御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「オルテガ」に思う

2005-07-25 12:15:48 | 書評
「オルテガは言う。フェリペ四世とベラスケスの時代は、すでに帝国的英雄主義に疲労した生に達した第二世代である。真正と感ずる事業がない。それと共に緊張がない。緊張がなければ、人間を「調子よく」保つ規律がゆるむ。なげやりに陥る。なげやりは日常性である、と」

西部邁を読んだせいかオルテガに手が伸びた。とはいえオルテガの原著ではなく、オルテガを論じた新書である。西部さん、ということではなしにこの本はいい刺激になりそうだ。読みかけだが、実は僕は個人的にはオルテガの言う「危機」の状況にある。というか、ずっとその状態にあったのが顕在化したのかもしれない。

資産運用関係の仕事の中で「真正」と感じることの出来る仕事はない、というのが僕の危機である。考えて見れば前からそう思っていた。しかし、目先の知的な興味や義務感、他の人よりもよく出来ることの快感、金銭的報酬、学問的「権威」への若干の尊敬などで気がまぎれていた。しかしここにきてすべては空しく見えてきた。新たな空しさではない。今の会社が非常に順調ならばそれほど鋭くは感じなかったであろう、と言うに過ぎない。
ではなぜ今鋭く感じるか、と言えば、意外に会社が順調に進まず、また思い通りに組織も動かぬ中で、「いやそれでも!」という気概がまったくかけていることに気がついたためである。今の事業の成否は僕たちの財政的成否に大きな影響を及ぼすであろうが、社会的に、意味的には何ほどでもない。そういうことなのだ。
そう言えばニーチェの解説本を最近読み直したりもした。個人的なレベルで、従来的な生の意味を超えた意味の創造が迫られているのかもしれない。たぶん「明日が楽しみだ、なぜなら・・・」と言いうる何物かを見出す模索を始めているのだろう。

山田 優 の売り出し方・使われ方

2005-07-21 14:35:07 | 時評・論評
いまをときめく山田優について若干。正直言って私はテレビはあまり見ない人間なので資格はないことは重々承知している。もしお読みいただいている方がおられたら、まったくの素人の考察であるのでご笑殺いただきたい。

山田優が私にさえ目立つようになったとき、ふと思ったのは彼女の「空虚さ」の雰囲気である。大変な美人でスタイルもよいことは重々承知しながらも、どこか空虚な感じと、「単なる美人」という雰囲気が付きまとう。

まずは後者の話から言うと、彼女が如何に美人であっても、ファッションカタログに写っているあまたのモデルたちとさして変った空気がないように見える。美人が並べばそんなものとは思うが、気のせいかかつての藤原紀香のような別格感は弱い。いわば、「美人が好き」と「山田優が好き」が意味としてさして違わない。月並みないい方だが、あまりに整っているためか? 藤原紀香の場合はロシア系の血があるのか、後年貫禄がつきそうな「予感」があり、それが(僕にとっては)存在感を際立たせていたように思われる。

空虚さ、ということについてはちょっと表現しにくい。主に東京メトロのポスターを見てのことである。視線がなんとなく空虚な感じがする。顔を向けている方向にあるものとは微妙にずれた視線を感じてしまう。カメラに向いたショットもそうでないものも同様である。この人は上の空ではなかろうか、という雰囲気がちょっとある。

上記2点とかなり異なるのが最近の日焼け止め(だと思う)のコマーシャルである。水着で肌を大きく露出して、「ドウダ」ってな具合に演出している。むかしの夏目雅子の「ナツダカラコウナッタ」を思い出さないわけでもない。素材の競争力を前面に押し出したものである。しかし、しかし。これって山田優でなくともよいのでは?と感じる。

まとまらない話だが、要は山田優は売り出し戦略をもっと慎重にまた長期的に考えたほうがよいのでは、と思った次第。浅野ゆう子がもともとは「体を見せる」タレントとして長くすごしたが、W浅野前あたりからうまく戦略を転換し、てるてる家族の母親役なども出来る息の長い人になったが、そうしたことを山田優(のプロモーター)も2-3年内に検討すべきではなかろうか。素材への負荷が高い戦いではいずれ使い捨てになるのでは、山田優の場合特にそれが早いのでは、と懸念する次第である。ま、ブレーク中はなかなか手がつけられないとは思うがどこかで考慮は必要だろう。

