御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

三浦 展 「下流階級」

2005-11-28 09:55:57 | 書評
とても面白い本だった。社会論というのは、わずかな情報や古い話、一般に(表面的に)いわれていることなどから思弁を重ねるものも多いが、この本はしっかりしたアンケート調査・インタビュー等の独自の材料をもとに、実感から遊離しない分析を加えている。元の材料を惜しげもなく出している分、筆者の筆の滑りもわかってしまうが、これはこれでたいしたことである。
随所に面白く納得できる指摘があるが、個々の話は(面白すぎて)長くなるので控える。筆者の大筋の主張は、「豊かな中での階層化」が進んでいる、それも、所得だけではなく容姿・能力・熱意のどの点においても下の階級は上の階級に劣る、という、恐るべきともいえる階層化が進んでいる。
これを打破するのは「機会悪平等」の導入である、というのが筆者の主張。「機会悪平等」とは、大雑把に言うと米国のマイノリティー優遇処置(法律的呼称がなんかあったな、アクション・プランだったっけ?)のようなものを導入するということである。結果悪平等が保持できないのであれば機会悪平等は大いに賛成である。合わせて、筆者も触れているが、社会の価値観の多様化も重要である。
公正な社会、よい社会とは生きていて納得できる社会である。より現実的ないい方をすると、生きていて自分の生活に関して納得できない部分がより少ない社会である。さらにいえば、他者に対する嫉妬や自分への諦念が少なく、他者を気持ちよく賞賛し自己を少しでも多く肯定できる社会である。
そのためにはやはり「人としての価値は同じ」という共通認識は堅持すべきであるし、またその現実的表現として結果の平等/機会の均等 はある程度以上必要である。そして、それぞれの分野がそれぞれにすばらしいものと思うことのできる価値観の多様化も必要だ。
「機会悪平等」とはいい言葉だ。僕にとっての3大政治課題(結果平等・機会均等・価値多様化)のひとつをうまく表現する方法としていただき。

佐藤 優 「国家の自縛」

2005-11-21 17:01:49 | 書評
前読んで感心した佐藤優氏の本があったので買って見た。
今回は対談のせいもあってややカジュアルな論議である。それでも彼の論議には哲学的・社会思想的背景がかなり詰まっていることはよくわかる。むしろ対談のカジュアルさのお陰でそれらが割と容赦なく出てくるのでちょっと消化不良。ケインズ対ハイエク、ネオコンの思想とキリスト教、神皇正統記からの国体思想、大川周明などなど。こちらの知識不足もあるが、やや論議不足の感は否めない。
例えばケインズとハイエクを並べて対照的思想としているが、ケインズ的社会思想に対立するものとしてハイエクが一番ぴったりなんだろうか、他にもありうるのでは、と思う。また、ハイエク的に深く考察された自由思想がいまの世の動きの哲学的背景なんだろうか? 実際の動きはもっと世俗的で実務的に見える。要は従来モデル(ケインズ的)が働かない環境となったので国も企業もそれに対応し、個人もやむなく対応しているのではなかろうか。ケインズ的世界を作り上げるには思想的背景が必要だったと思うが、それをほどくのはそれほど思想を必要としないように思う。
とまあ、あれやこれやないわけではないが、疑問な部分も含め刺激となった。一章二章で述べられている外交の本来の原則群はその通りだな。個人・企業にも通じる普遍的要素がある。普遍的であるとは常識的であるということだが、その部分が振れない、というのは大事であり偉大なことなんだろう。奇人的・怪物的に取り上げられがちの佐藤氏だが、奇策の人ではなく正攻法の人であることを改めて確認した。

