった。その誘われなかった美男の主人公は、半年前に美人の妻を娶った新婚だから誘われなかったと思っている。そして、このままだと決起した友人たちを討伐することになるということで腹を切ることにする。その覚悟を妻に伝え、妻は粛々と、というかむしろ嬉々として行動をともにする。その決意から最後の晩餐、死の前の最後の交わり、そして切腹、妻が自分ののどを突くとこまでが描かれる。
226決起将校と友でありまた思想を同じくするという点においては確かに彼は憂国の士であった。でも、だ。226側につきたいんならさっさと決起している友の処へいけばいいじゃあないか?なんで切腹などという引きこもり的な自己表現をする必要があるだろう。逆に大義は天皇の統帥にあり、ということならこれも粛々と討伐に向かうのみだ。なんだってんだろうか。 だから僕は憂国の大義などというものはこの小説には見出せない。憂国の自己幻影に浸った男が、自分と振幅を一にしてくれる妻とともに、大義の幻想の中で愛とエロスの完成を見た、ということなのかな、と思う。三島由紀夫自身は解説で「ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると言って良い。」といっているが、これほんとかなあ。大義というにはあまりにいじけている、という気がする。下にいっているように死に方もえらくしんどいし。何か他のことでも良かったのかと思うな。たとえば借金苦とか、あるいは不義密通ゆえに心中を決意した、ということでも、死とエロスの見事な結びつきは描けたのではなかろうかと思う。

とまあ、些かけちょんけちょんに言ってしまったが、要は「憂国」なんていうから悪いだけであり、実はその点を除くとすごい。最後の交わりもそうだが、何と言っても切腹の凄絶さ、実にリアルである。腹の痛みが全身に行き渡る様子、嘔吐に襲われる様子、腸の飛び出し、それでも死ねず、後ろの床柱に倒れ込み、妻に助けられつつ刃に自分の喉をかぶせて(喉を突く力がない)貫き果てる。これを読んで、介錯のない切腹をしようという人はひとりもいないのではなかろうか。というか、これがリアリティなんだろうが、死を美化せず切腹の惨めさをむしろ際立たせているような気もして、作者の意図が結構複雑に思われた。きっと上の言い方は読者をおちょくっているに違いない(笑)。

と書いて来て思ったのだが、三島由紀夫は主義主張に生きたようにも見えるが、そうじゃなくて一瞬の光を輝きたい人だったのかなあと思う。この憂国の主人公のように、留保なく自己幻影を投じることのできる環境と人物に囲まれ、思う存分自己を十全に生きる。死が迫っていれば輝きは一段と増すわけだ。それも環境のひとつ、ってことかな。彼の小説も主義主張より文章の輝きだもんね。


2010/01/15付記)モーリス・パンゲ「自死の日本史」によれば、226の決起将校と友情で結ばれていた青島中尉という人がいて、彼は決起将校を相手に戦う気になれず、28日に世田谷の自宅で切腹、妻も自決した。 なんだよ、あとがきとかにそうと書いてくれればいいものを、と思うね。
なお、同書によれば21人の決起将校のうち自決したのは2人。残りの19人は投降後「自決を望むか」と問われ「望む」と答えたため、刀を持ったまま白い木綿の部屋に放置された。しかし論議の末生きて目的を果たそうということになった。実際はウチ17人が処刑された。
←515を禁固たった4年で済ませてしまったことなど、「憂国無罪」がはびこっていたので少々甘い目算をしたんだろうなあ。青島中尉はあれでよかったのかどうなのか。。。

「失敗の本質」野中郁次郎他

2009-05-18 13:04:48 | 書評
「戦略の本質」を読んだついでに少しだけ見てみようと思ったらずいぶん面白く最後まで読み通してしまった。1984年の本、その後バブルがあり失われた10年がありネットバブルがあり911があり、金融崩壊があり、と来ているが古びていないね。
いろいろと分析してあるが、つまるところ特定のパラダイムに固執し、環境変化への適用能力を失っていたということだ。それは組織形態においても個人の性質においても。戦略デザインを考え直し失敗から学ぶ謙虚さと工夫もなくやってきた、っていうことだろう。そして多くの日本の組織がそれに陥りつつありはしないか、と筆者は危惧し嘆いている。

