御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

若いあなたへの手紙

2005-02-28 09:15:03 | 時評・論評
研修、お疲れ様でした。論文作って発表、みたいな話は僕も昔覚えがあります。保守本流の金融機関にいましたんでね。徒労感、何の意味があるのか、という疑問は何度押さえ込んでも湧き上がり、決して楽でない作業・研究・書き込みの中で困惑した記憶があります。
 でもこういうものはほんとはよき伝統だったんでしょうけどね。月並みな言い方ですけど、家族的経営、つまり職員の清濁を併せ呑み、どんな形であっても「最後までお前は○○一家の一員だ」いう覚悟と気概のオーラが組織内にある限りは、論文のような研修的制度も意味は大きかったんじゃないかなと思いますね。その内容そのものと言うよりも、組織帰属の再確認と言う意味において。僕が会社に入った1980年はそのような共同幻想も持ちえた時代でしたし、そんな共同幻想は大好きですね、今でも。 
 数年前ある家電メーカーのコマーシャルで、退職した技術主幹たちが数名で見本市を訪ね、その会社のブースでDVD鑑賞用の製品を手に取りながら「小さくなったねー」「たいしたもんだねー」「僕らのときは・・・」などと談笑して立ち去りかけたところで、ブースに詰めていた若い社員が「あ、先輩・・・・」と控えめにつぶやくような語り掛けるような声を発して終わる、と言うのがありました。 正直感動して涙が出そうでしたね。その会社の技術職人という脈々たる伝統の一部になり得た人々(元技術主幹)、そしてそれを多分留保条件なしに尊敬し憧憬する若者。僕もこういうコミュニティーの一員となりたかったなあという痛切な羨望も感じた次第です。
 30秒の画面で象徴されたような美はほんとのところ存在したのかどうかわかりません。でもそのような幻想をつむいで感動する人こそあれあざ笑うような人はいない、という世界がかつてあったことは確かだと思います。今はもう無理でしょうね。じゃあなぜか、家族主義の共同幻想に取って代わったものはなにか、とか、じゃあプロジェクトXは何で続いているのか、といったことを語りたいところですが、それはまあそのうち聞いてください。
 あなたの迷いもためらいも疑問もすべて意味あることです。そしてそれを押さえ込んで目先の命題を果たしてゆくことも。大いに迷い戸惑い仕事をしてください。そのように生きて間違いはありませんので。
ではでは、お元気で。

純一郎。

終戦のローレライ 読了

2005-02-27 20:56:33 | 書評
やっぱり「彼女」は女性だったのか。何でかぎかっこつけてぎこちない表現にするんだろう?
さて、全体的な読後感は「面白かった」かな。暴力性・残虐性の支配する中での高い精神性、というと村上龍のヒュウガ・ウィルスに似てなくもない。
圧巻は海戦、とりわけ潜水艦戦の描写である。ただ、ローレライの感知によって一方的な有利さもあること、見えず耳だけが頼りのイメージが出なかったこと、などからレッドオクトーバーの潜水艦戦のほうがよりリアルだったかな。
映画の宣伝では「命をかけても、守りたい」という決め台詞とモーツアルトの子守唄が挿入歌となっているが、前者のせりふは小説の中ではなかった。あったとしても出てくる軍人のほとんどは命をかけて何らかの価値・もの・人を守ろうとしており、改めて口にするほうが妙だ。後者に至ってはどういうことなのか見識を疑う。歌は小説のとおり「椰子の実」でなければならない。まず日本の歌である必要があるし、それが明治の女性の口からヒロインに伝わる必要があるし、人・民族の流浪を暗示する歌詞でなければならない。
通常の書評的には「戦争の意味、死の意味を問う重い作品ながら、抜群の海戦描写とテンポの小気味よさで一気に読ませる」ってとこかな。そのとおりだと思う。ただ、戦争の意味、その中での死の意味に答えが出ているわけではない。それを問うこと自体がひとつの舞台装置なのであってそれ以上のものではない。そのことは作者も心得ていると思う。

