御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」 (ネタバレあり)

2011-04-17 10:54:16 | 書評
上映中映画の原作である。福田和也が映画評でまあネタバラシといえばネタバラシをしており、それを読んでいたので大きな方向性は予想がついていたのだが、それでも大変な筆力と描写力で読ませる小説である。まったく何も知らずに読めば読んだで謎解き(というほど隠れてはいないが)が加わりおもしろかろうが、おそらく先を急ぐ手が細部の味わいを減じたであろう。そういう小さな謎解きが出来てもまた読み返したくなったろうな。

再読・三読に耐える小説だ。最近再読・三読したのは「スカイクロラ」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だが、これは謎が残ってしまったため(笑)。わかっているけどもう一度、というのは三島由紀夫以来かなあ。あと村上龍の一部もね。久々に良質の小説に出会った。

キャッシーを語り手とする、ヘールシャムという学校、その卒業生、その同類たちの物語。彼らはじつはクローン人間であり、成人以降臓器提供者となることを運命付けられている。本来そういう「人々」は劣悪ともいえる環境で育てられているが、篤志家のマダム・クロードやエミリ先生が彼らにより人間らしい教育と環境を、と運動し設立されたのがヘールシャムであった。これはあとでわかること。
キャシーの親しい仲間にルースとトニーがいた。ルースは見栄っ張りで周りを支配したい女の子、トミーは癇病の強い、しかしじつは率直で人のよい男の子。卒業生はまずは介護人として「提供者」の世話をする。介護人を経ていよいよ「提供者」となる。「提供者」は3度~4度の「提供」を行い「使命」を果たす。場合によってはそれ以前に命が尽きることもある。
キャシーは11年以上介護人をやっており、この間にルースとトミーを見送る。その中で、彼らのヘールシャムでの幼い、或いは若々しい鞘当や見栄や喜びや悲しみが語られる。これらの、ある意味些細な出来事たちやそれに伴う彼らの心の震えの描写はとても美しい。それ自体で細やかな青春の回想として成り立つのだが、彼らに中年や老年がないということが背景となってこれらを一層引き立てる。さくらは淡く美しいが、青い空を背景にしてこそ一層美しくなるようなコントラストがここにある。
最後のほうでは、トミーとキャシーはマダム・クロードとエミリ先生(同じ家にいた)をたずね、かすかな希望が持てる噂の真偽を確認し、それがはかない望みであったことを確かめ、そしてすべての真実を知る。そのあとトミーは瞬間荒れるが、それを除けば淡々と、従容と4回目の提供に向け心を整える。キャシーはトミーの希望で彼の看護人からはずれ、淡々とした別れを迎える。最後は、まもなく看護人を終えて「提供者」となるキャシーが、ノーフォークの大地でトミーの幻影を思い描き、しかしのめりこまず、車に戻り去ってゆくところで終わる。


臓器移植のドナーとして育てられた人々、という特異な設定が耳目を集めてしまうが、いずれ死すべき我らと思えば本当は同じことなのかもしれない。どのような達成もありえなくまた幻に過ぎず、むしろ些細な出来事とそれに対する心の震えこそがほんとうに存在するのだろう。死へのスケジュールが明示されないことをいいことにいたずらに目標達成を先に求めたり、よきことが起きることを漠然と心待ちにしたりしていることで、そのことが見えていないのが凡人なのかなあ、などと思わぬではない。以上蛇足。

花見をどうする? -以前の日常の是と非-

2011-04-09 15:16:23 | 時評・論評
震災で自粛を言う人々がまず現れた一方で、震災だからこそいつものとおり(あるいはそれ以上に)贅沢をしよう、という声があがる。

どちらかを選択せよといわれるならば小生は間違いなく後者を選ぶ。喪に服する祈りの気持ちをぞけば、自粛というのは希少な物資をしかるべきところに優先して配分できるようにする行為である。たとえば千年とか二千年まえに同様のことがおきた場合において、近隣の村が年に一度の花見を自粛し、花見での蕩尽のために1年間蓄積した食料などを提供するのはもっともである。しかし、現在の高度化しまた「生活の必要」の範囲を大きく越えて発達した経済にはそうしたことは当てはまらない。 例えば関東在住者の自粛はおそらく何も生まない。関東在住者への供給者が震災地域への物資配分のため手一杯になっているということはないのだ。関東在住者の自粛は関東への財・サービス供給者の貧窮を招き、間接的に国全体の援助余力を減ずるだけである。 喪の気持ち、援助の気持ちは自粛ではない形で現そうではないか、とはもっともなことである。