「神々の沈黙」 ジュリアン ジェインズ

2005-11-07 09:23:06 | 書評
うーん、参ったね、この本は。認識を飛躍的に変更させてくれる本と言うのは10年に1度か2度しか出合わないが、これはまさにそれだね。僕にとってはクーンの「科学革命の構造」とかドーキンスの「ブラインドウォッチメーカー」とか養老猛の「唯脳論」とかマッハの「感覚の分析」などがそれにあたる。いまは読後の余韻がある中なのでそれらに匹敵するどころかはるかにしのぐイメージを持っている。
さて、どこから手をつければいいんだろう。すごく乱暴にまとめるとこんなところか。
・かつて右脳は神だった。
・人々は白昼普通のこととして神の声を聞き、神の姿を見、そのメッセージに従っていた。人々はほとんどすべて今で言えば統合失調症患者だった。
・右脳支配の社会構造がはらむ脆弱性と言語(特に書き言葉)の発達により神の声は意識=主観にとって代わられた。
・神の声が聞こえなくなった人々は、迷いのない右脳時代(二分心時代)へのノスタルジーを強く持っている。
・宗教は二分心時代への希求の表現である。また、確実性を求める科学・占いなどもその一環である。

恐るべき仮説である。そのような目で旧約聖書を読むと確かに著者もいっている通り神が沈黙し空のかなたに消えて行く過程の記述として大変よく出来ている。神秘のあり方とか、神話の荒唐無稽さとかがすべて説明がつく。神の像などの意味も。確実性を希求する知的活動のすべてもそうだ。芸術のトランス的効果なども。これはものすごく応用範囲が広い。

チクセンミトハイのフロー理論もこの範疇に入っては来ないか?二分心の充足した心理を取り戻すための行動とはなにか、という観点から眺めることが出来る。
また、社会的ヒエラルキー構造を作る心理もよくわかる。支配者に都合がよい構造、という観点で見られがちだが、二分心時代から意識の時代への過程の中で迷いなく従うべき指示の構造はやすやすと受け入れられたしまた必要でもあったのだろう。
キャンベルのいう神話の力も要研究だ。神話の荒唐無稽さがなぜ訴求力をもつのか。それは二分心時代の物語だからだろう。祖先たちの夢=現実を記したものには我々に強く訴えるものがある。ならば現実を神話的に理解すれば? これは少し考えてみよう。

他のよい本と同様、読了しても手放せず、拾い読みとも読み直しともつかぬことをしつつ名残を惜しみまた新たな発見をしているところである。そのうち再論する。



人心掌握は純ちゃんにお任せ って言わないの?

2005-11-02 14:02:04 | 時評・論評
先の総選挙といい気を持たせる今回の組閣といい、人をひきつけるショーアップにかけては小泉さんは天才的だと思うな。それでふと思ったんだけど、実績が出てくると野球の監督でも企業のボスでも、マネジメントの手本としてしばしば担ぎ上げられて本になる。ひところは野村監督がそうだったし歴史上の人物を含めれば「○○に学ぶ管理術」とかいった本は山のようにある。あるいはあった。

不思議なのは「小泉首相に学ぶ管理術」の類が出てこないことだ。人心掌握もさることながらけんかのやり方も一級品だ。志の正否や地味な積み上げのできばえなどで疑問はあるにせよ、この2点にかけては一流といえよう。なのにその類の本が出ないのはどういうことか。
さすがに現役の首相に学ぶという本を出すわけには行かないということか。それなら彼が引退後はでるのかなあ。それとも、彼のやり方が体系化するには余りに無秩序あるいは名人芸ということなんだろうかな。これはありうる。または、彼の強烈さゆえ今の時点では驚嘆する相手であっても学ぶ相手ではない、学んで吸収できるような生易しい相手ではない、ということか。僕はこれに近いかな。
ま、あと1年で様子が見えるだろう。ただ、考えて見ると「○○に学ぶ」的な本は最近出なくなったなあ、っておもう。ひとつには世の中の恒常性への確信がずいぶん弱まったのかもしれない。昨日の悪は今日の善、昨日の善は今日の悪、だしね。ま、ずっとそうだった気もするがテンポが速いとしんどいよね。ジャックウェルチなんかも企業の英雄だったけどあれこれあって見向きもされてないしね、いまでは。
本を書く側出す側がそんな恥を恐れているとは思われないが、読む側がそうなんだろうね。成熟したんだよ。きっと。世の中がそうだもんね。成功者のはずのホリエモンだのミキタニだのに学びたいとは思わないし、それに攻められている側の社長さんたちには、一片の憐憫こそあれ学ぼうとは思わないしね。御手洗さんや奥田さんも用心しておいたほうがいいだろうね。庶民は同等の視線であなた方を見てるのだから。説教くさくなるといずれ反発を買うよ。奥田さんなんかちょっとヤキが回ってる気もするし。
と言ってふと気がついた。小泉さんもそうなんだな。みんな同等の視線で見ているんだ。だから学ぼうなんてこれっぽっちも思わない。劇場の役者がせいぜいと言うことか。すばらしい世の中だね。Anything Goes! みんな舞おうじゃないか!!

