御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「太平記」 山崎正和訳版、新潮日本古典集成など

2010-12-31 18:03:13 | 書評
まだ途中である。途中まで山崎訳で読んできたが、巻18当りから新潮日本古典集成に変えた。そのほかに若干の解説書も参照。
本来これは冬休みの読書の軸となるはずであったが、あまりの長さと片々たる出来事の積み重ねに見える筋立てなどからなかなか進まない。それ以上に、自分自身の学ぶこと、吸収することへの意欲がかなり低下しており、このような一般教養物への努力が続きにくい。率直に言ってこういうものの世界観を共有して語れる友がいるわけでもなく、がんばってもつまらないと感じる次第。まあこの辺は僕自身の問題であり別途論じよう。

 さてと。途中までの感想だがこれは実におもしろい本である。きわめて多様な価値が交錯する中であるにかかわらず、登場人物たちはそれぞれに本懐を果たして生き抜く、というより次々死んでゆくさまは実にすさまじい。価値観が多様ならもっとずるく生きる人間がいてもよいのだが、そんなやつらはわずかであり、ほとんどの連中はともかくやることをやって討ち死にする、あるいは腹を切る。もはやこれまでと腹を切る。主人に準じて腹を切る。戦はあちこちであり、初期であれば官軍と幕府軍の優勢劣勢はころころと入れ替わるのだが、そのたびごとにまとまった人数の武将たちが腹を切る、あるいは多勢に無勢の戦いをして最後を遂げる。北条氏の最後なんぞは800人あまりで切腹の饗宴とも言える場面が演じられる。ほかの場面も規模はちがえぞ同じような潔さと覚悟(その裏面の短気さ)が感じられる。本当におっそろしいやつらばかりである。
 ところが人々の縦合連携に関してはきわめてドライと言うか計算高い。喧嘩していたのが連合したり、同じ一派からの仲間割れなどしょっちゅう起こる。また、有利なほうに駆けつけて戦勝の折には褒美をもらいたがる各地域の動きはかなり節操がない。これでちょっとした戦況の変化が増幅されて、まるでブランコの振れを大きくしているように見える。まあ率直に言って現在のビジネス社会とさしたる変わりはない。つまり義理も人情も実利に道を譲っている。
 不思議なのはこうした、野合的勢力変化と強烈な覚悟・潔さが同居していることである。あるいは、今の世にいえることでもあるが、そういう野合的世の中だから己の死に様は自分で決めなければ凛として生きられなかったということなのだろうか。少々興味をそそられる点である。要研究。

ソーカル、ブリクモン「知の欺瞞」

2010-12-05 22:35:41 | 書評
ポストモダンの有力思想家たちのあまりにでたらめな科学分野の引用や応用を批判した本。端緒となったソーカルの有名なパロディ論文は巻末付録にある。
さてと。率直にいって大して読んではいない。というのは幸いなことにここで槍玉に上がっている面々、ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリヤール、ドルーズ・ガタリ、ヴィリリオなどの著作に僕は真剣に取り組んだことがないので、まあとりあえずこの人たちの名前を忘れなければそれでよい。ボードリヤールは「消費社会の神話と構造」を一度手に取ったが大仰でもったいぶった物言いに少々食傷して投げ出した。その他の被害はない。
それでも、「第一の間奏」で挙げられている科学哲学者たちに関しては小生も無関心というわけにも行かず少々まじめに読んでみた。以下は本書の首長である。

ポパー:反証可能性の考え方はそれ自体悪くない。しかしそれを極端に進めて、世の中にありうるのは反証のみで確証(主観的確率の増大)ということを一切禁じるとすれば、あす日が昇るということさえ言えなくなる。第二に、反証ということは案外込み入っている。たとえばケプラーの惑星運動の法則の導出は、ニュートン力学とは独立ないくつかの付加的仮定に基づく。或いは電流は目盛上の針の位置により特定される。理論本体のみでなく補助仮説、測定に関する意識的・無意識的理論や仮説などの総体が検証すべき対象となるわけで、もし観察が違ってもなにが違っているのか直ちにわかるわけではない。

クーン:パラダイムの通約不可能性の不当な強調。パラダイム転換が非経験的な諸要因によって生じ、一旦生じるとそれが我々の世界を任視するやり方まで強く条件付ける、という考え方は明らかに強引過ぎる。実験結果の知覚の仕方まで理論が決めてしまうというのは極端だし、それは自己反駁的である。というのは、もし電子やDNAなどの概念を実在として扱うのが幻想であるというように言うならば、パラダイムという考え方も同じである。

ファイアベント:彼に対する論駁は少々難渋している。彼の「なんでもあり」とその変奏に対しての反論はもっともだが、そもそもトリックスター・道化の言うことにいちいち反論しているような面倒さがあって、著者たちも些か困っていると見られた。

このあとストロングプログラムという科学哲学というか科学社会学への反論が続くが、僕はストロングプラグラムというたわけた話はよく知らないので割愛する。