うーん、このエッセイは文字通り噴飯ものかも。ここまで読んでいただき深謝。


「説明責任」というもの

2005-07-20 18:08:38 | 時評・論評
「説明責任」とはここ7-8年急速に一般語彙化した言葉である。よく アカウンタビリティ(説明責任) あるいは 説明責任(アカウンタビリティ) といった使い方をされる。しかし僕は寡聞にして本格的な意味づけの論考を知らない。そこで僭越ながら意味づけを論考してみようということである。


(説明責任と結果責任)
まずは皮肉な見方につき一言。確かに説明責任は「説明することで果たされる責任」であり、ひねくれたことを言えば、「説明さえできれば果たせる責任」ではある。ただ、説明責任は通常、行動責任と合わせて存在することが多いので、説明だけでことたれりとはいかない場合がほとんどである。これは次項で述べる。
さて、説明責任に対する言葉は何か。英語等の話はあとで考えるとして、日本語では多分結果責任である。説明責任を結果責任と対照するとすればこれは極めてわかりやすい。説明責任とは、最終的な結果を引き受けることができない人が、引き受けるべき人に対して必要な説明を行い、場合によっては重大な決断を仰ぐものである。
典型は医者と患者である。本来医者は患者にとっての「業者」であり、また医者は健康の維持・破壊、生命の維持・破壊といったきわめて重大なことについて結果責任を引き受けられないことは明白である。したがって、リスクの高い手術などを行う際には医者は患者に説明するとともに実施の可否を仰ぐ。理想的には患者の知識や心情のバイアスを考慮した上で全体としてバイアスのない理解になるよう説明し、患者が自分の事情だけを考慮して判断できるようにするべきだろう。もちろん簡単なことではないが。
資産運用の運用者と顧客の関係も同様である。ファンド運用の成果も被害も顧客のものである。顧客は自分なりに何が行われているか理解する権利は確かにある。そうでない場合は事前の了解が必要だ。
さて、ほかにも例は多々あろうが、基本的に説明責任が発生するのは
①他の結果責任を負う人またはその代理人から業務の委託を受けており
②業務遂行の結果が必ずしも保障できない
状況で発生する。医者やマネジャーは典型だが、ほかにもコンサルタント、弁護士、企業経営者なども入ってこよう。おおむね高級取りが多い点も特徴である(笑)。結果願望の「お布施」のおかげである。また、資格などで制度的に供給が絞られている点も大きい。職業上のリスクプレミアム、というきれいごと的説明はとりあえず却下しておく。
一方で、他者から委託を受けていても結果にそれほど振れがないものには説明責任は発生しない。宅急便はその集配・運び方の説明はしない。バスや電車もそうだ。当たり前と思われているもの、インフラ的と思われているものに近づけば近づくほど説明責任は発生しない。実を言うとこれらの分野はある意味過酷で、結果責任も負うことになる(事故の場合など)。薄給でもある。

(過程責任と説明責任)
と考えて見ると、説明責任は要はサラリーマンの仕事である。もうだれも言わなくなったが「ホウレンソウ」ってやつ。つまり報告・連絡・相談。上司の大局的指示(「売りまくってこい!」)をプロセス・実務として具体的に実行し(顧客回り)、その状況を報告・連絡して相談も行うこと。まさにこれは説明責任を果たしている。
説明責任というと説明をしてことたれり的なニュアンスがあるが、サラリーマンの場合、普通は行動責任と合わせて説明責任がある。これを一言でいうと「過程責任」ということになろうか。具体的なプロセスを考案し実施し説明して要所で判断を仰ぐ。まさによきサラリーマンのやるべきことである。
話はややそれるが、日本的経営と呼ばれたものは、結果主義に対する過程主義と動機主義の入り混じったものであったと思う。ここで言う「動機主義」とは、動機のよしあし、純粋さを問うもので、最近の中国の反日デモでうそぶかれた「愛国無罪」というやつ。確かに「愛社無罪」だったかな。結局反日デモの言い分と同じくタワゴトなんだけどね。過程主義に純粋に徹していたら日本的経営は強かったろうになあ、と思うね。