しかし、反自粛派の立場をとるにせよ、少々の違和感は否めない。それは、「自粛前の生活に何の疑問もなかったのか?」という疑問である。 すごく象徴的にいってしまうなら、「あなたほんとに花見の宴会がしたい?」ということである。 正直言うと僕は昔から花見はあまりしない人である。年に一度きれいな花をじっくり見ながら宴席をしたいというのはよくわかるし、僕も昔は参加したものである。 しかしだんだんいやになった。ひとつは4月初旬の季節は外は寒いのである。単純に宴会に適さない。場所取りに何時間もかけ、寒くしばしば風も強い中で呑んだところで楽しくはない。もうひとつは、みんな花なんか愛でちゃあいない、ってことである。酔っ払いのどんちゃん騒ぎであればまだいい。会社の序列をそのまま持ち込んで酒を飲んで何が面白いのか。 さくらの枝ぶりなんて一言も話題にならない。 さくらは改めて別の日に眺めないといけない。

花見でえらく力んでしまったが、大なり小なりご賛同いただけるのではなかろうか。さっきも言ったように「生活の必要」の範囲を大きく超えて発達した現代社会の諸行為には、しばしば惰性で行われている大きな無駄、実はすきでもないのに(また稼ぎにもならないのに)やっていることがけっこう含まれている。そのことを大きく見直すよい機会であると思う。自粛といわず、生き方全体の再点検をしてみるのだ。

とまあこういうことがいえるのは、僕の住んでいるところが、致命的ではないにせよある程度の被害をこうむり、しばらくは被災地的生活が続いたためだと思うな。だから被災地外の人たちが相も変らぬ生活をすることを非難するつもりは全くない。 でも一言お伝えしておくと「2-3週間水道がとまりガスが止まるぐらいのことでも、生きるということへの見方が結構変わりますよ」と言っておきたい。


外国マズゴミを信じる愚か者たち

2011-04-08 15:06:35 | 時評・論評
日本の報道や政府・自治体・東電などの発表を信じず、海外メディアの報道を信じる傾向の一団がいる。こういう人たちはネットでも積極性が高いこともありかなり声が大きい。
結論から言うと、こういう人たちは陰謀説とか都市伝説のような話に簡単に絡めとられてしまう人たちだろう。

政府や東電はなにか隠しており日本のマスコミもグルだ、ということでネットと海外マスコミだけを信じるわけだよねえ。でもね、情報ソースが結構危ういのは読んでいるとすぐわかる。薄い情報と強い断定口調であればそっちを信じるというかなり民度の低い状態である。感情の沸点が低いから理性的に分析が整う前にすぐに感情的に言葉をぶつけてしまうんだよねえ。今回の件で言えばいかに米ソ及び中仏が大気を、海を汚染したのかということ、その程度がどのくらいだったか、ということに全く頭が行かない。大気中核実験500発の汚染はそりゃあ半端じゃないよねえ。そういうのもちゃんと見てから今の程度を見てほしいね。海外マスコミはそりゃそんなことは言わないよ。自国のほうがよっぽどひどいことをしたなんてね。

感情の沸点を高めに保ち、情報ソースの信頼性を吟味しつつ知識を深めてゆく。またいちいち白黒はっきりつけない必要もある。微妙な判断留保を重ねる。それでようやく「当面の結論」にたどり着く。こうした過程をとらない情報収集なり思考は単なるゴミである。ゴミは本来捨てるか自分の家にしまうかしておこう。公共の場所で撒き散らしてはいけない。

念のため言っとくけど、僕は政府や東電を頭から信じろって行ってるわけじゃあないよ。言いたいのは、彼らは隠蔽的工作・世論操縦が出来るほど意思・行動が統一されているわけでもないしそれをやり遂げるほど有能でもない。ただ混乱して、その混乱をそのまま外に見せて不細工なことになっているということだ。隠蔽があったのではなく素の情報を適切な形でコミュニケートできずごたごたしている。 でもね、これって大事なことだと思うよ。これだけ素の混乱が表に出るってコトは隠したり操作したりという意思が働いていない(あるいは成功していない)ということだからね。 民主主義万歳、でいいんじゃなかろうか。

さらに念のため言っておくけど、政府や官僚の組織的隠蔽の類は一般論として存在しないわけじゃあない。例えば、検察のいい加減さとか冤罪の量産のされ方を見ると、どうも警察・検察・裁判所・マスコミがグルになっているとしか思われない。そこには長い間に形成・強化された習俗のようなものがあり、その強固さは容易に他者の攻撃を許さない。そうした習俗の形成を許す批判の欠如も大きい。そうした「壁」への攻撃としてはマスコミに頼らないネット世論や場合によっては海外マスコミが重要な役割を果たす。
しかし今回は違う。そんな習俗の形成を許すほどおっとりした事態ではないし、批判の空白があったわけではない。