蓄積という邪魔者

2005-11-01 16:54:35 | 時評・論評
昔、坊やだったころ、社会主義は(まだ途中段階なので)「能力に応じて働き、能力に応じて受け取る」が、その先の共産主義は「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」社会だ、と聞かされたことがある。その一方で「働かざるもの食うべからず」は社会主義のテーゼの一つだったかな。

それで考えること2つ。まず一つ目は、「働かざるもの食うべからず」とはまたえらくきついいい方だな、と感じるが、ふと思い出すとこれは資本家階級に対する攻撃だったんだな。それに、ここでいう「働く」とは多分にきつい肉体労働をさしていたんだろうな。世の中は資本家階級の完全勝利みたいなことになったが、そうはいっても皆がある種資本家階級入りしたとも言えるわけで、社会主義者の夢は実現したのかもしれない。少なくとも資本家階級=有閑階級ではまったくないし、「働かざるもの食うべからず」には大部分の資本家が大賛成だろうね。マルクスの夢はかくて実現せり。ルサンチマンを晴らせる形じゃなくて残念でした。ルサンチマン自体もなくなったんだろうね。そういえば日本では演歌がマイナーになってしまった。

もうひとつは税と政府支出。やっぱりこれは共産主義の装置だな。大なり小なり累進性のある税制と「必要に応じた」政府支出の組み合わせをするとこれは「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」形になるよね。何も貧者への再配分ばかりを言っているわけじゃない。明らかなハンディを持った人たちへの福祉、老人介護に加え、壊れそうな橋とかね、ちゃんとやることはあるんだよね。余計な事をしなければ政府の再配分効果は倫理的には正しい。
それがなかなか効率よくまた果断にできないのは、結局蓄積が出来ちゃったらいいことがある、ようなきがする、ってのが問題なんだよな。よく稲作で蓄積ができるようになると階級が発生した、見たいなことがいわれ、その通りだと思うんだけど、それだけじゃなくて遺産を残すとかそういう時間性のある蓄積が人間の目標になりうるから問題なんだよね。相続税が100%だとか、親から遺産をもらったやつは徹底的に軽蔑されるとか、そんな社会なら金持ちから税金をかなりとっても文句も出ないよね。まさに当人の生活の必要に応じる分があればいいんだから。どんな贅沢をしたって知れてる。また支出側でも、当初目的あって作った機関が目的が消滅したあとも続くって事はよくあるが、これも人を介した時間性の蓄積の一種じゃないかな。組織は永遠なり、だ。
どこかで時間性の蓄積をゼロクリアする儀式が必要なのかもね。10年に一度それまでの記録をまっさらにして財産も残りがあったら再配分してしまう祭りをするとかね。そうすれば各10年は次のゼロクリアまでのひとつの「浮世」だから、もちろん蕩尽も出るだろうが無駄な蓄積もないわけで。人生の踏ん切りがつかないから金は溜めたくなるし組織も残したくなる。もちろんひとりや一部の人だけでそれをやると競争条件が厳しくなる(ようなきがする)からね、みんないっせいにやろうってわけだ。10年ごとの擬似的な死と再生。なんだか楽しそうだな。
やはり共産主義的なユートピアの夢はどこかでぶり返すだろうな。それは原始共産制と同様に、だれにも蓄積のない中での羨望と嫉妬の不在が前提条件なんじゃないかな。個性・能力差を消さず共産化するのはそれしかなかろう。