ここではちょっと違った説明を。最近、日本人の技術志向であり参謀志向は「引きこもり」なんだ、という指摘をもらい、ちょっと驚きそしてえらく納得してしまったが、それは「失敗の本質」にも実はぴったり当てはまる。
山本五十六も含めて、旧日本軍の幹部どもは引きこもりだったんだ。そうするといろんなことが説明できる。引きこもりだからちゃんとコミュニケーションは取れない、自分の考えをしっかり部下や上司にコミュニケートして伝えるってこともできない。論議して面子をつぶしたりつぶされるのを怖がる。 面子をつぶしたくないから、部下にダメだしをしない。極端な降格もなければ抜擢もない。上の人間が楽な人事をするために(他の不満分子が出ないように)ハンモックナンバーに依存した「客観的」人事をして自分の主観を人にさらす危険を冒さない。そういう引きこもりの集団だから、辻みたいな極端に強い性格の人間は、正否とはべつに案外評価されやすい。というか反対されにくい。なぜならみんなけんかに弱いから。
引きこもりだから改めて世界に目を向けない。いろんな事実を見て意見を聞いて、自分の考えを修正してゆくことをしない。アイデンティティが弱いから考えの正しさを自己の支えとして持っていて、それに反することに目を瞑りたがる。だから、いっぺん成功するとそれにはまり続けようとする。物を人に任せるのにおおらかでない。引きこもりで神経質だから。

などと言い出せばきりがない。が、「引きこもり」は大きなキーワードだろう。たとえばこの本では「不均衡の創造」とか「異端・偶然との共存」などといっているが、それは引きこもりでない、自我のベースが強い人間たちでなければとてもじゃないができる相談じゃあない。そういえば昔、週に一度全アナリストと全PMを集めて事前準備なしの銘柄論議をしていたのだが、新しくきた上司が「ああいうのは自分の前でやらずに前もって打ち合わせしておけ」といわれたことがある。うん、当時はそんなことを言うひとも多くいたなあ、と思うな。

なんだか自分が抵抗を感じてそれなりに戦ってきたものの正体が見えてきた気がする。もとより僕自身も参謀志向・技術志向は強いので、僕自身の一部もその戦いの相手だったわけだが。そういえば、賢いとか良く知ってるといわれて喜べず、祭り上げられているような不快感を覚えていた。それは、言った人に対してではなく自分が引きこもっていることへの不快感、だったのかもしれない。そこで[政治の海」へジャンプするべきだったんだろうな、と今では思う。

西脇順三郎「天気」について

2009-05-16 18:31:40 | 書評
調べたことちょっとだけ。

西脇順三郎のAmbarvalia の「天気」

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

うん、あいかわらずすごい詩だね。

全般のこと。室井犀星はこういう詩を作った詩人はあとは寝て暮らせばいいと言ったそうな。すごい賛辞だが一方で、あとで下手なの作って価値下げるなよ、という脅しみたいでもあるな、うん。

1行目の(覆された宝石)がカッコ付いているのはキーツのエンディミオンからの引用であるため。それで、「覆された宝石」の原文は upturn'd gem。 「白髪の老人グラウカスがエンディミオンの投げかけた、不思議な巻物の細かく引き裂いた細片を浴びて、忽然として青春の美に輝く若者の姿に戻った様を、うつむけていた宝石を、上向けにした時の、キラリと光る光躍になぞらえていった」ものだそうな(田中滋啓氏の論考より孫引き)。Upturn'd gem なら、「面を上げた宝石」とか、意訳になるが「遂に光をうけ輝く宝石」とか「覆いを除かれた宝石」とか、そういう言い方(に類するものを磨いた言い方)もあろうものを。「覆された」じゃあ、「覆された宝石箱」の誤りじゃなかろうか、とずっと思っていましたよ、うん。ま、それでも「覆された」という言い方は啓示に満ちているよな。
(ところで、おかげで「覆された宝石箱のような朝」のイメージはそれなりに広がったかな。夜明けの雲が紫を残しつつ赤に染まり、空は青く、オレンジの太陽が顔を出し始めている。)