あれこれ責任だの主義だのか出てきたが、ここで整理しておく。

結果責任⇔過程責任

過程責任=説明責任+行動責任

(結果責任のとり方)
昔の話である。特金のマネジャーたちがのさばっていた80年代後半から90年ぐらいまで、しばしば彼らは「責任をとるのはわしらだから(何をやってもよい)」と言っていた。僕は心底頭が悪い奴らだと思った。顧客のアカウントが傷ついた場合、たとえば1億円損した場合、運用者はいかなる責任をとるのか?率直に言ってなんの結果責任もとらない。マネジャー本人も運用会社も1億円の損は一切面倒見ない。結果責任は全くないからだ。となると、顧客が結果責任をかぶっているわけだ。顧客そのような結果の可能性を含めてさまざまな結果の可能性を引き受けるため、納得のゆく説明が事前に必要なのである。

クリストファー・ソーン「太平洋戦争とは何だったのか」

2005-07-18 17:48:53 | 書評
戦後60年の節目に読むべき本としてどこかで推奨されていた。10年ぐらい前に買って埃をかぶっていたがこれを機に読んだ次第。
率直に言ってそう面白い本ではない。記述対象が背景であって前景でないから、どうしても地味な話となる。「鷲と太陽」という本は太平洋戦争の戦闘の全記述だが、はっきりと「鷲と太陽」の方がはるかに面白い。この本はその背後の動きを網羅した本である。合わせて読むとすこしは興味深かろう。いわばミドル・バックの歴史である。
太平洋戦争が人種間、男女間、社会的階層間などでどのような影響をもたらしたのか、人々はプロパガンダをどう捉えていたのかなどなど、書けばきりはないし、それが統一的視点に向かって収斂してゆくわけでもない。あえて言えば、よく団体競技であるように、チームは勝っても個々人の感情はさまざまであり、補欠がチームの敗北を願うようなゆがみさえある、それは連合国も例外ではない、ということかと思う。それにしても枢軸国側の「無関係」「非連携」ぶりはどうだろう。ほんと徹底してるね。ばかな同盟だったなあ。

なお、2-3の書評ではこの本が太平洋戦争の実態を暴くがごとく、東京裁判史観へのアンチテーゼのごとく取り上げていたように思うが、それは読んでないといっていいかもしれない。多分、帯とあとがきを見ているのだろう(笑)。評者の力量の目安には役立つ。

注目は翻訳の市川洋一氏。大変すばらしい翻訳をされているが、本業は東レグループのサラリーマンだった人である。定年後にどうやら本格的な翻訳をはじめておられるようだ。調べて見ると現代史・戦争史系の本格的な本で何冊か訳がある。昨年も1冊出ていたが、もう80歳になろうというお歳である。たいしたものである。

西部邁「友情 ある半チョッパリとの四十五年」

2005-07-18 00:50:06 | 書評
親族のために身を売られた母と、その母を身請けした、日本人に協力的だった朝鮮人の末の子として生まれた海野治夫という男と、著者西部氏の友誼の物語である。中学と名門の高校の同級生として過ごした2人は、貧しさとアウトロー的傾向を共有し、親しい間柄となる。その後著者は大学に進み学生運動に身を投じ逮捕され、アカデミズムに戻って、その後アウトロー的評論家として生きてゆくが、海野治夫は2年で高校を中退し、任侠の世界を生き始めた。40前後でヒロポン中毒となり、その後そこから生還するが、もとの稼業はうまくゆかず、恩人宅への放火という事件を機に組織に逆らい、そして自害する。海野氏は生前自分の来し方をつづって西部氏に送っており、西部氏は名誉ある義務を果たすべくこの本の出版にこぎつけたということのようだ。

話者の地位にかかわらず姿勢を正して読むべき話、聞くべき話というのは確かに存在するが、まさにこれはそれに当たる。これは鎮魂の書である。鎮魂の読経の音をいずまい正しく聞くのは当然である。
感想を2-3.第一に思うのは、戦後という時代はそれなりにひどい時代だったのだな、と思う。北海道という土地の問題、アウトローへの冷たい視線、朝鮮人問題、娼婦、BC級戦犯、貧困救済の仕組不足。海野氏や西部氏に社会がしたことを振り返れば、ひどい奴らとしかいいようがない。そして、その一方で、もしかしたら僕も彼らの至近距離にあれば、凡庸なひどい奴の一人に名を連ねていたかもしれない、と思う。
第二に思うのは、にもかかわらず西部氏の筆致にやわらかさが感じられることに意外さを覚えた。これまで13年間負債となってきたであろう、故海野氏の原稿と遺志にようやく答えられる安心感からか、軽やかというべき筆致である。あるいは西部氏ご本人が「丸くなった」ということだろうか。さしもの硬骨の論客も、「もういいや」という境地に達しつつあるのかもしれない。
第三に、西部氏の奥さんはとても素敵である。ところどころに脇役として登場するのであるが、なんとも頼もしい戦友であろうか、西部氏、故海野氏、そして潔い生を全うしようと生きる男どもにとって。まさに、士は自分を知るもののために死す、である。大衆に迎合せぬ気持ちのよい生き方をする人々の裏には必ず西部氏の奥方のような存在があるにちがいない、と思った。

