御託専科

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大野佐紀子「アート・ヒステリー」

2012-11-11 14:50:07 | 書評
いやはや、また2ヶ月あけてテンプレートを変えられてしまうところであった。正直暢気にやらせてもらいたいとは思う。無料のクラウド的サービスをしている側としてはサーバー容量がもったいないのは良くわかるが、ならば入り口を少しハードルを上げてはいかがだろうか?
などとわかりもしないことでえらそうなことを言ってはいかんね。ま、お任せです。

表題の本は今週仕事がらみの外出先からの帰りにふと寄った六本木の青山ブックセンターでふと目にして、立ち読みで済ますつもりが買ってしまった本である。今週は別の日にも「司法殺人」を立ち読みで済ますつもりが買ってしまった。それら2つが従来の読書に乗ってきたので忙しい忙しい(笑)。もちろん会社の仕事もあるしね。ま、そんなことはいいわけにはならぬのだが、読みは少々荒いかもしれない。

著者の本では前に「アーティスト症候群」を読んだことがある。確か図書館で借りたんだったかなあ?買ったのかもしれないと思い文庫版が出ているのは買っていない。このブログにもしかして書いていたら全くお笑いだが、あんまりはっきりした記憶はなく、あっちこっちでアート、アートと言っている輩や言説はほっといてよし、ということらしいことだけを得心した。

この本は前の本よりはなにやら印象が強い。恐らく著者の視点もこなれて、アートと人々の心理や社会、市場の関係をより大きな目で記述し理解しているからだろう。1章は日本でのアートなるものの受容の過程での、あるいは西洋における印象派以降の評価市場形成における、それぞれ歪み(僕にはそうとれた)が語られる。そうか、そんなものか。そんな出自を持つものたちを、その文脈まで降りて行っていいだ悪いだ言うもさしたる意味はないなと。まあ興味が向けばやればいいし、興味が向かなければやらないでよかろう。もちろん生活がかかってりゃあやるけどね。

2章は日本の美術教育のゆがみが語られる。子供の純粋さと想像力に幻想を持つがあまり、歪んでしまった教師たちの頭の中が語られる。前に国語教育で僕はそういう文章を書いたことがあるが、確かに美術は国語以上に始末におえない。国語はまだ文法や単語や漢字といった技術論があるが、絵画は技術論なしにやっちゃうわけだからなかなかすさまじいことになるようだ。学校で教えるべき美術が何かは僕はわからんが、恐らく著者や金子一夫氏の言うとおり(他の科目同様)教えるべきは技術と知識であって感じ方ではない。これは国語と音楽と美術以外では徹底されている。音楽も技術論に忙しいので(それとクラシックを教えると言うピントはずれもあり)幸いそれほど害はない。国語はまあ有害だね。文学系の話を読んで感じ方を強制してくるほどアカン話はない。美術と比べてまだましなのはそれが国語という科目の一部で済んでいるためだろう(でも問題だよ)。

3章は題名のとおりである。まさにいまのアートは「そこの抜けた器」である。ここではラッセン・ヤマガタの例、バンクシー・ティエリー(Mr.ブレインウォッシュ)の例、そして村上の例が挙げられる。ラッセン・ヤマガタの例の検討では中ザワヒデキの問題提起が印象的である。大衆の支持を受けるラッセンやヤマガタの作品をアートでなく単なる「売り絵」として無視するのなら、アートの側は「わかる人にはわかる」という権威主義を持ち出すしかない、と。これはある意味痛烈な批判である。北斎を称揚しなかった当時の日本国内と似ているのやらどうなのやら。著者は更にラッセン・ヤマガタとオウムをバブル崩壊後の陰陽の組み合わせとして論じるがここはいまいち同意できず。バンクシー・ティエリーの話は、「アートワールドが金のかかる大掛かりなジョークのようなシステムと化している」との一言がすべてを語る。ティエリーがただのバンクシー追っかけからアーティストとなるのはまさにジョークである。さて、僕も関心の高い村上隆だが、村上隆は著者の見立てでは西欧のハイコンテクストなアートサーキットに日本のオタクのハイコンテクストな文化を翻訳して紹介し、そのことによりセルフオリエンタリズムの文脈を形成した。これにより非嫡出子ながら一人前の闘争力を得た。そうして西洋文脈での「父親殺し」も視野に入ってきた。しかし考えてみれば彼は芸大の日本画科の博士課程卒、という、日本では天皇を父とする嫡子である。これら両方の父に彼はなにをどうするのか。また彼がGeisaiやカイカイキキで取っている父親的ポジションは? ところで今やこれだけ強大となった彼が父親殺しを実行する必要があるのか。そもそもひ弱になった父に対して。 などなどと、少々まとまりはないようにも思われるが、確かに彼のアートよりもこうした彼のポジショニングであり行動に僕も興味は尽きない。
3章では岡本太郎にも触れられている。これも興味深いが恐らくいいたいことは、「明日への神話」を題材に、アートの異物性、いや異物性こそアートであることを論じている。

さて結論。といっても単純ではないが、僕は以下を結論として感受した。
「アートの延命力とは紛れもなく、制度と市場の延命力だった。近代に始まった美術館制度と学校制度、マーケットやメディア、それらすべての場で生計を立てる人々がいたから、アートは終わらなかったのです。近代の機構とそこに乗っかった「アートへの欲望」が、アートを何度でも蘇るゾンビに仕立てあげてきたのです。」(初版251ページ)
「こうした中で必要なのは、「アート=普遍的に良いもの」という信仰から、できるだけ遠ざかることです。アートの世界で喧伝される「可能性」や「豊かさ」という幻想から離れる。」