2行目もねえ。西脇氏本人によれば、中世のゴシック調の家の中から外を見ていて、汚らしい街路の向こうのある家の戸口で2人の人が何かひそひそばなしをしている、という設定だそうな。 これはちょっとカクっと来たね。「何人(なんびと)」と「誰か」がそれぞれ1人づつのひとってことじゃあつまんないね。僕は
何人か戸口にて「誰か」とささやく
と解釈したね。窓の外の朝を見ている自分、その家の戸口の外では、何者かが「誰なんだ、誰なんだ」と、小声で言っている。大きな声で聞くことははばかられることなのである。多くの町の人たちが自分の家の戸口近くに集まっていて噂しているという設定でもよいし、ひとりまたは複数が自分の家の戸口に向かって(つまり自分に向かって)聞いているという設定でも良かろう。後者のばあいは自分が誕生した神であることの布石となる。

ロラン・バルト「表徴の帝国」

2009-05-16 17:54:23 | 書評
まじめな顔して舟木一夫が烏帽子を被った姿の大写しで始まり、その笑顔で終りを迎える。その間には力士や龍安寺の石庭のようないかにも日本趣味のものもあれば、丹波哲郎だとか町の少年、全学連のデモなどの、1970年の日本の風物を挟みつつ評論は進む。
さて、この書物はどう理解すれば良いのか。ソシュールとサルトルを好んだ現代フランス哲学を背景とした批評がそう簡単にわかるはずもないのだが、案外この人の面白がり方が面白く、それで最後まで読んでしまった。たとえば「瞼」と題する一節には次のような文がある。
「筆跡は、単純、直裁、瞬間的であり、しかも、習得するのに全生涯を必要とするほどの、絶妙な一息の筆遣いの円転滑脱の練達があり、つまり完璧なのである。日本人の目は、そういう具合にして、上下の縁の平行線と、平行線の端で(切れあがる)二つの曲線との間に包まれている。」
まあたまげたもので。こんな記述が1ページ半にわたるのだ。日本人の眼窩の浅い一重瞼の目を記述した文章としては恐らく空前絶後の傑作であり怪作である。

という具合に、筆者のいっていることの理解ということを少し離れて考えると大変興味深い本だ。この場合はたまたま日本だが、どのような被観察体であってもその人の感受性と体系の中で随意に消化し再表現すれば良い、ということを改めて認識する。あるいはこれは現象学であったり、赤瀬川翁の「トマソン」にも通じるかしらん。

バルトをもっと知ったら読み直し!


仕事の報酬は仕事だ!

2009-05-13 12:20:40 | 書評
タイトルは土光さんが私の履歴書で言っていた言葉である。
で、ふと思ったのだが、そういえば昔の日本の会社ってそうだった気がする。年功序列とか終身雇用といったことよりも、仕事に仕事で報いる、という形のほうがよほど昔の日本の会社の特徴を表している気がするな。
年功序列とか終身雇用ってのは実はアメリカの会社にだって多く認められることで、むしろ仕事の報酬が金じゃなくて仕事だ、ってところが日本企業らしいのかなあ、って思う。仕事が苦痛として捉えられるからその報酬はカネ(=消費能力の提供)ってことになるけど、仕事自体に面白さを見出すなら、確かに仕事の報酬は仕事であることは全然おかしくはない。いや、ちょっとおかしいか。何で面白いことをやって報酬がもらえるのかってところで。
で、そうなるとどうなるか。仕事自体の目的化と神聖化が進むな。だからプライドをかけて非常に良心的な仕事がされる。しかし、仕事自体への執着が強くなりすぎる分、収益とか世の変化への対応は鈍いよね。それが敗因だよなあ。いくら刀鍛冶の技術を洗練して伝承しても、聖なる儀式以上の仕事にはならないわけだ。
何とかならんものかねぇ。報酬としての仕事の中に、よりビッグピクチャーを適切に含めばよい・よかった のだろうなあ。そこがいまいちだったのが敗因かも。