昭和の悲哀を鎮魂する、一流の歌であった。 合掌。

金融と分配の問題ー赤字国債問題を手がかりにー

2005-07-11 12:01:51 | 時評・論評
金融的な問題と実体経済を切り分ける視点としては次のような段階わけが適切であると思う。

(1)金融は分配問題である
・乱暴に言ってしまえば金融は第一に分配の問題である。貯蓄とは現在の消費と将来の消費の分配であり、税金とはいったん各経済主体の懐に入った購買力の再配分である。また部門別の貯蓄超過と消費・投資超過は、現時点における購買力の分配であり、その結果として(または同時的現象として)貸借関係や贈与関係、さらに税による再配分が実施される。

(2)仮想的主体と実体的主体の区別
・主体の中には実質的主体と概念的主体が存在する。「国」「政府」は実質的要素を持ちつつも多くは支出を代行するための中間的概念主体に過ぎない。
たとえば、税金で公共投資をするとすれば、それは国民が橋や道路を「買った」のである。もしそれが国債発行によるのであれば、将来の税収をカタにして国民が橋や道路を買ったのである。国民は発行された国債分を債務として保有するが、一方で、財政赤字が国内でファイナンスされるとすれば、債権を持つのも国民である。従って、理論的には国民間の債権債務分配の問題である。
日銀の引き受けにより、資産として日銀が国債を保有するとすれば、それを支える日銀の債務、すなわち通貨を通して国民間の債務負担が行われる。ただし、償還時にはやはり将来税収で償還されるとすれば、日銀の部分は仮想的中間体に過ぎない。

(3)ではなぜ赤字は問題か
・赤字国債が問題になるのは、赤字自体と言うよりも、国民の代理人としての「国」が適切な買い物をしていない、ということである。国民は公務員の高給支払いや無駄な道路や橋は望まないだろう。また、割高になるような買い方も望まない。
・従って論議すべきは、いかに国民の総意に基づく誠実な買い物がなされるべきか、という問題である。従って、赤字黒字とは一義的には関係がない。代理人としての国がしぶちんで、橋がぼろぼろになるまで放置しつつ黒字を溜める、というのはやはり適切な代理人ではないということになる。
・民営化等の論議は実はこうしたことを推し進めるものである。少なくとも事業の継続性へのプレッシャーを通じて効率・収益は上がり、税の補助(将来的なものも含む)が減少する。
・民営化に限らず、いかに税・準税の支出の適切な執行者を決めるか、その仕組みを作るか、という問題は感情論を排して「勘定論」で論議される必要がある。実は国の予算執行自体もそうである。役人に節約・効率インセンティブを与える仕組みが必要である。

(4)真の政治ー公正な分配ー
・論議はここでとどまるわけではない。(3)までの論議をきれいに整理できたとしても、それは納税者という「株主」に正当に答える、政府という「経営者」ができるに過ぎない。「に過ぎない」と言っても、もちろんそこまで行けばたいしたものである。
・そうはいっても、国という共同体が企業を超えた正統性を持つとすれば、今度は価値の領域に踏み込まざるをえない。つまり、公正な分配あるいは再配分のルールとはなにか、ということである。
・ホームレスと「六本木ヒルズ族」のあいだに100億倍の分配の差を設けてよいのか、いやそれはせいぜい1万倍だというのか。じゃあ1万倍にするときに下をどの位あげるのか上をどの位削るのか。それはどうやって実現するのか。それに伴う全体としての生産低下はありうるのか、ありうるとすればそれはどのくらいまで受容可能か。そんなことを国民の信託のもと誠実に論議・実行するのが政治というものだろう。