「終戦のローレライ」読み始め

2005-02-23 19:49:30 | 書評
最近小説を読まないなあ、と気になってはいたので、映画にもなった「終戦のローレライ」を買った。4巻あるから文庫とはいえ2千5百円ぐらいする。映画1500円で見たほうがよかったかなあ、ってちょっと後悔もしたが、ま、レッドオクトーバーの映画と小説の違いからすりゃ、小説読んだほうがよっぽど楽しめるだろう。
読み始めたばかりだが、潜水艦を主語とするのに「彼女」とカッコつきでしかも英文の和訳をそのまま使っているのはいただけない。それは、とかその物体はとか、あるいは苦心するかもしれないけど主語を隠すとか、なんか工夫があったろうに。ま、筆者としても試行錯誤はしたんだろうけど。叙述自体はなかなかいいだけに惜しまれる。福井敏晴は亡国のイージスを読んだ事がある。とても面白かったが最後の方の艦長が死ぬ場面がやたら長く、巨人の星でボールがキャッチャーミットに収まるまで30分で終わらないのと似た感覚があった。全体は面白いのだから、煮詰まってしまってやりすぎる作家をちゃんとコーチする編集者がいればいいのにな、と思う。「彼女」だってそういうことを会話にする場があればもっといい表現になったかもしれない。
おっとまずいまずい。まだ数ページしか読んでいないのにしゃべりすぎ。読んだ部分より長くならないうちにこの辺で。

マネジメントの時代

2005-02-22 12:53:35 | 書評
今朝の日経のドラッガーの私の履歴書読んで、長いあいだお蔵入りしていた「マネジメントの世紀」のスローンの部分を読んでみた。印象に残った部分を抜き出しておく。

スローンの組織モデルはその時代には正しかった。組織の生態に必要な明快性をもたらした。1920年代、1930年代、そして1940年代にはすばらしく機能した。GMがそれから前に進まなかったのは組織モデルのせいではなく、最近の幹部の落ち度であった。徐々に、スローンの遺産を生かして会社を構築するのではなく、遺産で何をしたらいいのかがわからない会社になってしまった。


仕事と思想 あるいは商売と思索

2005-02-21 23:41:15 | 時評・論評
昔は会社の偉い人には何か思想があったりする印象があった。たとえばこの僕だって、もし日本の会社に残っていれば何がしかの思想のある人物に思われていたに違いない。だって方法序説や中世の秋を読んでる同年代なんていないぞ、オホン。そんなんで盆栽の趣味を競うがごとく鴎外の研究だのなんだのしている人たちがいたなあ。
 もしかするとそれらの人たちはたいしたものだったのかもしれない。でもね、時代は変わっちゃいましたね。そんなことやってるからってどうしたってこった。八百屋に学問はいらねえ!ってのとおんなじで、商売人に教養はいらねえや。人当たりのよさ、性格の強さ、一応読み書きそろばんができる知性ぐらいありゃいいんじゃないかな。あとは運とやる気と根気。
 結局は一時期の、平岩外四が「哲人経営者」なんていわれた時期の経済界は、趣旨をはきちがえたサロンだったんだね。思い上がっちゃいけなかったんだよね。上司におもねる人間が偉くなるのと同じぐらい、あるいはそれ以上に教養ある人間が偉くなるのはいけないよね。みんな教養を磨くようになるから。そりゃ勝てなくなるわ。商売なんてそんな高級なサロンの微妙な勝敗じゃないんだから。ま、ビジネスがサロン内の出来事だった業種であり時期であったなら教養も商売に役立ったかもしれませんがね。
 何がいいたいかというと、ビジネスと教養は相互に独立であるということ。無関係なんだよな。だからあきらめましょう。正義がかつとか知性がないとだめとか思うのは。商売には商売のルールがある。あったりまえだけどね。