「戦略の本質」 野中郁次郎他

2009-05-12 22:39:37 | 書評
「失敗の本質」の著者たちが20年の歳月を経て放つ勝利への戦略論、といったところだろうか。
第4時中東戦争やスターリングラード攻防戦などの個々の戦史を見るうえでは大変役に立った。特にサダトが「限定戦略」として第4時中東戦争を起し、それをイスラエルとの和解への出発点としたというのはこの本で始めて知り実に感心した。サダトは天才的政治家であったといって良かろう。毛沢東が戦略で秀でていたこと、バトル・オブ・ブリテンの詳細などもこれで初めて知った。その意味で歴史書としては大いに役立つ。
しかし、そこから戦略の本質を10の命題に置き換えるあたりは結構危うい。というか、事例で挙げられている勝利があまりに個性が強く、原則にまとめるといったって言葉遊びというか訓示ごっこになってしまっている。個々の事例が迫力に満ちたものだけに残念である。 当たり前だが、前の本のように一貫して日本軍の負けパターンの研究という当初からの類似性が期待されたものがないだけに、一貫性を持ってまとめるのは難しかろう。それとも、勝ち方はさまざま、負けは一緒、ということなのかもね。

「ファザーファッカー」内田春菊

2009-05-12 22:28:08 | 書評
異才の漫画家の16歳までの自伝。
まあすさまじい。雨宮処凛の話もすごいとは思ったが、この人は雨宮のような、ある程度恵まれた中での不幸ではなく、恐るべき義父とそれになぜか逆らえない母親のお陰で徹底的に不幸だ。その不幸の中ですごくいい成績出しているのにほめられもせずビクビクし、同級生との間にこどもが出来てそれをおろし、果ては父親に犯される。それにしては陰惨でないのは、この人が散文的にあっけらかんと事実を受け入れているがごとき態度であり記述であるからだろう。実は愁嘆場になって良いところはいくつもある。それを「そこまでいうこたあない、と頭を殴られながら思った」とか「よほど私は引き出しで殴られる運命にあるようだ」とか、「父親のペニスは小さいので助かった」だとか。ふざけてはいないものの深刻ぶりもせずただ淡々と、子供の無知ゆえの無邪気さも含め記述している。
不思議なのはこんなくずのような男が一家を支配していること。女子供とは言え3人いるのだから何とかなりそうなものだが。難しいものである。そう言えば北九州一家監禁殺害事件もそうだったね。人間の心にはまだまだわからんものがある。
ま、これは結構な傑作。淡々とした即物的トーンはすばらしいと思う。

「コンサルティングの悪魔」Lewis Pinault

2009-05-09 08:07:52 | 書評
2000年12月の第二刷を買っているからもう10年近く前に読んだわけだ。そのときも面白いと思ったけど、ここで取り上げられているようなコンサルに似た部門を持つ職場が身近になった分、より実感が湧くね。これが結構精密な描写であることが感じられた。

前に読んだときの大局的感想は、要するに「コンサルとはハッタリをかませて大金を巻き上げて結果に責任を持たない仕事であり、まともな神経の人間がやることではない」というものであった。うん、これは変わらないね。
ただ、今になって思うと「コンサル」部分はかなりいろいろ入れることが出来るなあ、と思うね。結果を保証しない商売はすべてそうだなあ。運用や、弁護士とか、もしかしたら医者も含め。それから、たとえば社内政治なんかでの勝ち残りというのも似たようなもんじゃないかな。世の中で「うまいことやる」というのは、要するにそういうことだ。結果を保証しないが(というか保証しないからこそ)大きな実入りがある部門に行き、知性と回転の早さとずるがしこさとハッタリ(これ、カリスマと言われることもある)で勝ち残る、ということだ。古今変わらないが新自由主義のもとでえらくそれが拡張された感はある。

