御託専科

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フランスの風刺画新聞社襲撃事件について:これは殺人事件であって、言論の自由とテロの戦いではない!

2015-01-18 17:07:59 | 時評・論評
この件についてはたくさんの人がいろんな意見を言っているから、僕なんぞが言うべきことはないんだが、もやもやするので下手なりに書いておく。

1.あの風刺画は最低である
第一に言いたいのは、あの風刺画は最低である、ということだ。風刺というのは権力と権力をからかうことにあるのである。フランス社会でマイノリティーのイスラム教徒を対象にしてどうする? やるとしても一番最後だろう? カソリックとかアメリカとかフランス政府が本来大々的からかいの対象でしょうが!
それから、あの絵はどこがからかいなんだ? 単に侮辱しているだけじゃないか? 描かれたほうも気分によっては苦笑いするような、そういう絵を描けよ。クオリティが最低の仕事をしている。風刺画じゃなくて侮辱画だ

確かフランスでは大震災のとき腕が六本あるゴールキーパーや3本足の相撲取りを描いたよね。弱っている国に誤解というよりも侮辱・差別とも言うべきメッセージを出してきた。あんときも何が風刺だ、何がユーモアーだ、とい思ったが、今回も一緒だね。少数派・弱ったものに対して当人にとっては侮辱か差別としか思われないものを出してくる。フランス人の風刺だとかユーモアは要はヘイトだね。今回のではっきり見切りがついた。

2.ユーモアーは伝わらなかったら発信者の負けである
襲撃後の記者会見で「テロリストはユーモアがなかった・理解できなかった」とかほざいているらしいが、そりゃ芸人がスベッたとき、「観客はセンスがなかった」といっているようなものだ。見苦しい負け惜しみでしかない。相手につたわるように描けばいいのだ。イスラム教徒を苦笑いさせる風刺画を一生懸命考えろよ。ムハマンドがケツこっちに向けて星出しているのなんて誰も笑えないよ。風刺なら風刺らしく、まじめにやれ。

3.人殺しはいけない
それでも人殺しはいけない。下らん侮辱画を書いた人間を殺すのがいけないのではなく、どんな人でも殺してはいけない。それがすべてだ。
侮辱画があまりにひどいからといって人殺しが許されるわけではない。
ただ、逆も言える。殺されたからといって侮辱画に何の問題もないということではない。

4.言論の自由は別途論議すべきである
ホームズ判事だったか、「映画館の暗闇の中で、実際には何も起きていないのに「火事だ」と叫ぶことはいかなる基準から見ても言論の自由として守られるべきことではない」といっていたがそのとおりだと思う。社会的圧力とか正しい慣習により守るべき範囲というものを守らせる必要があり、またやむなき場合は名誉毀損などの法的手段を確保しておく必要があろう。ただ、「どのくらいなら」というのを明文化するのは難しいとは思うので、必要があれば誹謗中傷の被害者が対抗できる手段を確保するといったことで整備すべきであろう。
侮辱画を描く自由が全面的に認められるかどうかは社会的判断だ。侮辱画を書く自由=言論の自由⇔テロ 見たいな形で扇動された400万弱のフランス人と巻き込まれた(言論が自由でない)各国首脳の興奮が収まったところでまともに論議したらいいんじゃなかろうか。そうでなければ言論の自由に名を借りたイスラム迫害だね。

5.これはフランス国内の問題である。
日本で言えば在特会の(初期の)デモにしばき隊が武器を持って殴りこんで死人が出たような話である。何で世界的な話に騒ぎがひろがるのか?
フランスはイスラム教徒の過激化を防ぐ必要があるし、自動小銃なんてものが国内に出回っている現状を何とかしなければなるまい。

三島由紀夫 「天人五衰」

2015-01-18 16:27:25 | 書評
「豊饒の海」4巻の最終巻である。ストーリー自体というよりも文章による情景や心象の「スケッチ」にひたすら感心した覚えがあり、また最近人にそれを雄弁に語ったこともあったので読みたくなったしだいである。

改めて読んで、実にすばらしいと認識しなおした。おそらく全体の半分以上は情景描写ではなかろうか。もちろん情景を見ながらの透や本多の心も描かれるわけではあるが。それらが実に緻密で、リアリティーと適度な意外さ・抽象性・詩情をあわせ持っていると思う。末尾を飾る月修寺の庭の描写は有名だが、それ以上に船の動きを観察する透の目から見た駿河湾の情景がすばらしい。

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沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖はきのうよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。5月の海はなめらかである。日は強く、雲はかすか、空は青い。
きわめて低い波も、岸では砕ける。砕ける寸前のあの鶯いろの波の腹の色には、あらゆる海草が持っているいやらしさと似たいやらしさがある。
乳海攪拌のインド神話を、毎日毎日、ごく日常的にくりかえしている海の攪拌作用。たぶん世界はじっとさせておいてはいけないのだろう。じっとしていることには、自然の悪を呼びさます何かがあるのだろう。
五月の海のふくらみは、しかしたえずいらいらと光りの点描を移しており、繊細な突起に満たされている。
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これが冒頭にある。このあと船の動きが出てきたりして景色は動くのだが、それにしてもこんな感じの記述が5ページも続く。これがすばらしい。たとえば上の引用では「いらいらと光りの点描を移しており、繊細な突起に満たされている」という記述があるが、海のきらきらがさざなみににしたがって絶え間なくその場所を移していく様をきれいに描いている。
そうした記述のあと後ようやく、

--安永透は倍率三十倍の望遠鏡から目をはなした。

と主人公が登場し、そして主人公の仕事が船の監視、ということが記述される。

ただし三島を甘く見てはいけない(笑)。このあとも3-4ページも続く情景描写は頻発する。そのそれぞれが引き込まれるようなスケッチである。記述された景色を想像するのに頭が回り、夢中になる。僕も安永透のように一日中何かの使命を持って(しかし思索する時間をたっぷり持ちつつ)1日中海を眺めてすごしてみたい、と思ってしまう。

僕もそうだったがおそらく初読でストーリーを追いたい人にとってはこういうのは少々辟易するだろう。実際、書評をググッて見ても情景描写を賞賛する声は少ない、というかない。しかしそれはバレーやオペラをストーリーだけで評価するに等しい愚である。ストーリーをおって先をあせって読んでしまった人には、是非とも改めて情景描写のすばらしさ(僕は決してこれを美文などとは言いたくないが)を味わってほしいと思う。

だれか駿河湾の映像と冒頭5ページの朗読をあわせた番組を作ってくれないものだろうか、などとも前から思っているのだが。。