普通の論議は(1)で躓くので、分配の正義なんてとてもとても。難しいもんです。

病院のビジネスモデル

2005-07-07 12:09:48 | 時評・論評
指先にちょっと大き目の怪我をしたのでしばらく通院した。傷口を消毒して見立てて、薬を塗って包帯巻いて終わり。そういうのを繰り返した。
そのときふと思ったが、こういう治療だとずいぶん単価が安い。窓口で300円あまり払って終り。ということは保険分を含めて千円程度にしかならない。いかに単なる消毒とは言え、一応医師という専門家の見立てを行い、それなりにガーゼを替えたり薬剤を塗ったりする。それで千円というのはいかにも安い。
と思ったら、そういえば時間は短い。一人5分とすれば一時間で12人、1日で6時間見るとして72人。千円としても7万2千円にはなる。そういうことのようだ。だから大勢人を集めて待たせておいて、ベルトコンベア式で処理することになる。千円散髪のようなもんだ。待たされる人も安いのと医者の機嫌を損ねたくないから文句は言わない。
あと、正直言って消毒と包帯替えぐらいは家でもできる。あんなに何度も行く必要もなかろう。それでも見立てがある程度必要ならデジカメで写真をとってE-mailで送ればよい。それを敢えてこさせて回数を稼ぐ。要は安い単価をたくさんこなす、と言うのが医師の仕事の本質かもしれない。
単価によってその辺は変って来るのだろう。たとえば歯医者は単価が高いから予約制で治療時間も長い。

と、つらつら考えたが、上記の収入では看護士・設備・薬剤等をカバーした上で医者に高給を出すにはちょっと足りないだろう。ほんとのところはどうなっているのだろう?大変興味深い。

林望「帰宅の時代」

2005-07-02 21:58:01 | 書評
納得できる本であった。自分の実力を磨けとか、これからは起業の時代だ、といった本を読むにつけ、もっともと思いながら違和感で胸がざわついていたが、林さんの本はすんなりと入ってきた。

言っていることはそんなに奇異なことではない。会社人間、仕事人間をやめて、自分らしさを磨き悠々と誇り高く生きようではないか、ということ(第一章)。会社人間、仕事人間に対して、これは「自分人間」宣言とでも言えばいいかな。実はその意味では起業のすすめの本とよく似ている。ただ、「自分人間」の分野が必ずしも「儲け」の方向に行かずに済んでいるので、起業の本よりは落ち着いて読めた。

ご本人は「自分人間」を早々と小学生のころからしていたので、それなりに大変ご苦労されたようだ。(第二章) イギリス留学前後までの苦しい生活はさらっとかかれているがほんとに苦労だらけだったのではなかろうか。そのイギリス留学がきっかけでいわゆるBreakをしたわけで、もともとの地力があるからその後も一定のポジションを確保しているのだろう。それでいまはある程度豊かな自分主義者となっているということだろう。
ところで、と思うのだが、もしかしてそういうきっかけもなかった場合、林さんはどのような40代、50代を迎えていたのだろうか?どこかの名もない短大か何かの専任講師どまりで薄給に苦しんでいた場合、どこまで自分主義者でいられたのだろう。意地悪で言っているのではない。お金の切実さを想像し、問いかけているのである。

第三章「自分らしさ」を見つけるための六カ条 はまとめ。本居宣長の引用がなかなかすばらしかった。ちょっと長くなるが引用する。
「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずしてはげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかようにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれは功はなし。又人の才と不才とによりて其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし。されど大抵は、不才なるひとといへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也。又晩学の人も、つとめはげめば、思いの外功をなすことあり。又暇のなきひとも、思いの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思いくづをれて、止むることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、できるものと心得べし」

そのほかもうひとつ(2章から)。
「コンピュータの場合、アプリケーションソフトの性能を高めても、OSがそれと連動してバージョンアップされることはありません。しかし人間の場合は、ここのソフトを磨いてゆくことが、その大本のOSを磨き向上させていくことにもなるのです。
私自身は一人前の国文学者になりたい一心で勉強していましたが、それは「国文学の勉強」であると同時に「勉強の勉強」にもなっていた。どんな勉強も徹底的にやれば、間接的に自分のOSがバージョンアップされていくのです。
そして人間の能力でもっとも大事なのは、専門性の高いアプリケーションソフトの部分ではなく、このOSの性能です。OSが優れていれば、新しいソフトをインストールしても問題なく稼動する。つまり新しい分野に手を出しても早く上達するわけです」
←「一芸に通ずるものはすべてに通ずる」ということばがあるが、その具体的で納得的な説明を読んだ。

自分の生き方をScrachから組み立ててみようかな。