そんなわけで、コンサルに対する敵意を強化する本として読むというよりも、処世の書として面白く読んだなあ。まあ僕はほとんど手遅れだけど、若い人には是非薦めたいなと思う。パートナーというポジションを目指して職場を変えたり一旦独立したりして、ようやくではあるがたどり着く、なんてのは自分のキャリアでは発想しなかったよねえ。時代が時代だったから、職場を変えるという発想さえ結構大変なことだったしなあ。でもこれからは著者のような生き方を念頭において、ゲームとしての達成すべき目標をあらゆる手段で追求する、というのが当たり前の心がけとなるんだろうね。

今回改めて印象に残ったのは「顧客の恐怖の拡大」というやつね。モートローラの日本の営業ヘッドから百姓に転じた杉山さんが、「新しい需要の発掘というのは、既に現状に満足している人にその満足は間違いだ、と思わせる仕事なのだ」と言うようなことを言ってたのをピンと思い出した。なるほど、コンサル営業ってそういうことね、と妙に納得(コンサル業務の売り込み、ということと、ニーズ喚起をしてモノを売り込む、というのが重なった言葉になっているが、どちらも顧客の現状安住を揺さぶることには変わりない)。

ということで。大雑把な感想は前とあまり変わらず。ただ実感が増した分、本書の「実用的価値」は大変高いと今回は感じた次第。各章の「悪魔学」でまとめられた話は時々目を通す価値はありましょう。

ところで2点。ひとつは、「翻訳が悪い」と言っているブログなどが多いのに少々驚いた。原文が言っている内容の複雑さ・多様さの反映以上のものではないと思われる。むしろ、かなり練達の訳といえるんじゃなかろうか。まあ、あまたのビジネス書や自己啓発書と比べれば濃密な文章ではあるがね。これが悪文じゃあ三島由紀夫も悪文になっちゃうね。

もうひとつ。著者はいまレゴで、ビジネスむけワークショップでのレゴの利用を指導しているようだ。なんだか前の仕事(コンサルでのファシリテーション)に少し戻ったみたいだが、レゴってのは妙にほほえましいね。それから、文中「モリカワ」とされている堀さん。いまドリームインキュベーターの社長なんだね。10年近くやってあんまりうまくいってないね。ま、コンサルなんて所詮こんなもんだろう。お、そういえばマッキンゼー発のDENAは成功してたっけ。きめつけちゃいかんね。そう言えばどっかのベンチャー証券にいたごろつきどもがドリームインキュベーター証券に行ったなんて話が出てたけど、あれどうなったのかなあ。

マーク・トウェイン「不思議な少年」

2009-05-06 21:21:03 | 書評
「トム・ソーヤの冒険」などの明るく楽天主義的な作風で知られるマーク・トウェインは晩年奇怪な程までの人間不信とペシミズムに陥り、これはその彼の最後の作品である。というのは訳者・解説者の一致した言い方。
しっかしなあ、なんかそういう言い方は妙にへんなんだよね。訳者である中野好男ともあろうお方がそんな浅い理解なのか、解説者の亀井氏もれっきとした英文学者だろうし。
「ハックルベリー・・・」とこの本しかマークトウェインは読んでいないんだけど、どっちもトーンは良く似てるように思われるなあ。トウェインは皮肉屋だよ。で、ハックは現実に行動しなきゃならんからそっちに忙しくてそこでは現実主義と楽天主義が幅を利かせるけど、この本みたいに観察と思索が主体になると皮肉な目が強くなるなあ、と思うよ。「浮世は夢よ、ただ狂え」だよね。この本でいっているような決定論というか機会的運命論の上の主観的夢としての世間や人生というのが「浮世は夢よ」だし、だから楽しく生きるので「ただ狂え」ってわけだ。
ところで13章は確かにとって付けた章らしくわかりにくいね。独我論、をいっているのかとも思うが、その一方で「僕」のことを神であると喝破し、その理不尽さを論難しているという風にも見える。キリスト教批判なのかな、とも思う。